artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

佃祭・住吉神社例大祭

会期:2012/08/03~2012/08/06

佃島一帯[東京都]

東京は佃島恒例の祭り。3年に1度の本祭りが4日間にわたっておこなわれた。佃島の街中を神輿が練り歩き、その道筋には水を入れたバケツが大量に用意され、神輿が通るたびに盛んに水がかけられていた。法被姿も観光客も関係なく、みんなずぶぬれだが、そのことがまった気にならないほど、神輿から放たれる熱気がすさまじい。街中には数多くの屋台が立ち並び、道中には見上げるほど巨大な大幟が屹立していたが、背景に映り込む超高層マンションに負けないほどの存在感だ。仮設された小屋では佃囃子が演奏され、街中にはいつまでも太鼓と笛の音が鳴り響いていた。そのなかで、人びとは神輿をかつぎ、水をかけ、屋台に並び、川沿いでビールを飲みながら涼をとっていた。今日のアートプロジェクトが目指している幸福な風景が、この祭りに現われていたように思えてならない。

2012/08/05(日)(福住廉)

ざ・てわざII─未踏への具象─

会期:2012/08/01~2012/08/07

日本橋三越本展 6階美術特選画廊[東京都]

てわざ=メチエをテーマにした展覧会。具象絵画を中心に28人の美術家による作品が展示された。いわゆる「超絶技巧」系の作品が並ぶなか、ひときわ異彩を放っていたのは、前原冬樹。錆びついた鉄板と、その上に残された折鶴を、いずれも木彫で表現した。辛うじて木目を確認できる折鶴はともかく、鉄板はどこからどう見ても鉄板以外の何物でもなく、これが精緻な塗りを施された一木彫りとは、到底信じ難い。眼を疑うような前原の作品は、一方で「侘び」と「寂び」という旧来の美意識によって評価できる。前者は、美的な対象にはなりにくい、粗末で凡庸なモチーフを率先して選んでいるから、そして後者は表面に広がる錆が如実に物語っているように、取り返すことのできない時間の経過を訴えているからだ。だがその一方で、前原の作品の魅力はむしろ(こう言ってよければ)徹底したバカバカしさにあるのではないだろうか。誰も注目しないようなモチーフを、たんに忠実に再現するのではなく、基本的に一木彫りによって、果てしない時間をかけて彫り出すこと。それを、いかなる虚栄心とも関係なく、ひたすら純粋に追究しているからこそ、私たちの眼を奪ってやまないのだ。前原のてわざこそ、未踏の領域を切り開いているのである。

2012/08/05(日)(福住廉)

真夏の夢2012 小原久美子+長花子+西沢彰+長重之

会期:2012/07/15~2012/08/04

スタジオロング[栃木県]

美術家の長重之が自宅で催した展覧会。長自身のほか、長女の花子、小原、西沢の3人が室内の壁面や床面に絵画やオブジェなど30点あまりを展示した。特徴的だったのは、長をのぞく3人がいずれも障がいをもったアーティストであり、それゆえ本展は障がいのある人とない人による、ある種のコラボレーションだったことだ。「アウトサイダー・アート」として囲い込まれがちな障がい者による美術表現を、非障がい者と同じ水準に解き放とうとする試みは、すでに「イノセンス──いのちに向き合うアート」展(栃木県立美術館、2010年)で長自身がおこなっているが、本展もその延長線上にある。とりわけ際立っていたのは、西沢彰。セスナ機を描いた絵画で知られているが、今回展示されたのは怪物のような絵画シリーズ。それは怪物にも見えるし、人間の下半身にも見える不思議な生命体だが、いずれの作品も小さな紙の左側に詰めてモチーフが描かれているのが特徴だ。この規則性が何を意味しているのかは、わからない。しかし、画面をじっくり見てみると、この怪物的なモチーフが水彩やパステルを巧みに塗り重ねて描かれており、また随所にスクラッチが活用されるなど、意外なほどに技術的であることがわかる。「アウトサイダー・アート」のなかに一括されがちなアートの質的な優劣はもちろん、技術の詳細な解明も、今後の大きな課題となるのではないだろうか。

2012/08/04(土)(福住廉)

