artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
亀山亮『山熊田』
発行所:夕書房
発行日:2018/02/20
これまでメキシコ・チアバス州のサバティスタ民族解放軍、パレスチナ自治区のインティファーダ(イスラエルの占領政策に対する民族蜂起)などを取材し、アフリカ各地の戦場を撮影した写真をまとめた『AFRICA WAR JOURNAL』(リトルモア、2012)で第32回土門拳賞を受賞した亀山亮の新作写真集は、やや意外なものとなった。今回彼が撮影したのは、山形との県境に位置する新潟県村上市山熊田。山間の集落に50人ほどが暮らす小さな村である。農業のほか、伝統的な「シシマキ」と呼ばれる熊猟、シナの皮の繊維で織り上げる「シナ布」などが主な産業であるこの村の四季の暮らしを、亀山は被写体との距離を縮めて丹念に撮影している。
そのまさに「山と熊と田」の写真群を眺めていると、亀山がなぜ取り憑かれたように村に通い詰めたのかがじわじわと伝わってくる。仕留めた熊も含めて、「山から手に入れたものはみんなで等分に分かち合う」山熊田の生活原理は、「グローバリゼーション」とは対極のものだ。利益優先で、便利さを追求してきた結果として、現代社会はさまざまな矛盾をはらみ、軋み声を上げている。亀山が撮影し続けてきた世界各地の「紛争」もその産物と言えるだろう。彼は、もう一度人の暮らしと幸福の原点とは何かを問い直し、つくり直すきっかけとして、この村にカメラを向けたのではないだろうか。
とはいえ福島第一原子力発電所事故の余波で、熊の体内から放射能が検出され、地球環境の温暖化で野生動物の生態系も大きく変わるなど、村の暮らしも次第に現代社会の毒に侵されつつある。そのギリギリの状況になんとか間に合ったという歓びと、それがいつまで続くのかという不安とが、この写真集には共存している。写真がモノクロームで撮影されていることについては、微妙な問題を孕んでいると思う。モノクロームの深みのある画像は、美しく、力強い。だが、それはともすればややノスタルジックな感情も呼び起こしてしまう。カラー写真の生々しさを、あえて活用するやり方もあったのではないだろうか。
2018/02/20(火)(飯沢耕太郎)
笠木絵津子展 シリーズ「地の愛」より「孝一の戦争と戦後」
会期:2018/1/29~2018/2/3
藍画廊[東京都]
自分より若いころの親の写真を見たりすると、だれしもなにかしら感慨を抱くもの。とくにそれが戦前・戦後の厳しい時代であればなおのこと、ここで父が戦死していたらとか、母が別の男と出会っていたらどうなっていたかみたいな、自分の存在を根源から揺るがしかねないのだ。しかし戦前の親の写真があるのはもはや50-60歳以上の世代だろう。笠木は15年ほど前から母親の昔の写真と自分の写真をコンピュータで合成し、時空を超えた出会いを実現させてきた。そうした母のシリーズが終わってから、父の生涯を同様の手法で綴る「地の愛」シリーズを始め、今回はその3回目となる。作品は大作を壁に1点ずつ、計4点の出品。
笠木の父・孝一は、1945年に招集されて和歌山で軍事訓練を受けたが、敗戦により命拾いしたという。その和歌山の訓練場所を推定して撮影し、そこに孝一、戦闘機、笠木の夫らの写真を合成したのが《昭和20年7月頃、孝一、和歌山にて軍事訓練中》だ。過去と現在、モノクロとカラー、アナログとデジタルが混在した作品だ。敗戦後復員し、故郷の姫路でGHQの通訳の仕事を得た時期を表わしたのが《昭和21年頃、孝一、姫路にて進駐軍の通訳の仕事を始める》で、当時と現在の姫路の駅前風景を組み合わせている。同様に《昭和25年頃、孝一、神戸市赤塚山の兵庫師範学校を卒業する》《昭和25年頃、孝一、芦屋市立宮川小学校の教員になる》と続く。いずれも現在の写真をベースに過去のイメージをざっくり合成したもので、ぼくは作者に世代が近いせいかついじっくり見てしまったが、果たして若い世代がどれだけ興味を持つだろう。
2018/02/2
村山康則「月の出てない月夜の晩に」
会期:2018/02/14~2018/02/20
銀座ニコンサロン[東京都]
会場に掲げてあった村山康則のメッセージを引用しておくことにしよう。
「いくつもの層が 複雑に絡み合うように矛盾に満ち、一面的には理解しえない社会をそのままに 受け止めること/社会の中の個の存在/そういったものを 表現したいと思いました」。
