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インドネシア ファッション ─海のシルクロードで花開いた民族服飾の世界─

2016年09月01日号

会期:2016/07/09~2016/08/28

町田市立博物館[東京都]

戸津正勝氏(ハリウッド大学院大学アジア服飾文化研究所所長・ 国士舘大学名誉教授)が地域研究のために40年に渡って蒐集したインドネシアの染織品の数々を紹介する展覧会。展覧会ではこれら多様な染織を、主として地域別に展示している。インドネシアの染織には大別して蝋を防染材としたバティック( 纈染、ジャワ更紗)と、先染めの糸で織るイカット(絣織)がある。本展図録に付された地図(8頁および66頁)によれば、出品されているバティックの産地はジャワ島、イカットの産地はジャワ島を除くインドネシア各地に拡がる。すなわち、地域別展示は技術別展示でもあり、また多民族国家のインドネシアにおいて、民族別の展示でもある。地域・技術・民族の違いは、染織デザインの違いを生むが、インドネシアの染織の多様性の源泉はそれだけではない。古くから海のシルクロードとして海上交通の要所に位置したインドネシアの島々には、貿易を通じて多様な文化(インドのヒンドゥー文化や仏教文化、ペルシャやアラブのイスラム文化、中国文化、西洋のキリスト教文化など)が到来して土着の文化の上に重層的に受容され、また350年にわたるオランダの植民地支配、第二次世界大戦前の日本軍政時代もその文化に影響を与えてきたことを戸津氏は指摘している。分かりやすい例としては、オランダ人やオランダの兵士、艦船を図案化したバティックがある。日本軍政時代の影響を伝えるものには「ホーコーカイ」と呼ばれる柄のバティックがある。ホーコーカイとはジャワ奉公会から名付けられたもので、戦中から戦後にかけてつくられた柄。筆者の目には他のバティックとの違いがよく分からないが、現地の人々にとっては日本風、エキゾチックなものとして人気だったらしい(このホーコーカイ柄のバティックは、松濤美術館のサロンクバヤ展でも見ることができる)。また、オランダ統治下においても日本人商人はジャワに進出しており、彼らの店はトコ・ジャパンと呼ばれた。本展にはトコ・ジャパンのひとつ、トコ・フジという店が制作したバティックの制作プロセスを示したパネルや、イギリス製と日本製の綿布の品質を比較したバティックのサンプル(イギリス製が最上級とされていたが、日本製も遜色がないことを示している)、店の取扱品目のテキストを染めた布が出品されている。
個々の産地にとって染織品は重要な商品であり、そのデザインやクオリティにはつくり手の趣味嗜好以上に製品の消費地における民族や階層の嗜好が反映される。消費者の変遷という点においてバティックにおける変化は特徴的だ。もともと王宮文化のひとつであったバティックは、17世紀以降になると庶民の間にも普及し始め、技術を独占できなくなった王室は王宮専用の模様を制定しその使用を庶民に禁じることで自らの権威を守った。こうした特定のデザインの独占は、第二次世界大戦時まで続く。
国際貿易で繁栄したジャワ北部海岸地方の都市は多様な外国文化の影響を受け、企業家たちは技術革新にも積極的だった。ヨーロッパから化学染料を導入することで鮮やかな色彩のバティックが登場する。また銅製のスタンプを使用することで生産性が上がった(もちろんデザインもスタンプに適したものに変わった)。
戸津氏は政治的・民族的アイデンティティと染織との関わりも指摘している。第二次世界大戦後に独立したインドネシアの初代大統領スカルノは、服飾文化としてのバティックに着目。小学校・中学校・高等学校の制服にバティックを採用するように指導するとともに、公務員にもバティックの着用を義務づけた。多民族国家インドネシアには他にも多様な染織製品があるにも関わらず、ジャワ島を代表する服飾文化のバティックが国民文化と位置づけられ、内外にアピールされてきたのだ。展示のスタイルだけを見ると本展は一見したところ染織工芸の展覧会のようにも見えるが、その背景にあるものを読むと、これは確かにファッションの展覧会だ。[新川徳彦]


会場風景

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