artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
西村健太 個展 Re
会期:2012/07/27~2012/07/29
素人の乱12号店[東京都]
薄暗い会場に入ると、髑髏のオブジェが数点、床に広がり、それぞれの上部から水滴が落ちている。白い髑髏は、その水滴によって穴を穿たれ、徐々に外形を崩していく。なかにはボロボロに崩れた髑髏もある。人間の死の象徴である髑髏を、さらに破壊し、自然へ還っていく様子を見せようとしているのだろう。別の映像作品では、胎児のかたちをしたオブジェを両手で水に漬け、徐々に水に溶かしていく。人間のかたちをした胎児が、次第にその形態を失ってゆき、たんなる物質と化して、水に溶けてなくなっていく過程は、なんともおそろしい。聞けば、この胎児も、先の髑髏も、ともに入浴剤を凝固させたものだというが、そのことを知らずとも、死に向かっていく生の残酷な時間、そして生命を管理操作する人工的技術などのテーマがおのずと脳裏に去来する。作品のコンセプトと展示構成が明快に結びついた、たいへんレベルの高い個展だった。
2012/07/27(金)(福住廉)
松本竣介 展
会期:2012/06/09~2012/07/22
神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]
松本竣介の大規模な回顧展。36歳で夭逝したため作品数はそれほど多くはないが、それでも二科展に入選した《建物》のほか、《立てる像》《Y氏の橋》といった代表的な油彩画、おびただしい素描、さらにはみずから編集した雑誌『雑記帳』から個人的な書簡まで、松本の創作活動の全貌を一望できる充実した展示だった。松本竣介といえば、大正から昭和にかけての都市風景を描いた詩情性の高い画風で知られているが、清冽な色と繊細な線で構成された画面には、たしかに詩的な味わいが満ちている。なかでも空襲で一面焼け野原となってしまった東京を激烈な赤で描いた作品には、空襲の炎のイメージを焦土に重ね合わせたようで、その重複から戦火への悔恨と鎮魂の念が滲み出てくるかのようだ。かつてとはちがった戦後(あるいは戦争)が始まってしまったいま、松本竣介とは別のかたちで同時代を表現する絵画は登場するのだろうか。
2012/07/22(日)(福住廉)
ひっくりかえる展
会期:2012/04/01~2012/07/29
ワタリウム美術館[東京都]
Chim↑Pomはいつの頃からか二重の路線を歩むようになったように思う。ひとつは、彼らの出自であるストリートの路線であり、もうひとつはアートという既定路線だ。この2つを、どちらかに限定するのではなく、絶妙なバランス感覚を保ちながら、時機と場所に応じて巧妙に使い分ける方法が、近年のChim↑Pomを特徴づけている。
だが、Chim↑Pomがキュレイションを手がけた本展を見て思い至ったのは、あまりにもアートの路線に重心を置いたがゆえに、この二重戦略が破綻しているのではないかということだ。じっさい、本展におけるChim↑Pomは、過剰とも思えるほど、アートを強く志向していた。美術館の内壁を燃やす作品は、たしかに野蛮な魅力があるにはある。けれども、そのアクションは明らかにアートの人びとに向けられており、その過激さは美術館という制度を、肯定するにせよ否定するにせよ、共有していなければ到底伝わらないものだ。
また、美術館内のガラスを矢印に切り抜き、それを床面に突き刺した作品も、いかにも中途半端なコンセプチュアルアートのようで、説明的・図解的ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。下を向いた矢印は、いつでもどこでも何があろうと屹立する矢印がモットーであるChim↑Pomの自己否定なのだろうかと、思わず訝ってしまったほどだ。《スーパーラット》が示していたようなストリートの暴力的で野蛮な魅力は、少なくとも本展で発表された新作には微塵も感じられなかった。
こうした見方は、あるいはChim↑Pomの作品が、彼らによってキュレイションされた他のアーティストたちの作品と並置されていたことに由来しているのかもしれない。ロシアのヴォイナにしろ、カナダのアドバスターズにしろ、ストリートでしぶとく、たくましく、しかし軽やかに活動しているのであり、そこにはアートへの欲望など二の次だったはずだ。そして限界芸人のじゃましマンにいたっては、アートなどには一切眼もくれず、ひたすら自分の潜入芸を追究しているのであって、その圧倒的な芸の力を前にして、Chim↑Pomの作品のなんと弱々しく、大人しいことだろう。その「おもしろさ」の差は歴然としていた。
かつてChim↑Pomの卯城竜太は、街中で得体の知れないものに出会ったとき、それがアートであったことを知った瞬間の落胆を語っていた。いま、Chim↑Pomが歩もうしている道の先には、卯城が「なんだアートか」と呟いた当のアートが待ち構えているのではないか。そうではなく、ストリートとアートのあいだを突き進むことによって、未知なる「アート」を手に入れることこそ、Chim↑Pomの真髄だったはずだ。Chim↑Pomこそ、もういちど、ひっくりかえれ!
