artscapeレビュー

冨士山アネット『ENIAC』

2017年03月01日号

会期:2017/02/11~2017/02/14

のげシャーレ[神奈川県]

和栗由紀夫の元で舞踏を学んだ石本華江。石本のダンス人生を解剖してゆく本作は、ダンス公演か?答えるのは難しいが、「ダンスについてのシアター」であるのは間違いない。石本は、4歳で日本舞踊を、高校時代は現代舞踊を、大学ではコンテンポラリーダンスを、20代で舞踏を学んだ。その踊りが一つひとつ取り上げられて踊られる。だが、だからといって、ダンスはここでエステティックな対象として(だけ)扱われるわけではない。本作で特に問われているテーマがある。それは「ダンスをいつまで踊るのか?」。タイトルは1946年に米国で製作された世界最初のコンピュータの名称。携帯電話(スマホ)やパソコンを頻繁に買い換えるぼくたちは、同じように身体を替えることはできない。ならば、どうやって、アップデートできない(加齢する)体で踊り続けるのか、さもなければいつ、ダンスを止めればよいのか。この問いは、ダンサーにとって切実だろう。石本のダンス歴はまるでアプリを入れ替えるように異なる踊りを踊り替え、しかも舞踏は加齢に強い。そんな石本をフィーチャーして、長谷川寧は舞台に同居しながら、石本を観察し、分析し、研究を重ねる。驚くのは、この「ダンスについてのシアター」がもたらす豊かさだ。これはひとつに、個人史という範囲で行なわれた「アーカイヴ」の試みである。またひとつに、土方の孫弟子となる石本に注目したことで、ダンスの「継承」という問題を引き出した。石本の「アーカイヴ」によって、多様な踊りをインストールしてきた(その点で極めて今日的な)ダンサーが、一度も生前の土方に薫陶を受けなかった世代として「舞踏」の名を担い、踊るとはどんな事態であるのか。舞踏は世界的に人気の踊りであり、近年の石本は頻繁に海外で舞踏のワークショップを行なっているという。その様子も紹介されるが、石本は自分の言葉がいわば「舞踏」という名の「アプリ」とみなされ、いわばそれが他者の身体に「ダウンロード」され、拡散していくことに戸惑うというのだ。筆者は大学の研究者でもあるので、どうしても、アカデミックな視点(例えば「ダンスとは何か」をめぐる哲学的で、社会論的な問い)で長谷川の仕掛けに面白さを感じてしまうが、本公演の肝は、長谷川本人の実存的な悩みなのだ。コンテンポラリーダンスが、日常を重視し、またスタイルではなく個人的な手法あるいは個人から発出するものを重視したダンスであるとすれば、長谷川は彼自身の悩みへと迫り、そこから独自の「シアター」のスタイルを生み出した。その意味で、まさに本作はコンテンポラリーダンスの延長線上にあるのだろう。だが、最終的に本作はダンスというよりシアターなのである。ダンスについてのシアター、あるいはシアターに埋め込まれたダンス。ダンスは「問い」が苦手なのだ。目の前にダンスを提示しながら、それを疑うような振りが、とても難しい。そう考えると、であるからこそ「シアター」の方法を巧みに用いた、という意味で、今後の日本のダンスの分野にとって指針となるような一作といえるのではないだろうか。

2017/02/14(火)(木村覚)

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