artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

大駱駝艦・天賦典式 創立45周年『擬人』

会期:2017/09/28~2017/10/01

世田谷パブリックシアター[東京都]

大駱駝艦の舞台には、文明論を語るという特徴がある。現代社会のありさまとは何か、そこで人間はどう変容しているのか、そうした問いを大づかみで捉え、客席に投げかける。日本のコンテンポラリーダンスが「日常」に自分の座を据えてきたのと比べると、文明論的な視点はダイナミックに映る。文明を語ることで、まるでハリウッドあるいはネット配信のSF映画のようなエンターテインメントへと接近するのも面白い。舞台の冒頭、2列で横並びになった踊り手たち10人ほどが、顔を観客に向けてしゃがむ。すると、「カクッ、カクッ、カクッ」と小刻みに首を傾ける。時計の秒針のような規則性は、その身体が「作り物(人造人間)」つまり「擬人」であることを示唆する。その規則性が全身におよび、歩く姿もカクカクしている。そこで生じるシンプルな動作の反復は、GIFが作るループのような独特のグルーヴを生み出す。大駱駝艦が得意とする群舞は、こうした「人間に似たロボットの跋扈する世界」を描くのに効果的だ。舞台中央には、KUMA(篠原勝之)制作の樹木が一本立っている。幹はときどき青く光る。生命が機械化した世界の象徴だ。「擬人」たちはガラスケースに陳列されている。両腕に長い金属の義手を着けた女が彼らに合図を送る。すると、彼ら擬人は上半身をむき出しにして回転しながら動き出す。その動作も繰り返されることで、奇妙なグルーヴ感が生まれてくる。麿赤兒は、打ち捨てられたはずのダッチワイフ型の人形に紛れて、樽に入った状態で現れる。怯えたような表情が、麿独特のテンションを引き出す。その後、両手両足を鎖で繋がれたフランケンシュタインみたいな男(村松卓矢)も現れると、ゴジラを彷彿とさせるような大声で吠える。男は、サーカスの支配人?らしき人間(KUMA)に操られている。麿扮する人物もこの人物に囚われるが、最後に、自分の鎖を巻きつけ、形勢が逆転したところで、スクリーンに「つづく」と文字が出て本作は終了。最近映画の世界では二部作形式のものがあるけれど、まさにそうした作りで、翌週上演の後編『超人』に続く。

2017/09/28(木)(木村覚)

福留麻里『抽象的に目を閉じる』

会期:2017/10/27~2017/10/28

cumono gallery[京都府]

ダンスを踊る体は、踊りの祝祭性に熱くなって、非日常へと飛んでしまい、我を忘れがちだ。けれども福留麻里の体は、舞台に立っていながら、目を瞑り、耳をすまし、目をすます。彼女の体につられて、観客のぼくも耳をすまし、目をすましてしまう。踊る体は現実を生きている。その体は、踊っている時間以外にも生きている。福留は観客に、録音した言葉で囁きかける。自分はどこに暮らしているのか、住まいから5分ほどで着く川までの道がどんなであるか、そこから3時間かけて首くくり栲象の庭劇場まで自転車で訪ねたこと、首を吊るパフォーマンスの後、首くくり氏から食事を振舞ってもらったことなどを、福留は声にする。声はいまここにないものを舞台に召喚する。その声と踊る身体とが二つ、舞台に並び立っていて、決して重なることはないけれども、反り返ったままでもなく、響き合う。踊りはそうして現実から乖離せずに、でも、ダンスの独特な抽象性を保ったまま、舞台を満たす。福留のダンスは相変わらずとびきりで、素早く時間をちぎってはすぐに貼り付ける。それは、剣術の使いが、刀を抜いたかと思ったら、もう既に仕事は終わっていた、みたいなことだ。カワサギがいると思ったら消え、消えたと思ったら魚を仕留め飛び去ってしまった、みたいなことだ。具体的には、ある運動のベクトルが推し進められている最中で、別の運動が唐突に差し込まれるといったもので、その目くらましが引き起こす眩暈に、ぼくは何よりダンスを感じる。環境に高感度で応答しながら、ダンサーの身体は内的な対話にも忙しい。けれども、それが濁っていなくて、澄んでいて、美しい。そんなダンスなのだった。

2017/09/23(土)(木村覚)

