artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

浅沼光樹『ポスト・ヒューマニティーズへの百年──絶滅の場所』

発行所:青土社

発行日:2022/12/26

本書のもとになったのは、雑誌『現代思想』に連載された「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」である(2020年1月号から2022年3月号まで)。本書の「あとがき」にあるように、連載時から大幅な加筆修正がなされているが、かくも壮大な思想史的試みが途絶せず一書にまとめられたことを、まずは言祝ぎたい。

本書の表題における「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」とは、第二次世界大戦前から今日までの約一世紀にほぼ重なると見てよい。著者・浅沼光樹(1964-)は、思弁的実在論をはじめとする今日の現代思想──そこでは副題にもある「絶滅」が、ひとつの主要な問いを構成している──を論じるにあたり、まずはそこにいたるまでの思想の場面をたどることから始める。それが本書第一部「二〇世紀前半」の内容である。そこで論じられるヤスパース、ハイデガー、田邊元、ジャンケレヴィッチ、西田幾多郎、パースといった面々をつなぐひとつの固有名──それが「シェリング」である。

フリードリヒ・シェリング(1775-1854)は、カント、フィヒテ、ヘーゲルらと並び、ドイツ観念論を代表する哲学者のひとりである。弱冠15歳でテュービンゲン神学校に入学を許可され、卒業後まもなく幾冊もの著書を執筆、20代のはじめにはすでに大学の教壇に立っていたこの早熟の哲学者は、カントやヘーゲルに比べるとその一般的な知名度ははるかに劣る。しかし近年、専門家による地道な研究の甲斐あってか、このシェリングの哲学体系が新たに注目を集めつつあるのだ。

事実、今世紀に入ってからの現代思想は、さながら「シェリング・ルネッサンス」の様相を呈している。とりわけマルクス・ガブリエル(1980-)、イアン・ハミルトン・グラント(1963-)の2人をその代表格として、ここのところシェリング再評価の気運は留まることを知らない。本書の著者もまた、シェリングを専門とする研究者のひとりとして、現代において甦ったシェリングの思想をさまざまな仕方で「使用」していこうとする。このあたりの経緯は第二部「二〇世紀後半から二一世紀初頭にかけて」に詳しい。そこでは、ホグレーベ、ジジェク、ガブリエル、ドゥルーズ、グラントにおけるシェリングの(隠れた)影響が指摘され、現代思想におけるシェリングの重要性が(再)確認される。

その重要性とは、端的に言っていかなるものなのか。著者の見立てでは、カントからヘーゲルへといたるドイツ観念論の「ループ」のなかで、その中間にいるシェリングこそが、この終わりなきループからの脱出の鍵を握っている。ただし本書では、この仮説の証明にすべてが捧げられることはなく、むしろ19世紀から21世紀にかけてのさまざまな哲学者の仕事のうちに、このシェリングの隠れた痕跡が見いだされていくのだ。前述のように、ハイデガー、ジャンケレヴィッチ、ドゥルーズといった大陸哲学の重鎮たちはもちろんのこと、そこから時間的・地理的に隔たった京都学派(西田幾多郎、田邊元)や思弁的実在論(メイヤスー、ブラシエ)の面々についても、それは例外ではない。おそらくほとんどの読者にとって、近現代哲学におけるシェリングの存在感をこれほどまでに感じさせてくれる書物はかつてなかったのではないか──本書を読んでいると、そのように思わされる。

とはいえ、本書はシェリングやポスト・シェリングの哲学について、まとまった論証をおこなうといった性格の本ではない。平明な書きぶりながら、しばしば大胆な飛躍を厭わない議論の連続なので、読者はテンポよく移り変わる話題の節々から、自分で何らかの糸口を見いだすことが求められるだろう(とりわけ第三部「ニヒリズムの時代」にそれは顕著である)。いずれにせよ本書『ポスト・ヒューマニティーズへの百年』が、ガブリエルをはじめとする現代思想のルーツ(のひとつ)としてのシェリングへと赴こうとする読者に対し、さまざまな示唆を与えてくれるものであることは確かである。

2023/04/03(月)(星野太)

鳥居万由実『「人間ではないもの」とは誰か──戦争とモダニズムの詩学』

発行所:青土社

発行日:2023/01/07

かつて『遠さについて』(ふらんす堂、2008)で詩壇に颯爽と現われた鳥居万由実(1980-)による、日本近代詩の研究書である。時期としてはおおよそ第一次世界大戦後から第二次世界大戦までを対象に、左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴らの作品が論じられる。

