artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流

会期:2017/02/18~2017/03/05

アーツ千代田3331メインギャラリー[東京都]

ソーシャリー・エンゲイジド・アート。訳せば「社会的につながる芸術」ですかね。長いんで「SEA」と略す。これまで「コミュニケーションアート」「関係性の美学」「アート・アクティヴィズム」「地域アート」などと呼ばれてきた、社会とかかわるアートの総称だ(でもそれぞれ少しずつ守備範囲が異なる)。出品はペドロ・レイエス、西尾美也、アイ・ウェイウェイ、スザンヌ・レイシー、丹羽良徳ら。社会とかかわるアートだから、成果物(作品)はあまり重視されず、おのずとこうした展覧会は資料展か記録展にならざるをえない。それはそれで貴重なものだが、そもそもこうしたギャラリーに収まるアートへの反動として生まれた側面もあるので、展覧会として見せるのはどうなんだろうという疑問もある。そのことも含めて、問題提起としては価値ある企画だ。

2017/03/05(日)(村田真)

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みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──

会期:2017/03/02~2017/03/04

フラッグスタジオ[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出/振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催されたドキュメンタリー映画祭。東日本大震災以降の東北に暮らす人々の「語り」に耳を傾けながら、記録し続ける映画監督、映像作家たちの作品計4本が上映された。上映作品は、『波のした、土のうえ』(監督:小森はるか+瀬尾夏美)、『ちかくてとおい』(監督:大久保愉伊)、『なみのこえ 気仙沼編』(監督:酒井耕、濱口竜介)、『うたうひと』(監督:酒井耕、濱口竜介)。
4作品はいずれも、「語ること」の位相がもうひとつの主題である。『なみのこえ 気仙沼編』と『うたうひと』については、同じく関連プログラムとして開催された「東北記録映画三部作」上映会のレビューで触れたのでここでは詳述しないが、カメラワークのトリッキーな仕掛けにより、「語り手」と擬似的に対面する「聞き手」へと鑑賞者を転移させる装置としてはたらく。また、大久保愉伊の『ちかくてとおい』は、かさ上げ工事で土に埋もれてしまう故郷、岩手県大槌町の姿を、震災後に生まれた姪へ向けて映像と言葉で伝えようとする作品。監督自身から姪へ、という個別的で親密な関係性の上に成り立つあり方は、『なみのこえ』の「語り手」と「聞き手」の関係性(夫婦や親子、友人など)とも共通する。
一方、小森はるか+瀬尾夏美の『波のした、土のうえ』では、被写体となる陸前高田の住民へのインタビューを元に、瀬尾が一人称で書き起こした物語を、もう一度本人が訂正や書き換えを行ない、本人の声で朗読する。その声と町の風景を重ねるように、小森が映像を編集した作品だ。物語としての書き起こしと、本人の声による朗読。それは一種の共同作業であり、「声を一方的に簒奪しない」という倫理的側面を合わせ持つ。また、語った言葉そのままでない距離の介在は、自身の経験や感情を客観化する過程であり、生々しさが和らぐ分、「共有できなさ」の心理的な溝が縮まると同時に、プロのナレーターのように矯正していない発話に残る訛りやイントネーションは、他者性を音声的に刻印する。
最後に、本映画祭の「みちのくがたり」というタイトルの含みについて。4作品はいずれも、みちのく(東北)についての語りであると同時に、「ドキュメンタリー」における「語りのあり方」の新たな発明の必要性、語ることとその記録との関係をどう更新するか、という問いの地平を開いていた。

関連レビュー

酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/03/04(土)(高嶋慈)

試写『Don't Blink ロバート・フランクの写した時代』

ロバート・フランクって写真史のなかの人だと思ったら、まだ生きていたんですね。娘と息子を若くして亡くしたが、本人は90歳を過ぎても健在だという。1924年スイスに生まれ、第二次大戦後に渡米。1959年に出した写真集『The Americans』で注目を集めたが、映画にも手を染める。この映画ではさまざまな時代のロバートが入れ替わり登場するが、そんなフィルムが残っていたのは彼自身が映画を撮っていたからだろう。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやローリング・ストーンズらの音楽も懐かしい。

