artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

都市から郊外へ──1930年代の東京

会期:2012/02/11~2012/04/08

世田谷文学館[東京都]

昨年の大規模な計画停電は記憶に新しい。繁華街のまばゆい照明はいっせいに落とされ、代わって静寂と暗闇が街を支配した。数多くの画廊が集まる銀座も、このときばかりは人気もまばらだったが、暗がりのなかに広がる街並みは逆に新鮮で、モボ・モガたちが闊歩した銀座とは、もしかしたらこのような陰影に富んだ街だったのではないかと思えてならなかった。
本展は、1930年代の東京を、美術・文学・映画・写真・版画・音楽・住宅・広告から浮き彫りにしたもの。絵画や彫刻、写真、レコード、ポスターなど約300点の作品や資料をていねいに見ていくと、鉄道網の拡充とともに郊外を広げていった都市の増殖力を目の当たりすることができる。現在の東京の輪郭は、このときほぼ整えられたのだ。
例えば、伊勢丹新宿店。1923年の関東大震災後、伊勢丹は神田から新宿に本店を移すが、これは郊外への人口移動により交通拠点としての新宿が急成長していたことに由来しているという。いまも現存するゴシック風の店舗は、外縁を押し広げる都市のダイナミズムのなかで生まれた建築だったのだ。
建築にかぎらず、当時の新しい文化や芸術は「モダニズム」として知られている。企画者が言うように、これが関東大震災の復興と連動としていたとすれば、本展は東日本大震災の復興から新たな美学が生まれる可能性を暗示していたとも考えられる。その名称や内実はいまのところわからない。ただ、それがすべてを明るく照らし出そうとする下品な思想ではないことだけはたしかだろう。暗がりのある銀座を美しいと見る感性を頼りにすれば、その思想をていねいに育むことができるのではないか。

2012/04/06(金)(福住廉)

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Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち

会期:2012/02/25

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

踊りとは、かくもすばらしく人間の感情の起伏を表現するものだったのか。ヴィム・ヴェンダースによるピナ・バウシュの映画を見て思い知ったのは、踊りで駆使される身体言語の豊かなボキャブラリーだった。言葉ではなく身体が、みずからの喜怒哀楽を雄弁に物語る。劇場はもちろん、街中や車内、自然、邸宅など、あらゆる場所で語られる踊りを見ていると、そこでは生きることのすべてが肯定されていると実感できる。これみよがしな3D映像が書割のように平面的に見えてしまうという逆説が気にならないわけではない。とはいえ、そのようなネガティヴすらポジティヴに反転させてしまうほど、彼らの身体言語は、力強く、はかなげで、鋭く、あたたかい。

2012/04/01(日)(福住廉)

青木野枝

会期:2012/03/01~2012/04/01

Gallery 21yo-j[東京都]

青木野枝といえば、重量感のある彫刻とは対照的に、軽やかで繊細、流れるような彫刻で知られているが、今回発表された新作も、その特徴を存分に活かしながら空間と調和させていた。天窓から外光が差し込んでくる広い空間に展示されたのは、円を指先で持ち上げたような形状の鉄彫刻。そのセットがいくつも空間を埋め尽くしていたが、密度が高いにもかかわらず、抜けたような浮遊感がある。水面に浮かぶ蓮を水底から見上げているような感覚が、いつまでも続いてほしいと思わずにはいられない作品である。

2012/04/01(日)(福住廉)

永原トミヒロ展

会期:2012/03/19~2012/03/31

コバヤシ画廊[東京都]

永原トミヒロの新作展。ここ数年、明るいのか暗いのか判別しない、光と闇が溶け合ったかのような幻の街並みを一貫して描いているが、今回の個展で発表された絵画には鏡のような水面が前面化してきた。苗植え前の田んぼなのだろうか、広い水面には後景の建物が明瞭に反映している。この対称的な図像が、窓も入り口も見当たらない建物で構成された無人の街並みに、独特の気配をもたらしていたようだ。たしかな対象として認知することはできないにせよ、なにかの存在をどこかで感じ取る想像力。今日的なリアリティーが立ち上がってくるのは、この点である。

2012/03/30(金)(福住廉)

竹内公太─公然の秘密

会期:2012/03/17~2012/04/01

XYZ collective(SNOW Contemporary)[東京都]

「指差し作業員」の衝撃は、フクイチの映像を見ている私たちを、彼があくまでも一方的に指し示したことに由来していた。「見る主体」が、「見られる客体」によって逆襲されたと言ってもいい。だからこそ、「見る」側に安住している者にとって、その衝撃は大きかったのである。ところが、今回の個展で発表された作品のなかで、どうにもこうにも理解に苦しんだのは、アーティストと来場者が直接言葉を交わすことができる糸電話の作品だった。なぜなら、本来一方的だったはずの表現を、観客参加型の作品によって、わざわざコミュニケーションという表層的な次元に回収してしまったように見受けられたからだ。むろん、糸電話という対話の形式が完全な意思疎通を実現するわけではないし、逆に対話によってすら理解し合えない領域に来場者を突き落とすこともないわけではないだろう。とはいえ、この糸電話が「指差し作業員」の本質的な暴力性を削ぎ落としてしまっていたことは否定できないように思う。それが、芸術という不可解な価値の真髄に触れていたように感じられたことを思うと、なおさらいっそう悔やまれる。

2012/03/30(金)(福住廉)