artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

金川晋吾「長い間」

会期:2018/01/27~2018/02/25

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

毎年この時期になると、「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、現代写真家の企画展が開催される。今年は「蒸発」を繰り返す父親を撮影した「father」シリーズで注目を集めた金川晋吾(1980、京都府生まれ)をフィチャーした「長い間」展を見ることができた。

2008年から撮り続けられている「father」は、すでにかなりの厚みに達しており、2016年には青幻舎から同名の写真集も刊行されている。今回は出品点数を14点に絞り、大きめのプリントを並べて、父親のポートレートと観客とが正対するような展示にしていた。そのことによって、彼自身の人生をそのまますべて呑み込んでしまったような、なんとも不可解かつ曖昧な中年の男の存在感が、より生々しく露呈しているように感じた。金川は父親にカメラを預け、毎日自分の顔を撮影してもらうというプロジェクトも試みているのだが、それらの画像は映像作品としてスライドショーのかたちで見せている。その上映時間はなんと3時間22分。さすがに全部見ることはできなかったが、しばらく見続けていると、なかなか目を離せなくなってしまう。

もうひとつ、今回は金川が2010年から撮影し始めた「叔母」(父親の姉)のポートレート作品19点もあわせて展示されていた。彼女も理由がわからないまま失踪し、20数年間行方不明になっていたのだという。ここでも「father」と同じく、彼女の顔貌や微妙な身体の傾きを、ことさらに感情移入することなく淡々と写し取っているだけなのだが、やはり見ているうちに、写真に強く引き込まれていく。「人間とは何か?」という根源的な問いかけを受け止めないわけにはいかなくなる。どちらも、まさに「長い間」見続けていたくなる、奇妙な引力を持つ写真群だ。

なお同会場では、「平成29年度横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展」として、「写真の中の身体」展が併催されていた。横浜市所蔵の古写真、写真機材のお披露目展だが、こちらもよく練り上げられたいい展示だった。

2018/02/07(水)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00043116.json s 10144115

黄金町夜曲 山田秀樹の黄金町

会期:2018/1/26~2018/2/17

MZアーツ[神奈川県]

間口の狭い店から肌もあらわな女性たちが客を呼び込んでいる。一見、昭和の歓楽街を撮った写真かと見まがうが、90年代後半以降、つまり平成時代に撮られたものだという。なぜ昭和の写真と思ったかといえば、被写体のヤサグレたたたずまいもさることながら、ブレボケが激しく、場所や人物が特定できないからだ。しかしこのことが逆に被写体となった黄金町の正体をあらわにしている。ブレやボケが激しいのはカメラのせいではなく、いわゆる撮り逃げ、つまり許可を得ずに勝手にレンズを向けたからであり、それはとりもなおさずこの時期の黄金町がヤクザの支配する無法地帯だったからにほかならない。だから彼ら彼女らの表情や店の内部は撮れなかったが、そのことがかえってその場の緊張感を伝え、臨場感を増している。写真のほか、山田自身の絵も出ていて、これがなかなか味わい深い。1軒1軒の店構え、店名を書いた看板、壁を伝う配管、電信柱などを、ちょっと滝田ゆうを彷彿させる暗いリアリズムで描いているのだ。

同時に出されたカタログ(山田の写真集であると同時に、黄金町の歴史を綴った記録集でもある)に寄せたMZアーツの仲原正治氏の解説によると、黄金町は江戸時代に横浜の入江を埋め立ててできた吉田新田の一画で、明治期に水運の発達により街が発達し、1930年には京浜急行の前身である湘南電鉄が黄金町駅を開設。ところが第2次大戦で焼け野原となり、戦後は京急の高架下が麻薬や拳銃の密売、売春の地として栄えてしまう。そして95年の阪神大震災を受けて、高架下から追い出された売春宿が周辺に急増。山田がレンズを向けたのはこれ以後だ。しかし2005年に一斉取り締まりが入り、建ち並ぶ売春宿を次々アーティストのスタジオに改装して、アートで街を再生しようという計画が始まる。08年には横浜トリエンナーレと同時開催で「黄金町バザール」がスタートし、現在にいたっている。

さて、ではいまの黄金町から売春の記憶が払拭され、アートの街として再生したかというと、コトはそう簡単ではない。地元の人たちの思惑とは裏腹に、記憶はそうやすやすと消せるもんではないし、また消すべきでもないだろう。むしろアートはそういう「悪い記憶」を糧に「悪い場所」で育まれることもあるからだ。その意味でこれらの写真は貴重な資料として残しておくべきだし、そのためのアーカイブを設けるべきだろう。

2018/02/06(村田真)

第16回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 千賀健史展 Suppressed Voice

会期:2018/01/30~2018/02/16

ガーディアン・ガーデン[東京都]

1982年生まれの千賀健史は、第16回「写真1_ WALL」展のグランプリ受賞者である。受賞作は教育問題に直面するインドの若者たちのドキュメンタリーだったが、1年後の今回の展示では、その取材の過程で出会ったひとりの少年にスポットを当てていた。成績優秀で、大学進学を目指していた彼は、ある日突然学校に来なくなった。調べてみると、兄に命じられて学校を辞めて働かざるを得なくなったことがわかった。千賀は母親から聞いた携帯電話の番号を辿って、彼が1500キロ離れた南インドの街で服屋の店員として働いていることを突き止める。今回の展覧会には、その探索のあいだに撮影された写真と映像、少年が学校で使っていたノートのコピーなどが展示されていた。

