artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

Aokid『I ALL YOU WORLD PLAY』

会期:2017/08/31~2017/09/03

STスポット[神奈川県]

Aokidは空間のダンス作家だ。それは端的に作品タイトルにあらわれている。2014年に初めて見た公演のタイトル『Aokid city』には驚いた。ダンスの作家で「街」をテーマに作品を作る作家が現れた、と。今作のタイトルは『I ALL YOU WORLD PLAY』。これ、英文法では理解できない。でも、空間の表現と解するならば、五つの単語を並置して本作の空間性が示されていると読み取ることができる。では街に、世界に、必要なものとは何か? インフラ? 法律? 警察力? Aokidが「これだよ!」と全身で示しているのは、内発的なエネルギーだ。それは一言で言うと「青春」というやつだ。「青春」(笑)ではない。そんなメタな高みの見物から異なる運動へと促すある意味でさらにメタな、いやしっかりとベタな「青春」なのだ。ぼくはChim↑Pomの幾つかの作品に、また遠藤一郎の表現のうちに、古くはブルーハーツの中に、Aokidの「青春」に似た「愚直さ」を見ている。筆者も登壇したアフタートーク(9/1の回)でAokidは「青春」は「革命」と同義だ、なぜならば「青春」とは今ある状況を変えたいと思う気持ちだからだ、と口にした。それが、本作では「コンテンポラリーダンスを真摯に更新する」という強い意思として結実した。Aokidが得意としているヒップホップダンスを積極的に導入しながら、常識的なヒップホップダンスでは決してあらわれないボキャブラリーが頻出した。踊っているひとを見て元気になる、勇気を受け取るといった、原初的な感動がそこにはあった。そしてそれは、これまでのコンテンポラリーダンスが見過ごしてきたポイントに相違ない。Aokidが開けたこの鍵は、コンテンポラリーダンスの次の展開の扉を開くものなのではないか、そんな期待を心に抱かずにはいられない。

関連レビュー

Aokid『"Blue city"-aokid city vol.3』|木村覚:artscapeレビュー
Aokid city vol.4: cosmic scale|木村覚:artscapeレビュー
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2017/09/01(金)(木村覚)

鎌鼬美術館 常設展示

鎌鼬美術館[秋田県]

都心から8時間、秋田の中でも辺境に位置する田園地域の田代に、鎌鼬美術館が2016年の秋に開館した。写真集『鎌鼬』は、写真家の細江英公が舞踏家の土方巽と連れ立って、1965年9月の2日間、田代に滞在して生まれた。美術館の名は、この写真集に由来している。古民家を改装した美術館では、各国で販売された写真集や細江と土方の活動を紹介する資料が展示されている。美術館の周囲で、写真集に残された数々のハプニングが実際に行なわれた。展示以上に、この美術館の醍醐味は、館外に広がる田園への聖地巡礼にあるのだった。とても親切な館員に、幸いにも、車で聖地を案内してもらった。土方の躍動する身体が、村民を驚かせ、そそのかし、笑わせ、パフォーマーに仕立てた。その奇跡のような出来事の残り香を、車に乗りながら、嗅いでみる。田園地域の貧しい農民の暮らしをベースに、土方は暗黒舞踏と呼ぶ新しいダンスを生み出した。しかし、当の土方は秋田市に生まれ育った、比較的都会っ子だった。若くして当地のモダンダンス系の教室に足を運んでいたところを見ても、土方は知的でモダンな人間だった。いわば100年前のパリの画家たちが、アフリカ文化に新しい芸術の霊感源を求めたように、土方は田代のような村落の暮らしに新しいダンスの根拠を求めたわけだ。田代の今日的活用ということを、土方もまたこの美術館の運営者も考えている。そういう意味では、両者は同じ地平に立っているのかもしれない。しかし、その目的は異なる。土方は芸術のために、美術館は田代の活性化のために、田代の資源に可能性を見た。両者は互いの価値に寄生しているわけだが、芸術の活性化と地域の活性化が相乗効果を生み出せるか、どちらかだけではともに形骸化してしまう。そもそも舞踏の形成になぜ田代が、秋田の田舎の暮らしが必要だったのか、その本質に迫って初めて、活路が見えてくるのだろう。

2017/08/13(日)(木村覚)

新聞家『白む』

会期:2017/07/20~2017/07/25

Buoy[東京都]

