artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

日本の70年代 1968-1982

会期:2012/09/15~2012/11/11

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

同館の開館30周年を記念した展覧会。70年代の文化芸術を68年から82年までに及ぶ現象としてとらえ、美術・出版・演劇・舞踏・映画・文学など多様なジャンルの作品から振り返った。
いうまでもなく、この時代を象徴するのは雑誌をはじめとする紙媒体の隆盛である。展示の中心も、その誌面を彩っていたアートやデザイン、写真に置かれていたが、その迫力は今もってなお瑞々しい。あらゆる知識や情報をネットという手の触れることのできない空間に非物質化している現在から見ると、それらはある種のユートピアにすら思える。
だが、この展覧会の白眉は、むしろ展覧会の最後にいかにも取って付けたかのように展示されていた大量のスナップ写真であるように思われる。それらは一般から募った家族写真で、おおむね70年代に撮影されたものだ。きわめてプライヴェートな写真ばかりだから、退屈といえば退屈である。それまでの華やかな作品群とのつながりも、特にない。
けれども、そこに写し出されている個人的な歴史や風俗、文化を立て続けに見ていくと、それらこそが歴史の根底を形成していることに気づかされる。美術や文化の歴史は、そのような無名の人びとによる歴史があってはじめて成り立つものである。美術であろうとなかろうと、多くの専門家はこの厳然たる事実を忘れがちだが、本展は観覧者の眼を歴史の底流に向けさせたという点で、高く評価できる。
今後は、双方を還流する歴史の語り方が待望されるのではないだろうか。

2012/10/12(金)(福住廉)

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牛島光太郎 展 意図的な偶然

会期:2012/10/03~2012/10/27

LIXILギャラリー[東京都]

アーティストを知らずに個展を訪れたとき、展示された作品を見ていくなかでアーティストの性別や年齢を無意識に判別していることが、よくある。彼ないしは彼女の作品が、おのずとその属性を物語っている(ように感じられる)のだ。どういうわけか、その判定を誤ることは滅多にない。
今回の個展でも、若い女性の作品だと勝手に思い込んでいたが、じっさいはそれほど若くもない男性だったので、驚いた。なぜそのような早合点をしてしまったかというと、展示が日常的なモノと文字を刺繍した布で構成されていたからだ。ティーカップ、靴紐、窓、ドア、レースのカーテン、そして黒耀石。いずれも繊細で、ひそやかな感性を物語るアイテムばかりだ。どうやらモノと言葉が正確に照応していることは、布の表面に描かれた文章を読めば一目瞭然だったが、特筆すべきは、そのテキストが子どもの頃の出来事を克明に綴り、しかもそこで当時の心情を深く再現していたことだった。
個人的で繊細な記憶をもとにした世界の構築の仕方が、女性的だと判断した大きな理由である。むろん、そのような記憶の語り方や記憶そのものも作者の想像の産物なのかもしれない。けれども、そのことを差し引いたとしても、こうした論理で構成されるアートが今日的であることもまた事実である。

2012/10/11(木)(福住廉)

人造乙女博覧会III

会期:2012/10/08~2012/10/20

ヴァニラ画廊[東京都]

人造乙女、すなわちラブドールの展覧会。老舗のオリエント工業による3回目の博覧会である。
展示されたラブドールは6体。肢体はもちろん、肌や唇の質感、眼の表情など、きわめて高度な再現性に文字どおり度肝を抜かれた。顔の造作がやや一面的すぎるきらいがあり、アニメやマンガの強い影響力が伺えたが、それを差し引いたとしても、この造形力はずば抜けている。見ているだけで人肌のぬくもりが伝わってくるかのようで、その生々しい感覚に思わず戦慄を覚えるほどだ。これに声や人工知能がインストールされるとしたら、いったいどうなってしまうのだろうか。
しかも、今回の展示の中心は、ラブドールと家具を一体化させた「愛玩人形家具」。腰にテーブルを装着したバニーガールの乳首から赤ワインや牛乳が飛び出たり、重厚な本棚の中に棚板を突き破るかたちでラブドールが屹立していたり、実用的なのか冗談なのかわからない造形物で、ますます混乱させられる。
展示されたラブドールは基本的に触ることはできないが、会場の一番奥に展示された一体のラブドールだけは例外で、係員の女性に両手を消毒スプレーで除菌することを促されたあと、直接手を伸ばすことが許された。何より驚かされたのは、肌の質感よりも、その温度。限りなく肉体に近い造形性を散々眼にしてきたせいか、脳内にはそのぬくもりが自動的に再生されていたが、じつのところラブドールの肌は思っていたほど暖かくはなかったからだ。とくに冷たいわけではないが、温かいわけでもない。期待はずれというか、一安心というか、とにもかくにも目を疑うどころか、自分の知覚を根底から激しく揺さぶられる経験だった。これはもはや立派なアート作品である。
いま振り返ってみれば、あの人肌のギャップは、人間とラブドールを限りなく近接させながらも、ラブドールがラブドールであることを人間に辛うじて知覚させる、最後の一線だったのかもしれない。だが、そのことを理解しつつも、いずれ超えてしまうのが人間の業なのだろう。

