artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

朴烈

ソウルからデリーに向かう大韓航空の機内で韓国の映画『朴烈』を見る。関東大震災が引きおこした朝鮮人虐殺を放置しておきながら、あまりに収拾がつかなくなり、その治安維持を目的として、象徴的に逮捕された運動家と日本人の金子文子を取り上げたものだが、恥ずかしながら、全然知らない史実だった。したがって、台湾の部族による抗日蜂起・霧社事件を壮絶な長編映画『セデック・バレ』が教えてくれたように、この映画も戦前の日本に対していかなる抵抗があったかを被支配者側の国から、忘れてはならない記憶としてつきつける。アナーキストの同志となった朴と貧しく恵まれない境遇の金子(いまの大学生か院生くらいの年齢!)は、天皇襲撃の容疑で大逆事件の裁判にかけられる。その過程で精神鑑定が行なわれるあたりは、大本教が弾圧された後、論理的な手続きで裁判するよりも、教主の出口王仁三郎の頭がおかしいことにしようとしたことを想起させる。

映画の後半は、独房に閉じ込められた2人の裁判闘争である。興味深いのは、シリアスな内容だが、ユーモアも感じさせることだ。その理由は強烈な2人のキャラ設定もあるが、例えば、最初の公判では、2人が民族衣装をまとい、メディアに対する演説の場に変えてしまった(その後、裁判は非公開に)。実際、この裁判は簡単に決着がつかず、問題が大きくなるほど、かえって政府側は窮地に立たされていく。一方で死刑判決を覚悟した2人は、獄中で結婚し、どちらかが亡くなったら、家族の権利として骨をひきとると誓う。朴の生涯を調べると、これ以外にも波瀾万丈のエピソードがあり、驚くべき人物である。ちなみに、映画は多くの日本人役も韓国人が演じ、日本語をしゃべっている。2017年に公開され、韓国でヒットしたらしい。劇中の彼らの主張は天皇批判を含むが、はたして本作品はネトウヨが騒ぐ日本でも公開されるのだろうか。

2017/12/30(土)(五十嵐太郎)

ディアスポラ・ナウ!~故郷(ワタン)をめぐる現代美術

会期:2017/11/10~2018/01/08

岐阜県美術館[岐阜県]

展覧会タイトルの「ディアスポラ」(政治情勢、紛争、天災などにより故郷を追われて離散し、新たな土地に居住する民族的共同体)に「ナウ!」が付加され、「故郷」という語をアラビア語の「ワタン」と読ませていることが意味するように、本展の企図は「中東の紛争地域出身の中堅~若手作家の紹介」及び「政治的課題のアートを介した提示」にある。「アートによる商品化や搾取」を批判することは容易いが、脱政治化という政治が常態化した日本にあって、一地方美術館でこうした先鋭的な企画が開催されたことは評価したい。 出品作家は、日本のアートユニットであるキュンチョメ以外の5名は全て、シリア、パレスチナ、モロッコなど中東出身。アクラム・アル=ハラビは、シリアの現状を報道する凄惨な写真を元に、写されたものを「目」「頬」「手」「心臓」「血」など英語とアラビア語の単語に置き換え、コンクリート・ポエトリーのように美しい星座的配置に移し換えるとともに、イメージの消費に対する批判を提示する。東エルサレム出身でパレスチナ人の父を持つラリッサ・サンスールは、歴史修正主義による「証拠発見」を逆手に取り、「民族の歴史」を主張するため、炭素年代測定を操作した「皿=証拠品」を地中に埋める物語を、個人史を織り交ぜて映像化。神話的な光景に聖書やSF映画から借用したイメージを散りばめることで、フィクションとしての歴史=物語を露呈させる。また、2017年のヴェネチア・ビエンナーレにて「亡命館」を企画したムニール・ファトゥミは、波間を漂う船や港湾の映像の前に、ゴムタイヤ、衣服、救命胴着が散乱したようなインスタレーションを展示した。


左奥:ムニール・ファトゥミ《風はどこから吹いてくる?》(2002-) 右手前:ムニール・ファトゥミ《失われた春》(2011)


一方で、本展には問題がない訳ではない。「ディアスポラ」という主題を日本で扱うとき、「ニュースの中の出来事」として安全圏に身を置いたまま享受できる危機や悲惨さは俎上に載せられても、東アジア地域における植民地支配の歴史や「在日」の問題は、盲目的に看過されているのではないか。本展では、「中東の紛争や難民問題」という事象の「遠さ」(物理的/心理的な距離という二重の「遠さ」)を克服するために、キュンチョメが展示の最後に召喚されている。《ウソをつくった話》は、福島の帰宅困難者である高齢者たちとともに、Photoshopの画面上で、画像の中の通行止めのバリケードを「消去」していく過程を映した映像作品。《ここで作る新しい顔》は、日本在住の難民に個展会場に常駐してもらい、来場者とペアで「福笑い」をする様子を記録した映像作品である。いずれも、国内に現実に存在する「(帰宅)難民」とともに、「当事者との共同作業」を行なう点で共通する。


