artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

指江昌克 展「見えざる手」

会期:2012/02/29~2012/03/31

MIZUMA ART GALLERY[東京都]

昭和的な遺物が密集した球体が地上を浮遊する光景。指江昌克が描き出しているのは、過去の亡霊が現実的な都市風景のなかに出没したかのような夢幻的な光景だ。古びた自動販売機やコインランドリー、パチンコ店、喫茶店などの図像がおのずと郷愁を誘うが、今回発表された新作には、巨大なキノコ雲や日の丸などの記号が引用されていたせいか、以前にも増して政治性と社会性が強く醸し出されていた。視線が過去へ引き寄せられつつも、たちまち現在に引き戻されるといってもいい。そのような時間の振幅を味わいながら画面を見ていると、政治的な混迷と社会的な危機に陥って久しい今日の現代社会の出発点、すなわち原爆と敗戦を思い出さずにはいられない。原子力発電所の大事故によって戦後社会の繁栄という虚像が脆くも破綻してしまったいま、私たちはもはやあらゆる問題の解決を先送りにしたまま前進することはできなくなったことを知った。指江の球体は、現代社会の真ん中に穿たれた、出発点に立ち返るための入り口なのではないだろうか。

2012/03/29(木)(福住廉)

藤牧義夫 展 モダン都市の光と影

会期:2012/01/21~2012/03/25

神奈川県立近代美術館 鎌倉[神奈川県]

1930年代の創作版画の一翼を担った藤牧義夫の回顧展。版画や素描、葉書など、およそ200点が展示された。なにより30年代の街並みを忠実に反映しているように思える陰影に富んだ版画の迫力がすばらしい。同じ図像でも版によってテクスチュアが異なることを見せるために複数点を同時に展示するなど、見せ方もおもしろい。本展の見どころは幅25センチ、全長13メートルを超える白描絵巻で、たしかに見応えがあったものの、むしろ注目したのはポスターでたびたび発揮された創作的な文字の数々。《新版画集団4回展ポスター(バレンと手)》(1934)には、「新版画集団個展」という文字が縦方向に並べられているが、このうちの「個」の文字が「4回」とも読めるように組まれており、4回展の意味合いを重ねた遊び心が発揮されていることがわかる。ここには、版画を版画として自立させようとする純粋芸術の志向性というより、むしろ文字というもっとも身近で、だからこそもっとも改変しやすい素材を使って遊ぶ限界芸術のそれが明らかにうかがえる。藤牧によるレタリングは、例えば佐藤修悦によるガムテープ文字に継承されているのではないか。

2012/03/22(木)(福住廉)

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村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する

会期:2012/02/11~2012/03/25

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

なにもないからこそ、なんでもやる。関東大震災にせよ、東京大空襲にせよ、広島・長崎への原爆投下にせよ、私たちの先達たちは焦土と化した焼け野原からいくども立ち上がり、その都度いくつもの文化や芸術を生み出してきた。村山知義の回顧展をつぶさに見て思いを新たにしたのは、豊かな芸術は貧しさのなかから生まれるという厳然たる事実。演劇から美術、写真、書籍、看板、はては建築にいたるまで、村山が手がけた創作物はじつに広範なジャンルに及んでいる。大量に集められた展示物の物量が、村山自身の貪欲な創作意欲を物語っているようで、まさしく沸騰する村山の迫力に圧倒されてやまない。それらのいずれもが貧しい時代の只中でなんとかやってきた格闘の痕跡と言えるが、村山が苛まれていた貧しさとはまた別の貧しさが世界を覆いつつある現在、はたして野性的で生命力にあふれた、新しい芸術は生まれるのだろうか。

2012/03/21(水)(福住廉)

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VOCA展2012

会期:2012/03/15~2012/03/30

上野の森美術館[東京都]