本書に即して言うと、これらの詩人のあいだにある共通点は「人間ではないもの」へのまなざしである。序章によれば、1920年代から1930年代後半というのは、詩のなかに動物や機械といった「人間ではないもの」の表象が「爆発的に登場した」時代であるという(14頁)。この言い方がひとつのポイントなのだが、ここでいう「人間ではないもの」とは、時には無力で小さな「昆虫」であり、時には哺乳類をはじめとする「動物」であり、またあるときには工場で騒音を発する「機械」である(ただし、本書は生物学的な分類にもとづき、昆虫も魚類も鳥類も哺乳類もすべて「動物」に括っている)。戦間期におけるさまざまな詩人の作品を「人間ではないもの」というキーワードによって新たに捉えなおしたところに、本書のオリジナリティがある。

だがそもそも、そのようなテーマを設定する理由とは何なのか。それは、当時の日本における「主体」の問題と分かちがたく結びついている。本書は大きく、モダニズム詩を論じた第一部(左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎)と、戦時期の詩を論じた第二部(高村光太郎、大江満雄、金子光晴)からなる。各章はいずれも独立した作家論として読みうるものだが、これらを束ねる大きなキーワードが「主体」であることは、本書の端々で明示される。著者の見立てでは、動物や機械が何らかの寓意や象徴をともなって登場するのは、「主体」がうまく機能していないとき、あるいは「主体」を離れたところから言葉が発せられるときである(16頁)。より平たく言えば、安定したアイデンティティをともなった「主体」が何らかの理由により揺らいでいるとき、あるいは国家などにより仮構された「主体」──たとえば「国体」──が批判されるべきものであるとき、動物や機械といった「人間ではないもの」が頻繁に登場してくる。おそらくそのように言えるだろう。

そのような全体像を確認したうえで言えば、本書の眼目は、やはり個々の作家論にある。なかでも「ジェンダー規範と昆虫──左川ちか」(第一部第一章)と「『人間ではないもの』として生きる──金子光晴」(第二部第四章)を個人的には興味深く読んだ。前者は、昨年『左川ちか全集』(書肆侃侃房、2022)が刊行されたばかりの詩人についての力強い論攷であり、後者は、戦時下の情勢に抵抗する姿勢を崩すことのなかった例外的な詩人における、さまざまな「非−人間」の表象を包括的にたどったものである(蛇足めいたことを付け加えれば、この「非−人間」のうちに「神」も含まれることがきわめて重要である)。かりに全体を束ねるコンセプトに引っかかるところがなくとも、冒頭に列挙した戦間期の詩人たちに興味のあるむきには一読を勧める。

2023/04/03(月)(星野太)

カタログ&ブックス | 2023年4月1日号[テーマ:「わからん」ままでも現代アートとの接点を発見できる5冊]

日本を代表する現代美術コレクション「タグチアートコレクション」を集めた展覧会「タグコレ 現代アートはわからんね」(角川武蔵野ミュージアムで2023年5月7日まで開催)。解説や空間構成など、現代美術は苦手という人にもその存在をぐっと身近に感じさせる工夫に満ちた本展の関連書籍と併せ、興味の先に一歩踏み込む5冊を選びました。

※本記事の選書は「hontoブックツリー」でもご覧いただけます。
※紹介した書籍は在庫切れの場合がございますのでご了承ください。
協力:角川武蔵野ミュージアム


今月のテーマ:
「わからん」ままでも現代アートとの接点を発見できる5冊

1冊目:めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード

著者:筧菜奈子(文・絵)
発行:フィルムアート社
発売日:2016年2月18日
サイズ:21cm、159ページ

Point

「もの派」「レディメイド」「アヴァンギャルド」……言葉で読んでも、少し経つとその意味を忘れてしまうという経験は誰にでもあるはず。美術史研究者である著者自身による(!)イラストで現代美術の作家や専門用語をゆるくかつ丁寧に解説してくれる本書は、眺めているだけでその語のもつ背景が頭の中に立ち上がります。