2017/03/03(金)(村田真)

Chim↑Pom展“The other side”

会期:2017/02/18~2017/04/09

無人島プロダクション[東京都]

Chim↑Pomの真髄は、現代美術の息苦しい理論や硬直した作法に束縛されることなく、柔軟な感性としなやかな瞬発力によって同時代性を獲得する点にある。東日本大震災に反応したアーティストのなかでも、その発想と行動力は群を抜いていると言ってよい。
今回、彼らが注目したのは「国境」。アメリカ合衆国のトランプ大統領がメキシコからの不法移民の侵入を防ぐため国境沿いに「壁」を建設すると公言しているなか、その国境に隣接するメキシコで制作した映像作品などを発表した。これまでと同様、同時代の現代社会に介入することを試みた作品である。
舞台はスラム街の一角にある手づくりの邸宅で、家の壁がそのまま国境になっている。「こちら側」と「あちら側」を隔てる境界が生々しい。島国に住む私たちは国境を意識する機会に乏しいが、彼らはそれが暮らしのなかに剥き出しにされた現場に通いながら作品を制作した。「あちら側」のアメリカの監視塔に相対するかのように「こちら側」の樹木の上にツリーハウスをつくったり、「あちら側」の象徴である自由の墓を「あちら側」に建てたり、いずれも国境が露呈した現場ならではの痛快な作品である。
とりわけ優れていたのが《The Grounds》。「壁」の手前で深い穴を掘り、そこにメンバーのエリイが身を沈めながら境界部分の土に足跡を残した映像作品だ。むろん人の移動を一方的に許可ないしは禁止する国境の権力性を足蹴にするという批評的な意味がないわけではない。だが、それ以上に重要なのは、彼らが国境の人工性を浮き彫りにした点である。この現場では国境が物質として可視化され、なかば「自然」と化しているが、彼らは地中に潜り、地中からの視点を提供することで、その「自然」が決して文字どおりの自然ではないことを表わした。暗闇の中でアメリカへの呪詛の言葉を吐くエリイは愉快だが、私たちがその暗闇の「向こう側」に見出すのは、国境があるかないかにかかわらず、地中はあくまでも地中であり、大地はどこまでいっても大地であるというイメージである。彼女が暗い穴から地上に這い上がったとき、抜けるように明るい青空の下に敷設された国境の禍々しさが逆照されるのである。
社会的現実を芸術によって変革するのではなく、その社会的現実そのものが芸術と同じように人工的につくられたものであることを鮮やかに照らし出すこと。Chim↑Pomが柔軟な感性としなやかな瞬発力によって私たちの眼前に示しているのは、このようなイメージである。それは、いわゆる「まちおこし」や「地域の活性化」を目的としたアートプロジェクトや社会的問題の現実的な解決を図るアーティストによる作品とは明らかに異なっているが、社会と芸術の媒介を試みている点で言えば、それらと同じように社会介入型の現代美術であると言えよう。ただChim↑Pomに独自性があるのは、その媒介をあくまでも私たちの想像力によって成し遂げようとしているからであり、その点で正確に言い換えれば、芸術が社会に介入するのではなく、社会を芸術に介入させているのである。Chim↑Pomは現代美術の周縁から生まれ、現にそのように位置づけられがちだが、実は現代美術の王道を追究する、きわめてまっとうなアーティストなのだ。
しかし、現代社会は現代美術に決して小さくない難問を突きつけている。社会的現実が人工的な造形物であることは事実だとしても、昨今の政治の喜劇的混乱が端的に示しているように、その虚構性はますます増強しつつあるからだ。かつてChim↑Pomは広島の空に飛行機雲で「ピカッ」と描き大顰蹙を買ったが、いまもっとも「やばい」のはもしかしたらあの政治家なのかもしれない。自己表現のために公共空間を使用するアーティスト以上に、権力を傘に公共性をなりふり構わず私物化しているからだ。虚言を憚ることなく現実の政治が遂行される時代にあって、現代美術のアーティストはいかなる想像力によって立ち向かうのか。Chim↑Pomは「私性の公共化」という実践によって、その問いにいち早く回答した。