2012/07/21(土)(福住廉)
さようなら原発集会
会期:2012/07/16
代々木公園一帯[東京都]
代々木公園を中心に行なわれた脱原発デモ。うだるような暑さのなか集まったのは、主催者発表で17万人。知識人や文化人によるスピーチの後、3方向に分かれてデモが行なわれた。
3.11以後、放射能の恐怖と原発の再稼動への危機感から全国各地でデモが拡大しつつあるが、このうねりのなかで明らかになってきたのは、デモが政治的主張をアピールする文字どおりのデモンストレーションの機会であると同時に、民衆による限界芸術が開陳されるある種の「展覧会」でもあるということだ。プラカードや横断幕に描写されたヴィジュアル・イメージはもちろん、口々に叫ばれるシュプレヒコールや鳴り物の数々、そしてなにより17万人もの人びとが一堂に会し、都内の街中を練り歩くという身体表現は、非専門家という群集による限界芸術の現われにほかならないからだ。
むろん、有名性に依拠した表現がないわけではない。今回のデモでは、奈良美智が「NO NUKES」というメッセージを含めて描いた絵画表現をダウンロードしてプラカードに転用した参加者が数多くいたし、奈良自身も集会でわずかとはいえ登壇したほか、デモの一部のコースに重なったワタリウム美術館のウインドーに同じ絵画作品のポスターを掲げた。
しかし、デモとはなによりも無名性にもとづいた文化表現の形式である。あらゆる人びとは本来なにかしらの専門家であるはずだが、同時に、ある局面においては、非専門家とならざるをえない。そのある局面に人びとを直面させながら結集させるのがデモであり、だからこそそこではありとあらゆる知恵と知識が動員されるのである。限界芸術が見るものだけではなくみずから行なうものだとすれば、限界芸術としてのデモを歩道から眺めるだけではあまりにももったいない。プラカードに描いた絵を持ちながら車道を歩き、声を上げ、歌を唄い、ダンスを踊る。限界芸術の展覧会はみずから楽しめるものなのだ。
2012/07/16(月)(福住廉)
川内倫子 展 照度 あめつち 影を見る
会期:2012/05/12~2012/07/16
東京都写真美術館[東京都]
川内倫子の写真展。70点あまりの写真のほか、映像作品も発表された。凡庸な日常風景を美しくとらえる色彩と構図、そして光。川内ならではの鋭利な感覚を存分に楽しめる展示だったが、今回改めて思い知ったのは、川内の写真がすぐれて絵画的であること。対象をフレームに収める構図はもちろん、光と色彩の調和など、それは写真でありながら同時に絵画のように見える。阿蘇の野焼きをとらえた《あめつち》シリーズの映像作品ですら、色面分割された熊谷守一の絵画のように見えてならない。かつて美術評論家の中原佑介は現代美術の大きな特徴として「メディアの転換」を挙げたが(『現代芸術入門』)、川内倫子は絵画の特質を写真に移し替えたのではないだろうか。もしかしたら絵画の窮状を写真によって救済しているのかもしれない。
2012/07/11(水)(福住廉)