artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

草間彌生 永遠の永遠の永遠

会期:2012/04/14~2012/05/20

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

草間彌生の近作を見せる展覧会。《愛はとこしえ》シリーズと《わが永遠の魂》シリーズからあわせて80点あまりが一挙に展示されたほか、南瓜をモチーフとした立体作品や巨大なバルーンの作品、鏡と水によって光を無限反射させる《魂の灯》なども発表された。
たしかにエネルギーに満ち溢れてはいる。むしろ以前にも増して横溢しているかのようだ。だが、それを的確に感じるには、少々会場が狭すぎた。団体展のような二段がけの展示方法はともかく、一つひとつの絵をじっくり鑑賞させるための適度な距離感が満足に確保されていないため、絵のなかの息が詰まるような圧迫感や何かに追われるような焦燥感はよく伝わってくるものの、草間絵画の真骨頂ともいえる抜けるような解放感はあまり感じられなかった。この美術館の天井の低さが、そのような印象を強くしていたことはまちがいないだろう。
「永遠の永遠の永遠」と言うのであれば、もっと広大な空間でその無限反復を見せるべきだったように思う。

2012/05/12(土)(福住廉)

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都築響一presents 妄想芸術劇場 ぴんから体操

会期:2012/04/30~2012/05/12

ヴァニラ画廊[東京都]

いわゆるエロ雑誌の投稿イラストページに25年以上も投稿を続けている、ぴんから体操の個展。投稿されたイラストのなかから厳選された作品で会場の壁面という壁面がびっしりと埋め尽くされ、屈折した欲望が匂い立つような迫力を醸し出していた。
なかでも際立っていたのが、暖色系の色彩で丸みを帯びた女体を描いたシリーズ。頭部と乳房と臀部をすべて丸に還元して再構成した女体は、もはやエロティシズムの対象ですらなく、部分と部分を接続させて理想的な女体を造成しようとした結果、えもいわれぬ怪物をつくり出してしまったように見えたからだ。限界芸術としての手わざを反復していくうちに、やがて欲望が極限化してゆき、ついに限界芸術から離れた異形の物体を創造してしまったぴんから体操。そこに、じつは純粋芸術にも大衆芸術にも限界芸術にも通底する、ものづくりの核心がひそんでいるように思えてならない。あえて比較するとすれば、バッタもんのバッタもんの制作に熱中している90歳のおばあさんも、ぴんから体操の「狂気」を、方向性こそちがうとはいえ、じつは共有しているのではないだろうか。
なお、余計な一言を付け加えておけば、本展企画者の都築響一は、ぴんから体操のような周縁的なクリエイターの仕事を、例によって現代美術界からの無視や黙殺に対抗するかたちで紹介しているが、きわめて例外的であるとはいえ、現にこのようにして鑑賞され、言説化されている以上、その手はもはや通用しないのではないか。都築自身による新たな文脈化、もっと平たく言えば、新たな「芸」を期待したい。

2012/05/10(木)(福住廉)

モバイルハウスのつくりかた

会期:2012/06/30~2012/07/27

ユーロスペースほか[東京都]

本田孝義監督が、坂口恭平の「モバイルハウス」の制作過程を丹念に記録したドキュメンタリー映画。ホームセンターで買い集めた材料で組み立てた極小の住宅と言えば、幕末の探検家、松浦武四郎の「一畳敷」が連想されるが、坂口のモバイルハウスには車輪がついており、駐車場に設置できるという点に大きな特徴がある。法的には「住宅」というより「車両」として取り扱われるため、駐車場代さえ払えば、高い家賃を支払うという呪縛から解放されるというわけだ。人が生きていくうえで必要最低限の空間を自分でつくる楽しさにあふれた映画である。ただ、映画を見通して心に残るのは、坂口の類い稀なカリスマ性というより、むしろ坂口にモバイルハウスのつくりかたを教授する「多摩川のロビンソンクルーソー」の偉大さである。確かな技術と柔軟な発想、そしてはるかに年下の生意気な青年を懇切に指導する忍耐力。このような人物こそ、ほんとうのアーティストと言うべきである。