2012/10/11(木)(福住廉)

プレビュー:駄作の中にだけ俺がいる

会期:2012/11/10

ユーロスペース[東京都]

いつの頃だったか、小説家の遠藤周作が自宅の食卓を紹介する雑誌記事で、夫人とともに白米と味噌汁とめざしという絵に描いたような清貧の食卓を撮影させていたことがあった。あれは、どう考えても雑誌のための意図的な演出だったのではないかといまでも訝っているが、この話を思い出したのは、会田誠のドキュメンタリー映画があまりにも中庸な家族を映し出していたからだ。
アーティストという職業が特殊であることは疑いないとはいえ、子どもの教育問題に思い悩む妻や、それを横目に仕事に打ち込む夫という家族風景は、凡庸といえば凡庸である。映画では息子の問題児ぶりが強調されていたが、問題の程度で言えば、まだまだ生易しいし、もっと激烈で非道な幼少期を過ごした大人はいくらでもいる。
そうすると、もしかしたらこの映画のなかの会田家は、かつての遠藤周作のように作為をもってつくられた家族像なのではないかと裏を読みたくもなる。つまり会田誠は平凡な家族像ですら身を持って絵に描くことで、とんでもなく恐ろしく、恥ずかしい、身も蓋もない裏側の世界を隠しているのではないか。
だが、よくよく考えてみたら、そのようにして意味を過剰に読み取らせることをもっとも得意としてきたのが、会田誠その人だった。バカなふりして油断させて批評的な一撃を加えたり、そうかと思って警戒すると、ほんとうにバカなだけだったり。このような両面性が会田誠の魅力だとすれば、このドキュメンタリー映画は、良くも悪くも、会田誠の一面を見せることには成功していると言えるだろう。

2012/10/10(水)(福住廉)

加瀬才子

会期:2012/09/29~2012/10/21

platform02[大分県]

「BEPPU ART AWARD 2012」でグランプリを受賞した加瀬才子の個展。生死をテーマにした《Life-time Project》を発表した。
これは、毎年末にみずからの頭髪を剃り落とし、それらを身体の一部に貼り付けて写真に撮影することを繰り返し、最終的にはアーティスト自身の死後、彼女の遺骨を加えて催される展覧会によって完結するという壮大なプロジェクト。今回の個展では、これまでに撮影してきた写真や、このプロジェクトをはじめる契約を親族や弁護士をまじえて結ぶ様子を映した映像などが展示された。
生死をテーマとする作品は少なくないが、これほど長大なスケールで表現しようとした作品は珍しい。「ライフワーク」にはちがいないが、厳密に言えば、この言葉ではとてもとらえきれないほどの絶対的な時間性を実感させるところに、このプロジェクトの核心があるのではないか。
「わたし」のなかに流れつつも、「わたし」を超えて流れていく時間。それを宇宙や自然といった外部に仮託して表現するのではなく、あくまでも「わたし」に拘泥しながら表現すること。とりわけ原発事故以後、私たちは人類の歴史を100年、いや万年単位で想像することを余儀なくされているが、加瀬のプロジェクトはその果てしない時間感覚を、再度個人に繰り込むことで、人間であることの責任を果たそうとしているように思えてならない。

2012/10/07(日)(福住廉)