シンポジウム「ダンス動画、SNSでどうバズってるの?」

会期:2017/09/18

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

筆者が司会進行を務めたイベントなので、手前味噌ではあるのだが、今後の舞台芸術を考える上で重要な議論があったことは事実であり、ここに筆者の見解を述べておきたい。ゲストは二人、ダンス動画を含む動画制作を請け負うCrevo株式会社の工藤駿氏、ストリートダンスを用いたCMやPVの制作や大学のダンスサークルのイベントなどを手がけている株式会社Vintom代表取締役の愛甲準氏。芸術とは異なる分野、とくにマーケティングや広告という分野で活躍している二人を招いた本イベントは、KAATが主催ということを鑑みれば「異例」とも言える場となった。二人に共通している見解はこうだ。ダンス動画には「参加(真似る)型」と「見て楽しむ型」があり、後者よりも前者の方が注目され(バズられ)やすく、流通しやすいということ。なるほど「ダンス動画」の世界を思い返せば当然の傾向とも言えるのだが、しかし、ダンスをこの二つに分ける思考は、舞台芸術の分野からすれば、とても新鮮に映る。舞台芸術が推し進めているのは、ほとんどが「見て楽しむ」ダンスである。作家性が高く、エリートダンサーでなければ踊れない「見て楽しむ」型のダンスは、技巧や芸術性は高いかもしれないが、ダンスを「参加(真似る)」対象と捉え愛好する多くの人々にとっては、魅力に乏しいというわけだ。舞台芸術の世界は、こうした人々を無視し、芸術性こそ正義とでも言いそうなスタンスを崩さずに来た。結果として、ダンスの分野は、創作者も観客も増えず、痩せ細るばかりとなっている。しかし、これと同じような悩みは、ストリート系のダンスの世界も抱えているのだと愛甲氏は述べる。確かに踊りたい人口は増え、ストリートダンスへ向けた世間の注目は増している、とはいえ、その動向を牽引するはずのプロ的なダンサーへの注目やリスペクトは十分に高まっていないというのだ。「プロ的」と書いたが、実際はダンスを職業とするのは難しく、ほとんどはダンス講師など副業を持ち、専業とは言い難い。いかにすれば「参加型」のダンス愛好者が「見て楽しむ型」にも興味を持ってくれるのか、その結果としてダンサーという職業が社会に定着するのか。愛甲氏は、どんなやり方でも構わないので、まずダンサーが絶対的な人気を獲得すること、その人気を通して、高度なダンスについての関心を高めていく、といった戦略を話してくれた。工藤氏からは、すでに「人気の何か」との類比や、言葉を用いたわかりやすい解説など、ダンスの見方を与える努力がもっと必要なのではないかとの意見が出た。どちらもとても基本的だが、怠りがちな視点である。いずれにしても、観客の創造という視点からダンスを創作したり制作したりするという努力が求められる、ということなのだろう。耳の痛い話だし、人気のためにダンスの質を変えたくないなど、創作や制作の側から反発も起きるだろう。とはいえ、助成金や税金を当てにしない彼らのシビアな視点から、舞台芸術の盲点を検証してもらうこのような企画は、継続的に行なわれるべきである。「参加(真似る)型」のダンス愛好者を巻き込む方法を発明したとき、「みそっかす」状態の(コンテンポラリー)ダンスは社会の一部になれるのかもしれないのだから。

2017/09/18(月)(木村覚)