2017/03/02(木)(福住廉)

酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会

会期:2017/02/09~2017/03/01

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催された、ドキュメンタリー映画の上映会。酒井耕・濱口竜介の共同監督による「東北記録映画三部作」全四編が4日間に分けて上映された。第一部『なみのおと』(2011)は、震災から約半年後、岩手から福島にかけての沿岸部で暮らす人々の「対話」を記録したもの。第二部『なみのこえ』(2013)は「気仙沼編」と「新地町編」から成り、震災から約一年後に同様の手法で撮影された。震災の体験談に始まり、「故郷とは何か」という問い、街や産業の将来への不安や希望、今の心情が語られるなか、夫婦、親子、兄弟、友人、職場の同僚、といった関係性や相手との距離感の遠近が次第に浮かび上がってくる。それは「被災者」という記号を解除させ、二人の関係性の中に浮き上がるその人個人の人柄や考え方へと見る者を引きつけていく。一方、第三部『うたうひと』(2013)は、「みやぎ民話の会」の小野和子を聞き手に、高齢の民話の語り手たちが民話を語る様子を記録した作品。民話語りの後には小野による考察が語られ、先祖たちの厳しい暮らし──女性が嫁ぎ先で味わう苦労、水の権利と貧富の差など──が背景にあることが示される。


『なみのこえ 新地町編』
© silent voice


ここで、『なみのおと』『なみのこえ』(被災経験者の語り)と『うたうひと』(民話の語り)が「三部作」としてまとめられた意味と、一見隔たった両者の関連性を考えるには、第三部の『うたうひと』から折り返して考えた方が分かりやすいかもしれない。子どもの頃、祖父母や親から繰り返し聞いた民話を受け継ぎ、今度は自分が語り手となることは、すなわち他者の記憶を生きる、(死者も含めた)他者の声を自分の身体に宿すことを意味する。そこでは、目の前で対面する身体から発せられる声はひとつの声ではなく、背後に無数の声が流れ込んでいる。では、「震災の記憶」を語り継ぐ人はいるのか? 民話がひとりの人生を超える命脈を保ち続けてきたように、「震災の記憶」も世代を超えて継承されていくのか? こうした危機的な問いが、おそらく制作の根底にある。長期的な避難や移住による離散、コミュニティの消滅により、予想される「震災の記憶の語り手」の不在。また、記憶の継承は、民話の口承伝達がそうであるように、「語り」だけでなく、「語る─聞く」共時的な関係がなければ成立しない。
そこで、本三部作が採用するのが、カメラワークの創造的/想像的な仕掛けである。固定カメラが真横から映していた2人の「対面」が、いつの間にか、話し手/聞き手の姿を「真正面」で捉えるショットに替わっている(つまり彼らは、実際には対話相手でなくカメラに向かって喋っていることになる)。撮影と編集上のトリックだが、見る者はあたかも映像の中の彼らと同じ空間に身を置いて対面しているような感覚を味わい、擬似的な「聞き手」の位相に転移させられてしまうのだ。このとき映像は、単に記録メディアであることを超えて、時空間の共有を擬似体験させる装置となる。
だからこそ、「わたし」と「あなた」という関係性を成立させる想像力の駆動のためには、鑑賞・受容のあり方も一考すべきではないか。巨大なハコの中で、屹立する大スクリーンを前に、匿名化した集合的な観客として受容する鑑賞体験ではなく、ほぼ等身大のプロジェクションとごく少数人で(理想的には1対1で)向き合う親密な受容体験が望ましい。その意味で本三部作は、「他者の記憶の継承」という点から記録メディアのあり方への再考を促すとともに、「映画」の受容・鑑賞の様態への問い直しも射程に含んでいる。


『なみのこえ 気仙沼編』
© silent voice

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2017/03/01(水)(高嶋慈)