北千住の古いマンションの地下に降りる。コンクリートむき出しの会場に、円陣状の客席。扇風機が回る。クーラーなし。ペットボトルをもらって汗を拭う。村社祐太朗の演劇の特徴に毎回会場が変わるということがある。いわゆる劇場は用いない。美術ギャラリーなどが多い。環境は作品を変える。村社はそのことに自覚的だ。新聞家の劇は、そのデリカシーゆえに、演劇でありながら、絵画に見えたり、彫刻に見えたりする。会場が美術ギャラリーだからだけではなく、観客の「見ること」へ向けた作術が繊細であるが故のこと。例えば1年前の『帰る』では、ソファーに座る二人の男女が近代の肖像画のように見えた。絵画か彫刻のように見える演劇は、見ることの集中度が高くなり、見入ってしまう。今作は様子が違っていた。円陣状の客席に混じって、俳優も同じパイプ椅子に座り、座りながら話を始める。俳優の3人は1人ずつしばらく喋ると、交代する。内容は家族や恋人との思い出。思い出はレストランの名前とメニューとともに語られる。高級レストランもあれば、ファミレスも出てくる。誰かと食べた思い出。記憶にとどめられない分量の語りを観客は聞き続ける。古いマンションの片隅でしかも円陣の輪の中で聞いていると、まるで住民の管理組合の会議でメンバーの話に耳を傾けているような、なんというべきか「車座」感が出てくる。役者たちは絵画でも彫刻でもなく、生身の人間として「居る」、その感じが今作では強調されていた。そういえば、受付時に、赤い干しトマトが振舞われ、口にすると甘く、酸っぱい味がした。その経験を会場の観客たちは共有しているのだった。筆者は時間が取れず参加できなかったが、観客全員と行なう意見会も新聞家恒例の趣向で実施されている。ひとの話を聞き、自分の感想も語り、交互にそれが行なわれるという意見会で起きることは、上演中、役者と観客との間で起きている交感とさして変わらない、ということなのかもしれない(上演後も残れたらよかった)。であるならば、村社は、「話すこと」と「聞くこと」というきわめて基本的な、演劇的であり社会的でもある状況へと観客の意識を向けようとしている。ここに新聞家の真髄がある。それがはっきりとした。

2017/07/25(火)(木村覚)

シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』

本書は、フランスが日本のアヴァンギャルドである舞踏をどう受容したのかを解き明かす。1978年、室伏鴻がカルロッタ池田と上演した『最後の楽園』と芦川羊子と田中泯のパフォーマンスによってフランスに「舞踏」が輸入され、引き続いて大野一雄や山海塾などの踊りが紹介されると、フランスにいわば舞踏ブームが起こった。このインパクトが今日の舞踏の世界的な広がりを生み出し、舞踏はもはや日本のものではなく、世界的な前衛芸術となった。本書はそうした舞踏を受容する流れが「誤解」に基づくものであったと説く。著者シルヴィーヌ・パジェスによれば、誤解の最たるものは舞踏を「ヒロシマ」に直結させる類いの言説であり、誤解としての受容の歴史が暴かれてゆく。その点は興味深いのであるが、舞踏とは何かを解く際に、パジェスは土方巽のテキストにほとんど触れない。このことが気になる。実は土方巽の舞踏をめぐるテキストは、サルトルやバタイユなど、フランス現代思想の影響が強く感じられるところがあり、日仏の思想的交流の歴史として語る余地のあるテーマでさえある。その点にパジェスの考察が向かうことはない。とても残念だ。そもそも日本において舞踏を学ぼうとするならば、研究者、批評家であれダンサーであれ、まずは土方のテキストに触れ、あの独特なうねるような文体に舞踏を見るものだ。何より「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」というメッセージに、自分なりの解釈を試みずして、舞踏にアクセスできたとは考えないだろう。その点で、日本において舞踏とは、踊りであると同時に土方の思想であり、言語との格闘の成果であった(どの舞踏家も自分の話術あるいは文体をもっているのもその証左といえよう)。そうした点を無視して、土方やその後の世代の言語的取り組みの厚みが「ヒロシマ」というイメージにすり替えられてしまった歴史が、「フランスの舞踏」史ということになるのだろうか。土方巽ら舞踏家のテキストの受容をめぐる考察が読みたかった。あるいはテキストの受容などほとんど起こらなかったのだろうか。巻末の参考文献表をみると、日本語の研究書、論文、批評文は掲載されていない。その無視と一種の驕りが、舞踏を受容する世界的な姿勢であるとするならば、出汁の効いていない蕎麦が「Soba」として異国の日本料理店で振舞われるように、誤解に満ち核心を欠いた「Buto」が、世を席巻することだろう。
ネガティヴなことを書いたが、本書はそもそもフランス舞踊史のなかで、舞踏がどのような影響を与えたのかを伝えるものであった。1980年代当時のフランスで、彼らが否定していた表現主義的で、身振りを重視したモダンダンスの価値を気付かせたのが舞踏だった、とパジェスは理解する。舞踏はかつての「幽霊の美学」を蘇らせた。なるほど、そうした舞踏の読み取りは、単に誤解と切り捨てることのできない、舞踏の潜在力を引き出す解釈と捉えるべきかもしれない。 パジェスはパリ第8大学舞踊学科准教授。本書は著者の博士論文(2009年)をベースにしている。


シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』(パトリック・ドゥヴォス監訳、北原まり子、宮川麻里子訳、慶應義塾大学出版会、2017)
Sylviane Pagès, Le butô en France, malentendus et fascination, Centre national de la danse, 2015

2017/07/25(火)(木村覚)

手塚夏子『漂流瓶プロジェクト第一弾 ~それは3つの地点から始まる~』

会期:2017/07/21~2017/07/23

STスポット[神奈川県]

「漂流瓶」とは、手塚夏子が誰かに委ねる指示書(振付のスコア?)のこと。手塚本人、韓国のYeongRan Suh、スリランカのVenuri Pereraの3人が指示書に従ったパフォーマンスを上演した。指示書には5項目の指示がある。そこでは、西欧近代化の影響を受け価値観の変動があったと自認する非西欧の作家に、価値観の変動が起きた以前の文化的な行為を取り上げ、実演してもらい、そこでの深い反省を経て、ゴールとして現代の芸能や祭りを構想するまでのプロセスが要請されている。「漂流瓶」とはつまり、手塚によるパフォーマンスのアイディアのアーカイヴ化であり、それを他者に委ねるという意味でアーカイヴの活用の試みであり、西欧近代化に巻き込まれた非西欧の国の文化を再考し、再構築を目指すチャレンジのことである。
手塚は綱引きの綱を体に巻きつけ登場、綱の反対の先には萩原雄太(かもめマシーン)がいて、「どうしたらまっとうな大人になるよう子どもを教育できますか?」などといった「成熟(西欧的価値の香りが漂う)」をめぐる問いかけを手塚にし続ける。手塚は途中から、言葉が飲み込めないようになって、何度も吃り始める。手塚が綱を思いっきり引っ張ると、萩原は舞台に現れ、観客も巻き込んだ綱引き大会になった。YeongRanのパフォーマンスは、より本格的に観客参加型で、観客は席を立つよう指示されると、韓国、日本、アメリカ合衆国、イスラエルの旗を渡され、質問に従って、旗を上げ下げするよう求められる。質問は、どの国が一番好きか、どの国が一番民主的だと思うか、など。好きな国別に分かれて、リーダーを決め、リーダーが質問を受けると、その回答に指示できるか、旗を振って答える、なんて場面にまで進むと、観客は「旗を振ること」「リーダーを作る、それを支持(非支持)すること」などの意味に自問自答するようになる。Venuriは、スリランカが極めて「弱い」パスポートの国で、また他国のビザの獲得が非常に困難であり、ゆえに「ビザ・ゴッド」に祈りを捧げることが流行っていると観客に説明すると、伝統的な祈祷の儀式をベースにしているらしい「ビザ・ゴッド」への祈りの儀式を実演した。3作家のパフォーマンスを見て「スコア」の可能性にあらためて気づかされた。スコアは民主的だ。誰でもアクセスでき、誰でもスコアの力を借りて、感性的で知的な反省の機会を得ることができる。しかも、観客の参加を促すパフォーマンスの形式では、観客もまた傍観者ではいられずに、何かの役割を生きることになる。こういう民主的なアイディアの実践に、観客の側が習熟する先に何か新しい未来的な上演の空間があると思わされる。「道場破り」と称した、ダンスの手法の交換を実践し、交換した手法で対決する企画を行なったこともある手塚夏子らしい挑戦だ。第二弾にも期待したい。

2017/07/21(金)(木村覚)