脱原発国会大包囲デモ

会期:2012/07/29

国会議事堂周辺[東京都]

国会議事堂を包囲した脱原発デモ。推定で20万人ほどが参加した。とりわけ国会議事堂の正面の車道には、文字どおり身動きが取れないほどの人が集まった。多くの参加者が懐中電灯やペンライトを持ち寄ったため、群集のなかにはおびただしい数の灯りが点滅していたが、その光は原発の危険性に恐怖や不安を抱く人びとの表われだった。だが、これまでのデモと同じように、このほかにもデモの随所ではさまざまなパフォーマンスが繰り広げられた。今回初めて見たのは、発泡スチロールを組み立てた神輿のパフォーマンス。表面の水色の模様から察すると、どうやらフクイチを模しているらしい。しかも一面はその模様によって野田首相の顔を描いているようだ。若者たちがこの神輿を路面に置くと、子どもたちが勢いよく破壊し始め、神輿はあっという間に骨組みだけになってしまった。爆発事故を再現しているのかと思ったら、それだけではなかった。あたり一面に飛び散った発泡スチロールの残骸を、周囲の野次馬たちが拾い集め、きれいに掃除したのだ。どこかから「政府はこれくらいちゃんと除染しろ!」と野次が飛ぶ。たしかに、そうだろう。だが、これは原発の爆発事故から除染作業までの過程を再現したパフォーマンスではない。そうではなく、そのすべての過程に私たちを巻き込むことで、それが決して他人事ではなく、むしろ私たち自身の問題であることを明確に示してみせたのだ。

2012/07/29(日)(福住廉)

新世代への視点2012

会期:2012/07/23~2012/08/04

ギャラリーなつか[東京都]

毎年夏、銀座・京橋の貸画廊が合同で企画している展覧会。12回目を迎えた。各画廊が推薦する40歳以下の新鋭作家による個展を同時期に催したが、とりわけ特定のテーマを設定しているわけではないにせよ、今回は全体的に見応えがあった。具象絵画では、安部公房の世界を彷彿させる杉浦晶(ギャラリーなつか)や日本画の手法によってロック少女を描く永井優(ギャラリーQ)、深い青を基調に夢幻的な光景を描く高井史子(gallery 21yo-j)、背景の墨絵の上に切り絵を重ねることでポップな図像を浮かび上がらせた劉賢(ギャラリイK)。抽象画では、色彩の自動運動により画面を構築する杉浦大和(なびす画廊)やさまざまな色合いの紙テープを同心円状に果てしなく巻きつけた内山聡(ギャラリー現)、ボールペンの緻密な描きこみを続ける大森愛(ギャラリー川船)。そして立体では、朴訥としながらもどこかで奇妙なおかしさを感じさせる木彫の長尾恵那(GALERIE SOL)やケント紙だけで精巧なオブジェを組み立てる伊藤航(ギャラリー58)、人間と動物を融合させたテラコッタによって人間社会を風刺した友成哲郎(ギャルリー東京ユマニテ)。とりわけ注目したのが、版画の原版と、それを転写した和紙をセットにして見せた本橋大介(藍画廊)と、日常の凡庸な不要物を構築した小栗沙弥子(コバヤシ画廊)。本橋は転写という版画のもっとも基本的な機能に依拠しつつも、それにとどまらず、原版をあわせて展示することによって、そこに時間性を巧みに導入した。版画はえてして無限反復という無時間性に陥りがちだが、本橋はそれを有時間性に落とし込むことによって逆に版画の可能性を切り開いた。レシートや領収証、紙袋などを構築した小栗のインスタレーションは、日常的な廃物利用という点ではいかにも今日的だが、小栗の真骨頂はむしろ小作品にある。ガムの包装紙だけを集積した小さな絵画は、その銀色が意外なほど美しい。文房具売り場に常設してある試し書きのためのメモ用紙をかき集め、そこに残された走り書きだけで画面を構成した作品もおもしろい。こうした作品がいずれも小栗の外部の他者に由来していることを考えると、おそらく小栗は描く主体をできるだけ放棄しながらも、それでもなお描くことが可能かと自問自答することに挑戦しているように思われた。

2012/07/28(土)(福住廉)