28点の写真に写り込んでいるのは、都市風景の断片である。一見すると多重露光のようなのだが、実際にはガラスの映り込みと向こう側の光景を、そのままストレートに撮影したものだという。都市を構成する「いくつもの層」をガラスや鏡を媒介として浮かび上がらせる手法は、特に珍しいものではないが、ポジションの選択と画面構成が的確なので、意図がきちんと伝わってくる。特にビルなどの小さな窓とその中の人物たちの姿を、とてもうまく取り込んだことで、「社会の中の個の存在」がきちんと浮かび上がってきていた。撮影時間を夜に絞ったこともよかった。クオリティの高い、安定感のある表現だが、このままだと見え方がパターン化する可能性がある。もっとダイナミックな視点の変化を試みること、また東京や横浜だけでなく、アジアのほかの国々などへも被写体を広げていくことも考えられそうだ。
北海道出身の村山は、ワークショップやグループ展に積極的に参加している写真家だが、本格的な個展は今回が初めてだという。この展示を機会にさらに作品をスケールアップしていってほしい。なお本展は3月15日〜3月21日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2018/02/19(月)(飯沢耕太郎)
安村崇『1/1』
発行所:オシリス
発行日:2017/12/15
安村崇の「1/1」のシリーズは、前に個展(MISAKO&ROSEN、2012)で見たことがある。その時は面白い試みだとは思ったが、あまりピンとこなかった。だが今回写真集として刊行された『1/1』を見て、その目に鮮やかに飛び込んでくる印象の強さに驚きを覚えた。おそらく、ギャラリーの展示が精彩を欠いていたのは、壁に並ぶ作品が一度に目に入ってくることと、作品以外の要素(ノイズ)が作用して、このシリーズの純粋性が損なわれてしまうからではないだろうか。しかし、写真集のページをめくって一点一点の作品を味わうことで、安村が4×5インチ判の大判カメラのファインダーを覗いて被写体と対面している視覚的体験を追認しているようにも感じられた。
安村が撮影しているのは「主に地方の公園や港、市民会館など公共の場」の壁、床面、屋根などであり、それらの表面の凹凸や色彩が、一切の妥協なくまさに「1/1」の画像に置き換えられている。にもかかわらず、清水穰が写真集の解説の文章(「イクイヴァレント2017──安村崇によるスティーグリッツの再解釈」)で指摘するように、「その厳格な方法論から見れば人間的な要素を一切排除した極北の写真」であるはずなのに「まさにそのことによって、人間くさい世界を回帰させる」という逆説が生じてくる。そこに写っているのは、経年変化で趣味の悪さがさらに露呈してしまった「公共の場」の、身も蓋もなく散文的な外観であり、日本社会の縮図ともいうべき眺めなのだ。
安村がデビュー作の「日常らしさ」(1999、「第8回写真新世紀」グランプリ)以来追い求めてきた、写真を通じて具体的な世界を「見る」ことの探究が、また一段階先に進んだのではないだろうか。
2018/02/19(月)(飯沢耕太郎)
DOMANI・明日展PLUS×日比谷図書文化館 本という樹、図書館という森
会期:2017/12/14~2018/2/18
日比谷図書文化館[東京都]
文化庁の海外研修制度(在研)の成果を発表する「DOMANI・明日展」の関連展示。きっかけは昨年の「DOMANI・明日展」の出品作家の折笠良が、ギャラリートークで彫刻家の若林奮の著書『I.W─若林奮ノート』について触れたこと。若林も在研の初期のころフランスに滞在した経験があり、そのとき訪れた先史美術の遺跡について書いたのが『I.W─若林奮ノート』だ。同展は、当時若林が収集した石片や絵葉書、写真、スケッチブックなどを中心に、「本」に関連する在研経験者の作品を選んだってわけ。会場をあえて日比谷図書文化館にしたのもそのためだ。手描きアニメの折笠や、ペラペラマンガみたいなアニメの原型を出した蓮沼昌宏、ヨーロッパの古い図書館を鉛筆で描いた寺崎百合子らの作品は直接的に本をイメージさせるが、小林孝亘や宮永愛子らはいささかこじつけっぽい。
帰りぎわに上階の図書室にも藤本由紀夫の展示があるといわれたものの、時間がないのでスルーしようと思ったが、やっぱり急ぎ足で見ることに。いやー見てよかった。本棚の隙間にアルファベットのパスタを散りばめたり、「Look」「Book」と1字ずつ変えながら「Head」「Read」へとアナグラムしたり、「ECHO」という文字を鏡の上にのせたり(天地逆転しても変わらない)、全紙サイズの種類の異なる紙を閉じた超大型の白紙本を置いたり、文字と本をテーマに遊んでいるのだ。これこそ「本という樹、図書館という森」を楽しむ作品群にほかならない。やっぱり図書館でやるなら展示室より書棚や閲覧室を使いたい。っていうか、よく使わせてくれたもんだ。
2018/02/17(村田真)