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DULL-COLORED POP 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』、第二部『1986年:メビウスの輪』、第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

2021年03月15日号

会期:2021/02/09~2021/02/11

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

福島県双葉町の農家に生まれた三兄弟をそれぞれ主人公に据え、原発誘致の決定から東日本大震災における原発事故までの50年間を、一家族の大河ドラマと重ね合わせて描く三部作。2018年に第一部、2019年に第二部と第三部が上演され、2020年に岸田國士戯曲賞を受賞した。DULL-COLORED POP主宰の谷賢一は福島県生まれで、原発で働く技術者を父に持つ。モデルとなった実在の双葉町町長、東電社員、被災者たちへの2年半にわたる取材を元にした合計約6時間の大作が、TPAM 2021で一挙上演された(筆者はオンライン配信を観劇)。

第一部『1961年:夜に昇る太陽』では、東大で物理学を学ぶ長男の穂積孝が主人公。地元の顔役である祖父の元に、東電社員や双葉町町長、県庁職員が土地の売却を持ちかけ、原発誘致の決定までを描く。「夜」すなわち「貧しい東北地方の中でも最貧県」と言われた福島に、産業の発展と経済的恩恵をもたらす「明るい未来のエネルギー」である原発への夢が、明治以降の福島が被ってきた政治的不遇と経済格差、日米安全保障の陰に潜む核武装への欲望といった政治史的背景とともに語られる。


第一部 [撮影:前澤秀登]


第二部『1986年:メビウスの輪』では、かつて原発反対運動のリーダーだった次男の忠が主人公。原発稼働から15年経った双葉町では、住民の1/4が原発関連産業で働き、税収の半分も原発に依存する。「原発建設で土建屋が儲かり、税収が増え、公共施設が建ち、工事を請け負う土建屋が儲かり、さらに税収が増える」という依存のサイクルから抜け出せなくなった町。だが、安定した原発関連工事の供給がなければ、この先も現在の経済状況を維持できないことは明らかだ。そんななか、第一部で原発誘致を働きかけた町長の汚職が発覚。地元の政治家たちは忠に町長選出馬を持ちかけ、「元原発反対運動のリーダーだからこそ、原発の危険性を東電や国に強くアピールし、引き換えに補助金と安全対策の補修工事費のカネを引き出せ」と迫る。「原発反対だが推進する」という矛盾した立場を引き受けた忠は見事当選するが、チェルノブイリ原発事故が発生。ロックミュージックに乗せ、記者会見で「日本の原発は安全です」と連呼する姿は道化のようだ。



第二部 [撮影:前澤秀登]


第三部『2011年:語られたがる言葉たち』では、地元テレビ局の報道局長となった三男の真が主人公。県民への取材を通して、放射能の風評被害、被災者どうしの分断や差別の再生産があぶり出されると同時に、視聴率(資本主義)と報道の使命とのジレンマが描かれる。また、原発事故後、精神を病んで入院した兄の忠に対して、元町長としての言葉を引き出そうとする真の、家族への思いと使命感との葛藤も描かれる。

それぞれが唱える「正論」「正義」「理想」の対立がドラマの推進力となるオーソドックスな作劇手法であり、感情をぶつけ合う俳優たちが「クライマックス」で泣き笑い絶叫する演技も王道である。また、「科学技術」「政治経済」「報道」という三つの視点を三兄弟に担わせ、史実や取材を元に膨大な情報を台詞に落とし込みつつ「家族ドラマ」としてのツボもしっかりと押さえる構成は、よく練り上げられている。三部作全体をとおして、田舎/都会、地方/国、原発推進/反原発、搾取/依存、父(家父長)/息子といった二項対立的構図を描きながら、最終的には第三部で「単純な二項対立ではすくいとれない多様な声に耳を傾けること」が提示される。

ただ、戦後日本社会の構造的歪みを徹底して描出する本作だが、もうひとつの「歪み」が(おそらく無自覚に)戯曲に内在化しているのではないか。それは、「それぞれの正義と理想を胸に生きた男たちの熱いドラマ」の脇に配された、女性の表象のあり方である。ドラマの構造もテーマ自体も「男性の領域」であるからこそ、その男性中心主義性をどう批評的に捉え直すかが鍵となるはずだ。だが、第一部・第二部で登場するのは、「肝っ玉母さん」「故郷で待つ恋人」「背中を押してくれる妻」という「対立しつつも最終的には理解し、傍で支えてくれる」応援団的な役割である(ちなみに、第二部で町長に担ぎ上げられる忠を見守るのも、「モモ」という名の忠実な雌犬の魂だ)。


第三部 [撮影:前澤秀登]


そして、それ以外の女性登場人物が「増えた」第三部で提示されるのは、「無垢な犠牲者」と「産む性」への還元という二極への収斂である。テレビ局員に取材されるのは、「放射能に怯える妊婦」、「妻と娘を津波で流された男」である(「無垢な犠牲者」は「女性」でなければならない)。また、放射能汚染を動画で訴える女子高校生に対して「差別を広げるだけだからやめろ」「放射能がうつるから口をきくな」と差別感情をぶつける若い女性の対立が物語の軸のひとつとなる。両者が共有するのは「出産への不安」であり、彼女たちを取材した女性テレビ局員の「原発事故後、女性社員のみ自宅待機命令が出た。本能的に怖いと思った。生理なんて鬱陶しいと思っていたのに、自分が産む性であることを自覚した。女性にはそういう得体の知れない直感がある」という台詞は、「産む性」としての一方的な本質化にほかならない。


第三部 [撮影:前澤秀登]

このジェンダーをめぐる本質主義が物語の帰結において必須であることが露呈するのが、病室の忠が最期を迎えるラストシーンだ。寄り添う老いた妻は「あんたは、ただ町の発展のために尽くしてきただけ。他人が悪く言おうとも、私だけは愛している」と呼びかける。「死は(再)生への新たな出発」であると語られるなか、「この道はいつか来た道」の童謡を優しくあやすように歌う妻。それは、死を看取りつつ、再び誕生へ向かって送り出す「母」の二重化された存在であり、本作が最終的に希求するのは「すべてを赦し、癒し、そして自分を再び産み直してくれる大いなる母」である。ここで、忠を看取って(再)生へと送り出す彼女が、第一部では長男の恋人、第二部では次男(忠)の妻と、役割を変えながら三部作すべてに登場していたことに留意しよう。それぞれ別の女優に演じられ、別人のようにも見える彼女こそ三部作を貫く影の主人公であり、そこに投影されているのは、「戦後日本の構造的病理がもたらした傷を、男性中心主義への反省を欠いたまま、癒しと赦しの役割を女性に求める」という幻想の物語である。

TPAM 2021
公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2021/


2021/02/09(火)(高嶋慈)

2021年03月15日号の
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