千賀が取り上げた事例は、児童労働従事者が400万人ともその倍ともいわれるインドでは、よくある出来事である。この「小さな物語」は、だが逆にインドに限らず、過酷な生の条件を背負わざるを得ない少年・少女たちの状況へと見る者を導く普遍性を備えているともいえる。千賀はその出来事を伝えるために、従来のドキュメンタリー写真とはかなり異質の方法を取ろうとした。壁に写真を撒き散らすように並べるインスタレーションも、テキストや映像を一緒に見せるやり方も、ややとっつきにくいものに見えるかもしれない。だが、そんな模索を続けるなかで、多次元的な構造を備えた「ニュー・フォトジャーナリズム」の文法が、少しずつ形をとっていくのではないだろうか。次の展開を充分に期待できる内容の展示だった。

2018/01/31(水)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00043159.json s 10143650

未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展

会期:2018/1/13~2018/3/4

国立新美術館[東京都]

文化庁が続けている新進芸術家海外研修制度(かつて在外研修制度と称していたため「在研」と呼ばれる)の成果を発表する展覧会。在研はすでに半世紀の歴史があるが、展覧会は今年で20年。今回は1975-88年生まれで、ここ5年以内に研修経験を持った11人のアーティストが出品。中谷ミチコは粘土で人物や動物の彫刻をつくり、それを石膏で型取って雌型にし、そこに着色した樹脂を流し込んで固めた一見凹型レリーフながら表面は平らという、ユニークな彫刻を制作している。ドレスデン滞在を経て作品はより大きく、より複雑になった。今回は壁に掛けるのではなく材木を組んだ上に展示したため、裏側がどうなっているのかという好奇心にも答えてくれている。研修先にケニヤを選んだ西尾美也は、街ですれ違った通行人と衣服を交換して写真に撮るというプロジェクトを続けているが、今回はケニヤ人に東京に来てもらいその役を託した。その結果、パツパツの女性服を着た大きなケニヤ人と、ダブダブの革ジャンを羽織った小柄な日本人という対照的な構図ができあがった。そのほか、日本各地で発掘された陶片と、明治期に来日したエドワード・モースを結びつけるインスタレーションを発表した中村裕太や、戦前は体操選手としてベルリン五輪に出場し、戦後は尺八奏者として活躍した人物の生涯をフォトグラムによって表わした三宅砂織など、日本を相対化してみせた作品に興味深いものがあった。

いずれも仮設壁で仕切られた空間内で行儀正しく作品を見せているが、そうした展覧会の枠組みそのものを問おうとした作家もいる。雨宮庸介は、過去につくられた作品を見せる場なのに、なぜ「明日展」なのか、しかもイタリア語なのかと疑問を投げかけた。これは実際だれもが思うところで、文化庁の林洋子氏もカタログ内で、「なぜ『明日』なのか、なぜイタリア語なのかというツッコミを受けつつも(それは20年前のムードとしかいまでは答えようがない)」と告白している。そこで雨宮は完成作品を展示するのではなく、「人生で一番最後に作る作品の一部を決めるための練習や遂行をしている」状態を現出させるため、その場で制作することにしたという。会場で作業している人を見かけたら、たぶん雨宮本人だ。体よく収まった展示より説得力がある。

2018/01/29(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00042824.json s 10143800

磯部昭子「LANDMARK」

会期:2018/01/06~2018/02/03

G/P gallery[東京都]

雑誌『サイゾー』の表紙は書店などで目にすることが多く、目に馴染んでいたのだが、磯部昭子が撮影していることは知らなかった。肌を多めに露出したタレントやアイドルをモデルに、オブジェを配置してトリッキーなアイディアの仕掛けをつくり、原色のバックで撮影したポートレートだ。写真が発している空気感、モデルたちのツルツルの肌の質感が、2010年代の「フェティッシュ」のあり方を見事に掬い上げている。商業雑誌の表紙に必要なのは、見間違えようのない特徴的なスタイルなのだが、それをあざといほどの巧みさで練り上げ、「サイゾー」っぽいイメージとして定着している手際は鮮やかとしか言いようがない。

ただ、それらをギャラリーの空間で見ると別物としか思えなくなくなってしまう。むろんそのあたりは磯部もよく承知していて、インスタレーションには工夫を凝らしているのだが、やはり雑誌の表紙として見たときのヴィヴィッドな存在感は薄れてしまっていた。とはいえ、コマーシャルとアートとの違いをあまり意識する必要はないのではないかとも思う。磯部の世代は、以前の写真家たちのようにアートに過大なコンプレックスなど持っていないはずだし、むしろコマーシャルで要求される価値観を逆手にとり、より大げさでキッチュな身振りで打ち出していく戦略をとったほうがいいのではないだろうか。展覧会にあわせて同名の写真集(サイゾー刊)も刊行されたが、こちらはアートにまったく媚びのない、清々しい内容に仕上がっていた。

2018/01/27(土)(飯沢耕太郎)