19回目を迎えたVOCA展。特定の様式や流行に収斂しがたいほど多様な平面作品をそろえた展観は例年とあまり変わらない。けれども例年以上に気になったのは、全体的に作品のサイズがあまりにも大きすぎるのではないかということ。出品規定の限界ぎりぎりまで巨大化させたような作品が数多く、その大半が必ずしも功を奏していないように見受けられた。
たとえば、桑久保徹。例によって海岸の夢幻的な光景を描いた油絵を発表したが、壁面を埋めるほど巨大なそれは、2点の作品をひとつにまとめて額装したものだという。たしかにサイズの迫力は認められるものの、桑久保の他の作品と比べると、画面の構成が粗く、全体的に大味すぎる。絵具の塗り重ねも単調で、何より桑久保絵画の真骨頂ともいえる艶やかな光沢感がまったく失われていた。そこに震災の影を見出すことはできるにしても、これはやはり支持体のサイズが大きすぎるがゆえに、肝心の絵が間延びしてしまったのではないかと思えてならない。桑久保が描いた六本木トンネルの壁画にも同じような粗い印象を覚えることを、例証として挙げておきたい。
さらに、ボールペンを塗りつぶす椛田ちひろの作品は、縦方向に3点展示されていたが、これも出品作品がそれぞれ空間を食い合っているため、次善の策として垂直方向に伸ばしているように見えて仕方がない。桑久保も椛田も、横浜市市民ギャラリーあざみ野の「いま描くということ」展に出品していたが、ここでの展示が抜群に優れていたことが、そのように見させてしまったのかもしれない。
しかし、作品の形式としての大きさと内容が必ずしも合致せず、むしろその矛盾が露わになっていることは、多くの来場者の支持を集めていたワタリドリ計画(麻生知子・武内明子)の作品にも該当するように思われる。日本全国を旅しながら各地で撮影した白黒写真を油彩で着色した絵葉書の作品だが、その活動を報告する「ワタリドリ通信」は本来A5版の印刷物であるにもかかわらず、会場にはそれらをひとつにまとめた手書きの大きな「絵画」が展示されていた。活動を手短に紹介するダイジェスト版としては有効なのかもしれない。だが、彼女たちの全国行脚を伝えるメディアはあくまでも「印刷物としての平面」であり、「絵画としての平面」ではなかったはずだ。つまり彼女たちが選び取ったマテリアルは、「絵葉書」と「印刷物」という私たちの身体にきわめて近い(裏返して言えば、「絵画」や「芸術」からは程遠い)、それゆえ本来的に私たちの文字どおり手の中に収まるサイズだったのだ。それを、無理やり身体から引き離し、「絵画」や「芸術」として仕立て上げることを余儀なくされるところに、同時代を生きるアーティストにとっての「平面」のリアリティがある。
VOCA展が「絵画」や「芸術」に拘泥することは、もはやさほど大きな問題ではない。肝心なのは、それらとの偏差によって同時代のリアリティをその都度計測することである。

2012/03/18(日)(福住廉)

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東日本大震災復興支援プロジェクト展「つくることが生きること」

会期:2012/03/11~2012/03/25

3331 Arts Chiyoda[東京都]

東日本大震災の復興に向けて各地で活動している支援プロジェクトをまとめて紹介する展覧会。単独のアーティストをはじめNPO団体、建築家チーム、大学研究室、企業などを含めて約70組による活動が一挙に展示された。会場には、プロジェクトの活動を記したパネルや写真、映像が密集しており、その圧倒的な情報量の迫力がすさまじい。一つひとつの声に耳を傾けることが難しくなるほど、こちらに発信する熱意がひたむきなのだ。その困難を回避するためだろうか、復興リーダーへのインタビュー映像はモニターを縦に設置して、来場者がその前に座ると、目線がちょうど合うように工夫されていた。復興のために尽力しているのが、まさしく一人ひとりのヒトであることを強調していたようだ。復興が必然的に長期的なプロジェクトになる以上、このような展覧会も持続的に開催されることが期待される。

2012/03/18(日)(福住廉)