2012/05/09(水)(福住廉)

テッセンドリコ presents “Future Music”

会期:2012/05/05

東高円寺二万電圧[東京都]

「日本の近代は『幽玄』『花』『わび』『さび』のような、時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかった」。三島由紀夫が「文化防衛論」のなかで書き残したこの言葉は、「近代」の価値観やシステムがもはや隠しようがないほど破綻をきたしている現在、鮮やかに甦っている。いま、もっとも必要とされているのは、「近代」という呪縛から抜け出し、この時代を表象する美的原理に向かう衝動である。
全国の原子力発電所がすべて運転を停止したこの夜、切腹ピストルズのライヴは、ひとつの名状し難い美的原理に到達していた。それは、「東京を江戸に戻せ!」という彼らのメッセージからすると、前近代への回帰主義として理解できるが、だからといって必ずしも「幽玄」「わび」「さび」といった旧来の美的原理に回収されるわけではない。なぜなら、野良衣をまとった切腹たちが打ち出す太鼓、三味線、鉦の音、そして声は、私たちの心底に力強く響き、そのような静的な言葉で到底とらえられないほど、私たちの全身を打ち振るわせるからだ。平たく言えば、いてもたってもいられなくなるのである。
とはいえ、その衝動的な美は、三島が戦略的に帰着した「武士道」や「天皇」とも異なっているように思う。三島のヒロイズムが彼自身の足をすくってしまったとすれば、切腹の「江戸」はそのような逆説に陥ることがないほど、地に足をしっかりとつけているからだ。その重心があってこそ、借り物の「パンク」から出発しながらも、音楽性や楽器を徐々に変容させながら、身の丈に応じた「音」を生み出すことができているのだろう。21世紀の平民の、いやむしろ土民の思想は、ここで育まれるにちがいない。それをどのような言葉で語るべきか、いまはまだわからない。
ただし、切腹ピストルズがこの時代の最先端を切り開いていることはまちがいない。現代アートが「モダモダ」(今泉篤男「近代絵画の批評」『美術批評』1952年8月号)しているあいだに、彼らは颯爽と、美しく、そして強く、泥の中から来るべき時代を明るく照らし出しているのである。

2012/05/05(土)(福住廉)

木下晋─祈りの心─

会期:2012/04/21~2012/06/10

平塚市美術館[神奈川県]

鉛筆によるモノクロームの絵画を描いている木下晋の個展。最後の瞽女と言われた小林ハルや、元ハンセン病患者の詩人桜井哲夫など、これまでの代表作に加えて、東日本大震災を受けて制作された「合唱図」のシリーズなど、あわせて50点あまりが展示された。
クローズアップでとらえられた両手は、一つひとつの皺まで克明に描き出されているが、当人の顔がフレームから外れているにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、次第に手そのものが人の顔に見えてくる。皺が顔のそれを連想させたからなのか、あるいは手と手が必ずしも対称的ではなく、むしろ非対称の関係に置かれていたところに、歪な人間らしさを感じたからなのか、正確なところはよくわからない。
ただ、あちらに描かれた両手が、すべてこちらを向いていたところに、その大きな要因があるのかもしれない。祈りの念が私たち鑑賞者に向けられていたからこそ、私たちはその手の向こうに、人の姿を見出してしまったのではないか。祈りという眼に見えない精神の働きが、見えるはずのない人間の存在を幻視させたと言ってもいい。
誰かの何かの「祈り」が受け渡されたかのように錯覚した私たちは、それを再び、どこかの誰かに手渡したくなる。「祈り」を描いた木下晋の鉛筆画は、もしかしたら神への一方的な伝達だった「祈り」を、双方的ないしは重層的なそれへと変換させる、きわめてアクチュアルな絵画作品なのかもしれない。それは神なき時代の宗教画なのだ。

2012/05/04(金)(福住廉)

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