artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
快快 - FAIFAI- 『CATFISH』
会期:2017/02/15~2017/02/17
CLASKA Room 402[東京都]
快快は小指値と称していた頃から、筆者にとって一貫して〈演劇における役者の疎外〉にフォーカスしてきた劇団だ。例えば『Y時のはなし』の冒頭、スクリーン上にセリフがディスプレイされる前で、役者はそのセリフを読んだり読まなかったりした。戯曲があれば、物語の内容は伝わる。であれば、役者は何のためにいる? 役者はセリフを読む奴隷だ。それも、自分が奴隷であることを隠す奴隷だ。本作は、快快が扱ってきたこの役者性をあらためて主題化した作品となった。「catfish」とは英語でナマズのことだが、スラングとしては「なりすまし」の意味がある。本作はそのタイトルどおり、登場人物は誰もみな「なりすまし」人間。「山崎3世」は泥棒。スーツは背中が透明で裸の状態。「後藤」はやり手のコンサルタントだが、ハゲを隠している。若い「女」は巨乳だが、どう見てもそれは風船だ。会場も「なりすまし」で、目黒のホテルCLASKAの広い一室が劇場になっているのだ。途中、劇は中断し、パーティが始まる。日本酒や寿司が販売される。観客は「劇場の観客」であることをキャンセルさせられ、その間は「パーティの客」にさせられる。いや、日本酒のコップには「観客役10」とさりげない指示が。そう、観客もまたここでは「観客」役になりすましている。そのことを、こうやって煽るのだ。言い忘れていたが、観客には台本があらかじめ配られている。ある役のセリフには、いま自然にしゃべっているようだけれど、実は全部セリフなのだという内容の言葉さえ出てくる。そして、「観客」役のためのセリフがありそれを突然観客に読ませたりもする。そうして、すべてのことが真偽定かならず、真実なのかなりすました嘘なのかわからない空間が出来上がった。実際に身重の役者大道寺梨乃は、狂言回しの「なまず」役を半分降りて、7カ月目の自分はしかしただ妊婦の想像をしているだけなのではと漏らす。身体に起こる出来事さえどこかリアリティに欠けている。なるほど私たちはまさにそんな世界を生きている。「オルタナティヴ・ファクト」なんて言葉が、からかい半分流行ったり。そんな世界に生きる不安を、ユーモアまじりに劇化した。
2017/02/17(金)(木村覚)
かもめマシーン『俺が代』
会期:2017/02/17~2017/02/19
STスポット[神奈川県]
STスポットの小さな舞台の中央、四角くくり抜かれたところに水が溜まり、上からも水がポタポタ垂れている。その真ん中に置かれているのは、金属でできた2mほどの「木」のオブジェ。生命の生長を感じさせる木が人工物で出来ている。本作のテーマである日本国憲法をかもめマシーン主宰・萩原雄太はこのように象徴化した。舞台には一人、俳優の清水穂奈美がいるだけ。彼女は、誰かの役を演じるというよりは、日本国憲法を読み、また「あたらしい憲法のはなし」(文部省が発布当時作成した憲法の副読本)などを読む。「憲法を読むだけで演劇は可能か?」という問いへのチャレンジにも映るが、それは実際可能だった。清水は、ともかく読むことに徹するのだが、途中で(確か自由をめぐる言葉を読むあたりで)語尾が微妙に疑問口調になったり、ラップのような読み方をしたり、怒鳴るように読むところも、小さな声でささやくようなシーンもあるなど、それによって、憲法が舞台の上で引き開かれ、解剖され、観客の心の中で咀嚼されていった。そこで(日本人の)観客は自らに問うことになる。日本国民である自分はこの憲法という土台のうえに生きているが、これが自分をどう規定し、どう促し、また自分はそれをどう意識し、また意識せずに生きているのか、と。当たり前にあるように思っているこれは、誰かがかつて作ったものだ。作り、そして、憲法の中身が浸透するよう、発布当時に人が人に働きかけ、人力で推し進めようとしたものだ。いまの憲法を変えるべきか否かは置いておくとして、そうした憲法を作り、そこに込めた意味を広める力はいまの自分たちにあるのだろうか? 