キュンチョメ《ここで作る新しい顔》(2016)


《ここで作る新しい顔》において、「福笑い」をするための「黒い目隠し」は、多義的な意味を担う装置となる。それは個人情報の「保護」であるとともに、「不審者」の暗示であり、「存在の抹消」である。難民たちは、固有性の発露としての「顔貌」を半ば奪われつつも、モニター越しに鑑賞者に対峙する。だが、難民たち一人ひとりを目隠しの正面像として収めたモニターが、ガラスケースの向こう側に設置されていることに注意しよう。「『彼ら』との間を確実に隔て、安全に隔離する透明な壁」の出現。それは、表象のコントロールと管理を行なう展示という近代的制度、美術館という場の政治性をはからずも露呈させてしまっており、この透明な「壁」の見えにくさこそが真に問われるべきではないか。

2017/12/17(日)(高嶋慈)

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おだやかな革命

会期:2018/02/03〜

ポレポレ東中野ほか全国順次公開

2011年に起こった東日本大震災以降、多くの人々のなかでエネルギーに対する意識が変わった。皮肉にも福島第一原子力発電所事故によって、日常生活のなかで当たり前のように存在した電気が、実は福島県でつくられ、はるばる首都圏に運ばれていたことを知った人は多いのではないか。本作は日本各地でエネルギー自治を目指す人々の姿を追ったドキュメンタリー映画だ。エネルギー自治とは、その地域の住民や企業がエネルギー需給をマネジメントすること。平たくいえば、エネルギーの地産地消である。

まず、原発事故後に福島県喜多方市の酒蔵当主が立ち上げた会津電力、放射能汚染によって居住制限区域となった同県飯館村で畜産農家が立ち上げた飯館電力が紹介される。彼らは太陽光発電事業に挑んでいた。特に飯館村では除染のために掻き集められた汚染土がまだ山積みされる傍らで、太陽光パネルを設置し、村民の自立と再生を目指して動いていた。多くの不安を抱えながらも未来を見つめるその畜産農家の目に、何か切なさと勇気をもらう。また岐阜県郡上市の石徹白(いとしろ)地区では、集落存続のために100世帯全戸が出資して小水力発電事業を立ち上げた。ここでは移住してきた若い夫婦にスポットを当てる。彼らは里山での暮らしに新たな価値を見出し、住民たちと交流しながら、その集落に新しい風を吹かす。ほかに秋田県にかほ市の風力発電、岡山県西粟倉村の間伐材の熱源利用などが紹介される。

米や野菜、畜産物などの食糧が農村部でつくられ、都市部に運ばれていることは誰しもが知っている。しかし農村部でつくられていたのは食糧だけではない。実はエネルギーも農村部で多くつくられ、都市部に運ばれていた。本作を観て、この当たり前の事実に改めて気付かされた。つまり人間が生きるために必要な資源を豊富に抱えているのは農村部の方なのだ。都市部は農村部におんぶに抱っこ状態であることをもっと自覚しなければならない。本作は、そうした状況に対して「おだやかな革命」を起こし、経済に縛られない幸せや喜び、豊かさを求める人々をあくまでもフラットな目線で伝えている。だからこそ、心に沁み入る。


©いでは堂


©いでは堂


公式サイト:http://odayaka-kakumei.com

2017/12/14(杉江あこ)

新海誠展「ほしのこえ」から「君の名は。」まで

会期:2017/11/11~2017/12/18

国立新美術館[東京都]

国立新美術館に到着したら、チケット売り場は長蛇の列だった。新海誠展だけではなく、同時開催の安藤忠雄展がさらに会場を混雑させていたせいもある。展覧会の背骨としては、彼の名前が知られるようになった劇場デビュー作の『ほしのこえ』(2002)から大ヒットとなった最新作の『君の名は。』(2016)まで、各章で主要作を取り上げ、その絵コンテ、ロケハンの資料とそれを参考にしてつくられたシーンの比較、音楽、雨など細部のこだわり、使用機材の変化、背景や美術の設定などを紹介している。これに加え、別章では、CMや短編など、ほかの作品、海外における新海作品の波及、そして彼に影響を与えた本などを取り上げていた。興味深いのは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980)を挙げていたこと。新海は大学の講義で読んだらしいが、自明と思っていた人間の「内面」や「風景」が発見されたことに驚いたという。意外なように思われるが、個人と風景の直結は、彼の作品におけるセカイ系的な特徴と関連して考えられるだろう。

