artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2018

会期:2018/04/14~2018/05/13

京都新聞ビル印刷工場跡ほか[京都府]

「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」が6回目を迎え、今年も、京都市内で多彩な展覧会、イベントなどが展開された。

この写真フェスティバルの特徴のひとつは、寺院、町家、倉など、京都特有の環境を活かしたインスタレーション的な展示に力を入れていることだが、今年は新たに2つの会場が加わった。グローバリズムや富裕層の物質主義を批判的にドキュメントしたアメリカの女性写真家、ローレン・グリーンフィールドの「GENERATION WEALTH」展は、京都新聞ビルの地下1階の印刷工場跡で開催された。かつて輪転機などが置かれていた、インクの匂いが微かに漂うかなり広いスペースを使った大規模展だが、廃屋化した部屋と派手なカラープリントの取り合わせが見事にはまって、強烈なインパクトを与える展示になっていた。また、丹波口の京都中央市場内の旧貯氷庫の建物(三三九)でも、ギデオン・メンデルの「Drowning World」展が開催された。洪水に襲われた人々の行動を追った映像を、マルチスクリーンで見せる展示だが、やはりやや特異な空間によって、視覚的な効果が増幅されていた。

だが、今回の企画展示の目玉といえるのは、帯製造・販売の老舗である誉田屋(こんだや)源兵衛 竹院の間で開催された深瀬昌久「遊戯」展だろう。2012年に亡くなった深瀬の回顧展は、諸事情により国内ではなかなか開催できなかった。今回、深瀬昌久アーカイブスのトモ・コスガと、テート・モダン写真部門のキュレーター、サイモン・ベーカーがキュレーションした250点に及ぶという展示は、その意味で画期的なものといえる。しかもそのなかには、深瀬が再起不能の重傷を負った事故の直前に開催された「私景’92」(銀座ニコンサロン)に展示された「ブクブク」、「ベロベロ」、「ヒビ」といったシリーズや、「烏」シリーズの最終ヴァージョンとなる、手札判の印画紙にプリントした写真にサインペンでドローイングした連作など、ほとんど未発表だった作品が多数含まれている。深瀬の自己探求の凄みをあらためて感じるとともに、もっと規模の大きい、本格的な回顧展を見てみたいと強く思った。

「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」のもうひとつの呼び物というべき、サテライト展示の「KG+」も、今年は70以上に増えている。とても全部回るわけにはいかなかったが、見ることができたなかでは、山谷佑介の「The doors」(ギャラリー山谷)のパフォーマンスが出色の出来映えだった。山谷が叩くドラムの振動に合わせて、彼の周囲に設置した数台のカメラのストロボが発光し、シャッターが切られる。さらにカメラはプリンターに接続していて、その場で写真がプリントされて床に散らばっていく。スリリングなセルフポートレートの出現の現場を、目の当たりにすることができた。

会場があまりにも広範囲で、とても一日では回りきれないこと。チラシの情報や地図の表記がわかりにくいこと。「UP」という今回のテーマが、ほとんど浸透していないので、展示やイベントの設定に統一感がないことなど、いくつか気になる点はあった。だが、これだけの規模と内容の企画を、毎年質を落とさず継続できていることだけでも、賞賛に値するのではないだろうか。

2018/04/15(日)(飯沢耕太郎)

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澤田華「見えないボールの跳ねる音」

会期:2018/04/13~2018/04/29

Gallery PARC[京都府]

澤田華が近年に制作している「Blow-up」(引き伸ばし)シリーズや「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)シリーズは、印刷物や画像投稿サイトの写真のなかに写り込んだ「正体不明の物体」を検証するため、写真を引き伸ばし、形態を分析し、3次元の物体として「復元」を試みるなかで、イメージの「誤読」が連鎖的に生み出されていくプロセスの提示である。