観客の一人として筆者はそんなことを考えながら見ていた。この舞台に「登場人物」がいるとすれば、それはおそらくこの憲法のうえで生きている日本国民なのだ。タイトルに含まれた「俺」とは、つまり、日本人の観客のことなのだ。日本人の観客は、そうして自分の身にひきつけて、主役である自分とともにこの舞台と対峙することになろう。その状況を生むことこそ萩原の戦略なのではないか。「あなたは日本国憲法をどうするつもりなのさ!」と挑発的に問われるわけではない。ただ、清水が憲法を読む空間で、観客は自分を意識させられる。実は憲法に向き合うようで、自分に向き合うことになる作品なのだった。
2017/02/17(金)(木村覚)
プロジェクト大山、アンビギュアス・カンパニー『戦場のモダンダンス「麦と兵隊」より』
会期:2017/02/17~2017/02/19
横浜赤レンガ倉庫1号館2Fスペース[神奈川県]
大野一雄舞踏研究所は、ダンスアーカイヴ・プロジェクトを数年前から始めている。今年は江口隆哉と宮操子が1938年に上演した『麦と兵隊』にプロジェクト大山とアンビギュアス・カンパニーが取り組んだ。帝国劇場での初演後、日中戦争の戦火のなか、二人は慰問団として戦地に赴き、この作品の一部を上演したという。「再現不可能であることは自明」と本公演の紹介文に記されているように、おそらく参考資料は乏しく、ダンスの再現という点で苦労があったろうことは想像に難くない。それにもかかわらず、過去の作品を取り上げ、現代に問いかけようとする本プロジェクトの意義はそれ自体で評価されるべきものだ。であるからこそ、本作における諸点が少し残念に思えてしまう。『麦と兵隊』という作品の振り付けを再現することは難しかったのかもしれないが、当時の江口、宮が行なっていたダンスとはどんなもので、それを人々はどう受容していたのかという点がもっとクリアであるとよかった。原作と現代の二つのカンパニーのアイディアとが混ざり合って、当時を慮ることが難しく感じられた。その点では、レクチャーパフォーマンスの要素が入っているとよいのではないかと思わされた。
古家優里(プロジェクト大山)らしいコミカルな動きで観客から笑いを取るところは、「今日のコンテンポラリーダンス」的な要素といえるだろう。リズムでイージーに笑いを取ろうとする振る舞いが、戦中という時代を取り上げることとどう関連するのかがよくわからなかった。でも、わからないなあと思いながら、いま、もし大規模な戦争があったとして、慰問団はどう構成されるのだろうかと想像させられた。コンテンポラリーダンスは招聘されるのだろうか。今日の(想像上の)慰問と当時の慰問とではどんな違いが発生するのだろうか。もう少し調べられたらよかったかもしれないのは、当時の兵隊たちの心の様子だ。舞台には当時の慰問団の様子が映された。そこには数千人規模の兵隊たちがしゃがんで舞台へ目を向けていた。彼らは何を思い、ダンスに何を見たのだろう。そこに想像力を傾けることもあったらよかったのではないだろうか。
2017/02/17(金)(木村覚)
冨士山アネット『ENIAC』
会期:2017/02/11~2017/02/14
のげシャーレ[神奈川県]
和栗由紀夫の元で舞踏を学んだ石本華江。石本のダンス人生を解剖してゆく本作は、ダンス公演か?答えるのは難しいが、「ダンスについてのシアター」であるのは間違いない。石本は、4歳で日本舞踊を、高校時代は現代舞踊を、大学ではコンテンポラリーダンスを、20代で舞踏を学んだ。その踊りが一つひとつ取り上げられて踊られる。だが、だからといって、ダンスはここでエステティックな対象として(だけ)扱われるわけではない。本作で特に問われているテーマがある。それは「ダンスをいつまで踊るのか?」。タイトルは1946年に米国で製作された世界最初のコンピュータの名称。携帯電話(スマホ)やパソコンを頻繁に買い換えるぼくたちは、同じように身体を替えることはできない。ならば、どうやって、アップデートできない(加齢する)体で踊り続けるのか、さもなければいつ、ダンスを止めればよいのか。この問いは、ダンサーにとって切実だろう。