田中みゆき「音で観るダンスのワークインプログレス」上演&トーク

会期:2017/09/16

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

キュレーターの田中みゆきは今年2月にもKAATで、康本雅子とともに、見えない人たちがコンタクトインプロヴィゼーション(体を接触させた状態で二人ひと組になって行なう即興のダンス)を踊る公演「視覚障害×ダンス×テクノロジー”dialogue without vision”」を行なって注目を集めたばかりだ。今回、田中は見えない人と見える人とがともにダンスを鑑賞するために「音声ガイド」付きの上演を試みるというプロジェクトを企画した。イベント当日は、三回のワークショップと数回の研究会での顛末を紹介するトークがあり、その後、観客全員が音声ガイドを耳に当てながら、捩子ぴじんのダンスを鑑賞した。上演は二回。一回目は照明の下で、二回目は完全暗転の中。音声ガイドは三種類。ひとつは捩子ぴじんが台本を書きARICAの安藤朋子が朗読したもの。ひとつは研究会メンバーによる「観客の視点(を起点にしたダンサーの動きについてのできるだけ客観的な説明)」をベースにしたもの。もうひとつは能楽師の安田登が独自の解釈と抑揚で作成したもの。田中によれば、音声ガイドの決定版が作りたいというよりも、音声ガイドを作ることで「ダンス」を考えるための隠れている視点を発見することに主眼があるとのこと。一回目の上演では、見える人である筆者は音声ガイドが余計なもの(冗語的)に思えた。それが二回目では、視覚の要素がない分、音声ガイドが心地よく、楽しく聞こえてきた。視覚の要素がなくても、床の軋みや衣擦れの音は聞こる。その音とガイドの音とが重なる。上演後、観客から、見えないと架空の捩子ぴじんを踊らせることができて面白かったという趣旨の感想があがった。なるほど、ダンサーの姿は見えなくてもダンスは成立するのだ。もう一つ興味深かったのは、三つの音声チャンネルをちょこちょこ変えて、ザッピングしながら鑑賞した人が多かったことだ。ぼくたちは与えられたメディアを自主的に、自分が一番楽しい形で使うことに慣れている。舞台上演の鑑賞形式というものは、ほとんどオプションがない。音声ガイド機器が与えられることで、あえてそれを使わないことも含め、鑑賞の自由が広がるわけだ。そもそも、音声ガイドをダンス上演に導入するということは、ダンスと言葉との関係を研究することとなる。「ダンスは映像に残らない」と同じくらい「ダンスは言葉にできない」とはよく言われることだ。しかし、言葉でダンスにどこまで迫れるのか、どんな言葉ならば、ダンスを忠実に言葉にできたと言えるのか。ぼくたちは「できない」という言葉に甘えずに、そうした探究を日々続けるべきだろう。見えない人とダンスを観るという奇想天外な提案は、ダンス創作の盲点を告げ知らせてくれるものだった。

関連レビュー

康本雅子『視覚障害XダンスXテクノロジー“dialogue without vision”』|木村覚:artscapeレビュー

2017/09/16(土)(木村覚)

Q『妖精の問題』

会期:2017/09/08~2017/09/12

こまばアゴラ劇場[東京都]

舞台には、大人用紙おむつをつないで作った巨大な白い布が壁にかかり床まで広がっている。登場した竹中香子もオムツ姿。本作の見所は、この竹中のほぼ一人芝居で舞台が回っていくところだ。当日パンフにも第一部は「ブス」、第二部は「ゴキブリ」、第三部は「マングルト」とあったように、本作は三部構成。それぞれ上演様式が異なり、第一部は落語、第二部はミュージカル、第三部は健康食品の実演販売の様式があてがわれていた。第一部は、ブスな女二人がブスは生きていても意味がないと会話し続ける落語。「ブスは生きていちゃいけない」「ブスは子孫を残しちゃいけない」みたいな発言が飛び交う。それが、ぼくたちの内心にはびこるコンプレックスを刺激して、ぼくたちをギュッとさせる。先日の『地底妖精』もそうだったが、劇作家 市原佐都子は「見えないもの」を観客に見せようとする。サイトにはこんな言葉もある。「私は見えないものです。見えないことにされてしまうということは、見えないことと同じなのです。」つまり「見えないもの」とは、社会の価値基準によって「見えないことにされてしま」っているもののことだ。演劇もまた自分たちの(支配的立場の)価値基準で多くのものを「見えないことに」し、「見えないもの」にしてきた。「ブス」とは、だから社会また演劇における排除の問題でもある。続く第二部は、ラーメン屋の隣に住むカップルがゴキブリに怯え、ホウ酸団子やバルサンで撃退するさまをミュージカル風の演出で見せてゆく。今ここで観客は、排除する側の視点から世界を見つめることになる。第三部は、女性器で培養した菌でヨーグルトならぬ「マングルト」を作り、食べる健康法を、実演販売の様式で見せてゆく。地産地消に似た「自産自消」と語る「マングルト」は、他者に依存したり、他者と愛し合ったりせずとも、一人で暮らしていける「自立」の象徴だ。それでも、死んだら死体が残る。最後は、「マングルト」の創始者を名のる白髪の女の独り言で終わる。死体はきっと自然に還る。死体になることで、私たちは自然の運動に連なってゆける、そんな呟きだ。観劇後、この劇に物語がないことに気がついた。物語には(ひととひととの)関係があり、関係の展開があるものだ。ここには、それが見えない。この欠落こそが問題である。この問題をあぶり出すQの強い批評性が際立った舞台だった。

関連レビュー

こq『地底妖精』|木村覚:artscapeレビュー

2017/09/12(火)(木村覚)