本展では、「Mr.ビーン」役で有名な俳優、ローワン・アトキンソンのポートレイトが掲載された書籍を出発点に、彼が手にしている「よく分からない何か」(一口かじったクラッカー?)に着目した。「これは何か」と指さす手とともに元の写真図版を入れ子状に写した写真に始まり、ほぼ実物大に引き伸ばし、輪郭線を抽出し、カラー数値を分析し、画像検索にかける。だが、「干し大根」「せんべい」「ギョーザの皮」「聖体」など近似値の回答結果が得られるだけで、「正解」は分からない。検索結果を表示するウェブ画面をプリントした紙に加え、元の書籍のAmazonの商品ページやWikipediaの「ローワン・アトキンソン」の項目ページもプリントアウトして掲示され、謎が解明されないまま、情報だけが蓄積されていく。
さらに別室では、同じ写真のなかに見出された「もう一つの謎の何か」(もう片方の手と服の隙間にチラ見えする模様?)が分析と検証を加えられ、イメージの「誤読」を生み出していく。モニターには、トリミングや解像度などの差異を施した画像を、Google画像検索にかけた結果が次々と表示される。「これは、人の目です」「これは、タトゥーです」「これは、女性の隣に立っている人々のグループです」……。「これは、~です」の空白部分はいくらでも代替可能であり、写真の明白な意味(と思われていたもの)は解体されていく。

写真に偶然写り込んだ不可解な細部、一種の「プンクトゥム」に着目して検証を加えていく方法論はこれまでと同様だが、本展では、「情報」の連鎖的な生産がもう一つの焦点となっている。また、1枚の写真のなかに複数の不可解な細部を見出し、それぞれを情報の渦巻く海へと拡散させていくことで、「写真には単一の本質的な意味など内在しない」というメタメッセージが差し出される。それは、InstagramなどSNSや画像共有サイトにおける「タグ付け」に奉仕して流通する写真の現在的あり方への批評でもある。澤田作品は、写真が単一の意味へと収斂することに抗い、眼差しの統制を解除し、修正によってノイズが排除されたデジタル写真から「写真」の持つ不可解な力を取り戻すための試みであると言える。
「これは、~です」の指示対象はまた、埋まらない空白としての写真の細部を指し示すと同時に、「これは、印刷物です」「これは、インクのドットです」「これは、モニターの表面です」というように、次々と異なるメディウムの間を憑依していく。澤田作品は、イメージが複数のメディウムの間をサーキュレーションしながらゴーストのように漂い続ける状況そのものをも指し示しているのだ。


『見えないボールの跳ねる音』展 会場風景
撮影:麥生田兵吾 Mugyuda Hyogo
画像提供:ギャラリー・パルク Gallery PARC

関連レビュー

澤田華「ラリーの身振り」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/04/15(日)(高嶋慈)

KYOTOGRAPHIE 2018 森田具海「Sanrizuka ─Then and Now─」

会期:2018/04/14~2018/05/13

堀川御池ギャラリー[京都府]

タイトルの「Sanrizuka」は、1960年代後半に成田国際空港の建設予定地となり、地元農家や学生らが激しい抵抗運動を繰り広げた千葉県の農村地域「三里塚」を指す。森田具海は、かつて熾烈な「三里塚闘争」が行なわれたこの地の現在の姿を、4×5の大判カメラで淡々と写し取っていく。それは、長閑な野原や林のなかに異物として突如現われ、境界線を可視化し、視界を塞いでいく「壁の生態学」とも言えるものだ。植物が生い茂り、サビが浮き、歳月を物語る壁。何重もの金網フェンスが張り巡らされ、管理と排除の力学で覆われた一帯。至近距離で真正面から撮られた壁は、文字通り目の前に立ち塞がる威圧感を与えるが、荒涼とした野原に建つ壁をやや遠望に捉えたショットは、どこか空虚な印象を与える。辺りは無人だが、ある壁の上部にはよく見ると監視カメラが設置され、私たちは壁によって常に「見られている」。土地に引かれた境界線を物理的な障壁として顕現させ、国家や資本主義といった権力を可視化する装置として機能させる政治学が、ここではつぶさに観察されている。

また、展示に際して森田は、2つのインスタレーション的な仕掛けを施した。1点目は、空港建設反対運動に参加した人々が発したスローガンを、当時用いられた字体のまま、壁面に掲げている。だが、白い壁に白い文字で記された抵抗の言葉は見えづらく、「かつて」の記憶への接近の困難そのものを指し示すかのようだ。また、2点目として、展示室内に実物の金網フェンスを用いて四角い囲いを出現させ、その壁面をぐるりと一周するように写真を展示している。だが、この展示方法は両側面があるのではないか。インパクトがあって分かりやすい反面、「壁」が物理的に出現することで、写真自体の喚起力を削いでしまうのではないか。目の前の、仮設的なフィクションとして存在する「この」壁は、三里塚に建つ「あの」壁の代理=表象とはならない。むしろ、写真自体が、個別的な対象を写しつつ、世界中に無数に存在する壁や境界線へと拡張可能な喚起力を持つべきだろう。