石本のダンス歴はまるでアプリを入れ替えるように異なる踊りを踊り替え、しかも舞踏は加齢に強い。そんな石本をフィーチャーして、長谷川寧は舞台に同居しながら、石本を観察し、分析し、研究を重ねる。驚くのは、この「ダンスについてのシアター」がもたらす豊かさだ。これはひとつに、個人史という範囲で行なわれた「アーカイヴ」の試みである。またひとつに、土方の孫弟子となる石本に注目したことで、ダンスの「継承」という問題を引き出した。石本の「アーカイヴ」によって、多様な踊りをインストールしてきた(その点で極めて今日的な)ダンサーが、一度も生前の土方に薫陶を受けなかった世代として「舞踏」の名を担い、踊るとはどんな事態であるのか。舞踏は世界的に人気の踊りであり、近年の石本は頻繁に海外で舞踏のワークショップを行なっているという。その様子も紹介されるが、石本は自分の言葉がいわば「舞踏」という名の「アプリ」とみなされ、いわばそれが他者の身体に「ダウンロード」され、拡散していくことに戸惑うというのだ。筆者は大学の研究者でもあるので、どうしても、アカデミックな視点(例えば「ダンスとは何か」をめぐる哲学的で、社会論的な問い)で長谷川の仕掛けに面白さを感じてしまうが、本公演の肝は、長谷川本人の実存的な悩みなのだ。コンテンポラリーダンスが、日常を重視し、またスタイルではなく個人的な手法あるいは個人から発出するものを重視したダンスであるとすれば、長谷川は彼自身の悩みへと迫り、そこから独自の「シアター」のスタイルを生み出した。その意味で、まさに本作はコンテンポラリーダンスの延長線上にあるのだろう。だが、最終的に本作はダンスというよりシアターなのである。ダンスについてのシアター、あるいはシアターに埋め込まれたダンス。ダンスは「問い」が苦手なのだ。目の前にダンスを提示しながら、それを疑うような振りが、とても難しい。そう考えると、であるからこそ「シアター」の方法を巧みに用いた、という意味で、今後の日本のダンスの分野にとって指針となるような一作といえるのではないだろうか。
2017/02/14(火)(木村覚)
SLOW MOVEMENT『Next Stage Showcase & Forum』
会期:2017/02/12
スパイラルホール[東京都]
スロー・レーベル(ディレクター:栗栖良依)のプロジェクトにSLOW MOVEMENTがある。2020年の東京オリンピック、パラリンピックや文化プログラムで活躍する障害あるパフォーマーを発掘・育成するためのプラットフォームで、サーカスアーティストの金井ケイスケを中心に組織された。本公演はこのプラットフォームによるもの。障害者と健常者がともに舞台を構成する二本の演目が上演された。障害のあるダンサーとしては、大前光一、かんばらけんた、森田かずよが出演した。筆者は普段、舞台芸術としてのダンス公演を中心に批評している者であるが、サーカス的な設えの舞台がもつ包摂力についてずっと考えながら見ていた。管楽器やベース、ドラムなどのミュージシャンとともに、ダンサーたちは客席から舞台に上がってくる。全員が白い衣装を身にまとい、目には隈取をしているなど、最初から「サーカス」的な陽気さが場内を包む。アビリティでダンサーたちは観客を驚かす。片方の足が義足の大前はバレエダンサーらしい高い跳躍と安定した着地が見事だし、かんばらも得意の逆立ち姿で観客を圧倒する。「スーパー障害者」というイメージで、本当に彼らは格好いい。興味深いと思うのは、ノリの良いサーカス的な設えは、いろいろなダンサーの個性を包摂する力があるだけではなく、観客の心を陽気にさせ、芸術と思うと難しく考えてしまうところを、柔らかく巻き込んでゆくのだった。そこには「できる」だけでなく「できない」までも包摂してしまうところがあって、公演直前にエントランスで大道芸のような場が設けられた時、ジャグリングにミスがあった。それでも、この場ではミスは厳しいジャッジの対象ではなく、「それもまたよし」といったような寛容さで迎えられていた。だからといって「なんでもあり」ではないのだろうが、それでも、こうした寛容さが生まれることは、舞台芸術を更新する結構重要な要素のように思えてくる。
2017/02/12(日)(木村覚)