新海誠の表現と制作手法を見ながら改めて気づかされたのは、ピクサー展でも紹介されていたような、フルCGによって彫刻を動かすアメリカのアニメと大きく違うこと。すなわち、一部の作画では3DのCGを導入しているとはいえ、ときには40に及ぶレイヤーを重ねた動く平面絵画としての密度の高さである。そして浪漫的な風景画としての圧倒的な美しさだ。日本の地方の風景を描きながら、ハドソン・リバー派のような崇高性をかもし出す。ただ、注目すべきは、電柱や電線の表現だろう。これらは一般的に醜い景観の代表として政治家がよく槍玉にあげるものだが、むしろ彼らが好むクール・ジャパンの風景表現においては重要な景観要素となっている。これは庵野秀明のアニメや映画においても同様だ。おそらく海外からは、電柱こそが日本で見たい風景と思われているのではないか。

2017/11/24(金)(五十嵐太郎)

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ブレードランナー2049

丸の内ピカデリー[東京都]

ヴァニシング・メディエーター(vanishing mediator)とは、「あるエージェント(行為者)がある状態から別の状態への大きな変動や変化の条件をつくり出し、このプロセスが安定するようになると、それが目に見える場面からは消え去っていく運動」(上野俊哉「使徒と天使─ヴァニシング・メディエーター再考」『現代思想』1996年12月号、p.106)。スラヴォイ・ジジェクやフレドリック・ジェイムソンら、ポストマルクス主義の議論でたびたび参照された概念である。その主旨は、マルクス主義やラカン派精神分析が前提にしていた主体概念を批判的に相対化する点にあった。差異や矛盾を弁証法的に止揚する主体ではなく、それらの敵対性を仲介しながら安定と同時に消滅する媒介者。ポスト構造主義の思想の多くがそうだったように、この概念の射程にはある種の動的なダイナミズムや運動性が収められている。
本作はいまもカルト的な人気を誇る伝説的なSF映画『ブレードランナー』(1982)の続編。『灼熱の魂』(2010)や『複製された男』(2013)、『プリズナーズ』(2013)で知られるドゥニ・ヴィルヌーヴが監督した。その演出は美術や音楽などの面で前作の世界観をやや過剰に踏襲しすぎている印象が否めない。とはいえ前作のヒロイン、レイチェルをわざわざ当時の姿のまま登場させたうえで、あっさり拳銃で頭を撃ち抜いてみせたように、ヴィルヌーヴは前作を十二分に意識しつつ、前作の神話性をあえて切断することで、本作を2010年代の現代に示そうとしたのではなかったか。160分あまりを一気に見せる、傑作中の傑作である。
人間とレプリカント──。前作と同様、映画の全編を貫いているのは双方を隔てる境界線である。ただ、本作におけるそれは前作以上に曖昧なものに感じられるのが大きな特徴だ。人間であるはずなのに機械のように冷酷だったり、レプリカントであるはずなのに暴力の前後に涙を流したり、物語が進行するうちに人間とレプリカントを峻別する境界線が次第に酷薄になってゆくのだ。
結果として映画の中心に浮かび上がってくるのは、はたして人間が人間である根拠は何なのか、すなわち人間の条件を問う、きわめて根源的な設問である。前作において、人間として生きてきたレイチェルがじつはレプリカントであることを知り激しく動揺したように、本作において、主人公のレプリカント、Kはレイチェルから生まれた可能性に煩悶する。ジョーという人間らしい名前を得たとき、彼は人間とレプリカントの境界線上で不安定な均衡を保ちながら、内なる人間性を弄り出そうとしていたように思えてならない。だからこそ自らの生命が終わることを悟った瞬間、彼は人間としてのふるまいを選び取ったのである。ちょうど前作においてレプリカント、ロイがそうしたように──。
ロイとKが体現した人間的なふるまい。それが「消滅する媒介者」である。ロイはデッカードとレイチェルを、Kはデッカードと彼の娘を、それぞれ自らが消えることと引き換えに媒介した。それが、いわゆる通俗的な「滅びの美学」と重複していることは否定できないとしても、しかし、重要なのは、ロイにしてもKにしても、他者を媒介するという行為に人間の条件を見出したという点である。結果的に生かされることになるデッカードよりも、むしろロイやKのふるまいに鑑賞者の視線が惹かれるのは、両者がデッカード以上に人間らしいからにほかならない。映画の終盤で、降りしきる雪を全身で感じていたKは、消滅せざるをえない存在の寂しさを抱えつつも、媒介することの豊かな意味をかみしめていたに違いない。
「主体は(中略)潜在的には『消滅する媒介者』であり、一種の『複製=レプリカント』である」(上野、前掲書、p.119)。だとすれば、「消滅」の意味は必ずしも生命活動の終焉だけを意味するわけではない。それは人間とレプリカントを分類する基準が消え失せ、ひいては「人間」というカテゴリーが消失する可能性すら暗示している。そのとき、私たちはいったい何なのか。

2017/11/20(月)(福住廉)