森田具海《新設道路、空港拡張予定地、天神峰》2017
© Tomomi Morita


森田具海「Sanrizuka ─Then and Now─」堀川御池ギャラリー 1階
© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2018

KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp

2018/04/15(日)(高嶋慈)

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KYOTOGRAPHIE 2018 小野規「COASTAL MOTIFS」

会期:2018/04/14~2018/05/13

堀川御池ギャラリー[京都府]

白い巨大な壁が、海と陸地を隔て、自然と人間の住む世界のあいだに境界線を築いていく。その真新しい白さと屹立する巨大さが、風景のなかで異物感を際立たせる。小野規は、東日本大震災後、岩手・宮城・福島各県の沿岸部に建設されつつある、高さ10m以上、総延長400kmにおよぶコンクリートの防潮堤を2017年夏に撮影した。

広大なスケール感と幾何学的構成美を兼ね備えた小野の写真は、現在進行形で建設中の防潮堤=壁のさまざまな側面を鋭く切り取っていく。波立つ海から住宅地や畑を分離し、自然/人間、海/陸の連続性を断ち切り、境界線を可視化するものとしての防潮堤=壁。漁港を要塞のように取り囲む幾何学的な形態の威容。住宅地のすぐ向こうに垣間見え、隣家との塀のような平凡さで向こう側の風景を遮断していく壁。なだらかな斜面に広がる畑の先に続く漁港と、その穏やかな眺望を視界から消していく壁。「日常のすぐ隣に侵入してくる防潮堤=壁」が、風景を「遮断」していく様が冷徹な眼差しで切り取られる。

また、海沿いの崖の隆起した地層と対比的に撮影された防潮堤は、湾曲/人工的な直線という視覚的対比を強調し、地層の湾曲にかけられた地圧すなわち地震の巨大なエネルギーを示唆する。黒ずんだ以前の防潮堤と、その何倍もの高さでそびえ立つ真新しい壁の対比は、技術力の誇示か、繰り返される自然災害に対する人間の無力さの証明か。さらに、このモニュメンタルな壁の幾何学的な色面、その「白」という色の虚無的な広がりが風景を消去していく様は、震災の記憶の忘却に対する暗喩的事態でもある。


小野 規「COASTAL MOTIFS, 2017-2018 (#9183, 岩手県大船渡市)」
© Tadashi Ono / Villa Kujoyama

KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp

2018/04/15(日)(高嶋慈)

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ライアン・マッギンレー「MY NY」

会期:2018/04/06~2018/05/19

小山登美夫ギャラリー[東京都]

ライアン・マッギンレーは2003年に、25歳でニューヨークのホイットニー美術館で個展「The Kids Are All Right」を開催した。その伝説的な展覧会が、2017年にデンバー現代美術館で再現され、同名の写真集がSkira Rizzoli Publicationsから刊行された。今回の小山登美夫ギャラリーでの展示は、そのなかから約10点を選んで再構成したものである。あわせて、彼が当時使っていたポラロイドカメラや、ヤシカのコンパクトカメラも展示してあった。

ニュージャージーからニューヨークに出てきた1996年以来、マッギンレーは「身近なボヘミアン的な環境」で出会った人物たち`を、取り憑かれたように撮影し続けていた。一晩でフィルム20~40ロールを撮ることもあったという。そんな撮ることの歓びと恍惚、逆にそのことがオブセッションとなっていくことへの不安や苦痛とが、この時期の彼の写真には両方とも刻みつけられている。

マッギンレーは、ホイットニー美術館の個展の大成功で一躍アート界の寵児となり、その後コンスタントに力作、意欲作を発表していった。だが、「The Kids Are All Right」に脈打っている切迫した感情は、それ以後の作品では次第に失われていったように見える。今回展示された、血と精液の匂いがするスナップ写真やポートレート(セルフポートレートを含む)を、脱色して小綺麗にすることで、写真の世界を生き延びていったわけだ。それを頭ごなしに否定する必要はないだろう。だが、今回展示された作品を見ると、別な選択肢もあったのではないかとも思ってしまう。

2018/04/11(水)(飯沢耕太郎)