artscapeレビュー
生西康典『瞬きのあいだ、すべての夢はやさしい』
2014年07月01日号
会期:2014/06/06~2014/06/16
あらかじめ予約する際のウェブサイトにそう書いてあったのだから、承知していたこととはいえ、やっぱり観客はぼくひとりきりだった。案内してくれる女の人(桒野有香)とともに扉をくぐると、そこは小さく暗く細長い空間。指差すほうに椅子があり、座ると左右に耳とちょうど同じ高さのスピーカがこちらを挟むように設置してあった。案内を終えた女の人は向かい端でこちらに顔を向け、椅子に腰掛ける。薄暗い。程なくして目の前の女の人ではなくスピーカからの声。「私の声が聞こえますか?」つい「はい(聞こえてますよ)」と答えそうになるが、ここは「観客」でいるべきなのだろう。それにしても「私」とは誰のことか? 誰の声か? それよりも「私」が誰かが気になる。「私」の主は判然としないのだが、声は執拗に語りかけてくる。空間は薄く暗い。なんだか、目の前の女の人が肖像画に見えてくる。彼女が「私」ではないことはスピーカの位置から判断できる。でも、ならば一層「私」とは誰なのだろう。今度は声の主が男(飴屋法水の声だ!)に変わる。彼も「私」と言う。しかも「あなた」と語りかけもする。「あなた」はきっとぼくではない。なぜなら、この上演は複数回繰り返されている以上、ぼくではない誰かもここに座ってきたはずだし、あるいはこれからここに座るのだから。でも、それにしても、執拗に「あなた」への呟きは繰り返された。ときに「あなた」はぼくに寄り添い、ときにぼくに入り込み、それでいてさらにぼくと距離を取った。声の呼ぶ「あなた」に対して観客が受け取る遠かったり近かったりする感覚があり、それこそこの上演のメタ演劇的本質であろう、そうぼくは思った。生命の存在や死をめぐる話題が、世界や自然のあり方についての考えが、語られる。きっとこれが、再生装置による「声」だけならば、自分がたったひとりの観客であることを多少気軽に思えたことだろうが、目の前に女の人がいる。生身の人の存在は、いまの自分が他人と代替しうるただの観客であるという言い訳めいた思いを、許してくれない。独特の緊張が自分の身を意識させる。ああいつもの観劇の際の「複数の観客の一人」でいるときの、気楽さよ! 闇は、しかし、じつにデリケートにコントロールされた。そのたびに、自分の体に刻まれた記憶が喚起された。複数の声が聞こえているときも、心は繰り返し勝手な像をこしらえては崩した。その体験中に起こるすべての出来事が、この作品なのだ。そうだ、そう断定してしまおう。だって、それを知っているのはぼくしかいないのだから。
2014/06/16(月)(木村覚)