2冊目:みんなの現代アート 大衆に媚を売る方法、あるいはアートがアートであるために

著者:グレイソン・ペリー
翻訳:ミヤギフトシ
発行:フィルムアート社
発売日:2021年8月26日
サイズ:19cm、182ページ

Point

「タグコレ展」の最終セクションのタイトル「作品はみんなのもの」とも共鳴する本書。ターナー賞の受賞作家でもあるグレイソン・ペリーがユーモアを交えながら語るアート・ワールドの姿はどこか愛らしく滑稽でもあり、「良い」とされている作品の評価軸の裏側にあるさまざまな文脈に目を向けるきっかけを与えてくれます。


3冊目:絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで 増補普及版

著者:デイヴィッド・ホックニー、マーティン・ゲイフォード
翻訳:木下哲夫
発行:青幻舎インターナショナル
発売日:2020年11月21日
サイズ:24cm、368ページ

Point

コレクションの初期は平面作品が中心だったというタグコレ。巨匠ホックニーと美術批評家マーティン・ゲイフォードとの対談形式で進む本書は、図版も豊富に参照しながら写真やデジタル画像、映像との対比で名作絵画を紐解いていくうちに、絵画という表現の独自性が浮き彫りに。現代の視点に立った、絵画史入門に最適な一冊。



4冊目:カリコリせんとや生まれけむ

著者:会田誠
発行:幻冬舎
発売日:2012年10月4日
サイズ:16cm、270ページ

Point

現代日本を代表する作家のひとり、会田誠によるエッセイ集。「タグコレ」展でも印象的に展示されている《灰色の山》からも感じられるように、いまの日本で生きる肌感覚や表象・イメージを作品にし、ときに物議を醸してきた会田。育児や料理といった日常から彼の思考回路が垣間見える本書は、肩の力の抜けた筆致も魅力的。



5冊目:ポストコロナと現代アート 16組のアーティストが提起するビジョン

編集:ポストコロナ・アーツ基金
発行:左右社
発売日:2022年7月20日
サイズ:21cm、183ページ

Point

そしていま。時代の動きと作品が切っても切り離せない現代美術は、2020年以降の「ポストコロナ」の現在において、どう変化しているのでしょうか。日本国内の若手〜中堅アーティスト16組それぞれのアプローチからの近作を参照しながら、コロナ禍が現代にもたらしたものが浮かび上がってくる同時代の一冊。







タグコレ 現代アートはわからんね


会期:2023年2月4日(土)〜5月7日(日)
会場:角川武蔵野ミュージアム(埼玉県所沢市東所沢和田3-31-3)
公式サイト:https://kadcul.com/tagukore

2023/04/03(月)(artscape編集部)

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猪谷千香『ギャラリーストーカー─美術業界を蝕む女性差別と性被害』

発行所:中央公論新社

発行日:2023 /01/10


ギャラリーストーカーという言葉を、本書で初めて知った。曰く、画廊やギャラリーなどで若い女性作家につきまとう人たち(多くは中高年男性)のこと。確かに個展を開いた作家は、会期中に何日か在廊することがほとんどだ。来場者と会話をし、作品の前に立って解説をすることで、ファンづくりにつながり、作品購入にも結びつきやすいからだ。そんな良質のファンは作家にとって大歓迎である。しかしそこに付け込み、作家に個人情報を聞いたり、食事やデートに誘ったり、しまいには作品購入と引き換えに男女関係を求めたりする人たちがいるのだという。客やコレクターである彼らを作家は端から無下にはできない。そのため徐々にエスカレートしていく彼らのストーキング行為に、身の危険を覚え、心を病んでしまう作家が少なからずいるという事実が、本書で明かされる。

最近、映画業界などさまざまな業界で性暴力やハラスメント問題が取り沙汰されている。結局、美術業界も同じなのかという、最初はただ気持ち悪い性被害をいくつか追ったドキュメンタリーなのかと思いきや、読み進めるうちに美術業界特有の構造的な問題や根幹的な話へと展開する。その辺りが大変興味深いものだった。

そもそも美術作家を育成する美術系大学、いや、そこに入学するための予備校からハラスメントは横行していると本書は指摘する。なぜならそこで教える教員との人間関係が、ある種の徒弟関係となり、卒業後もずっと続いていく狭い業界であるためだ。そもそも美術家はフリーランスが基本で、組織に守られていないことも大きい。さらに美大(東京藝大と東京の五美術大学を調査)には女子学生が7割超と多いにもかかわらず、逆に教授陣は男性が8割超という実態がある。この歪なジェンダーバランスがハラスメントの温床になるという。私もある美大で非常勤講師をしていた経験があるが、クラスのほとんどが女子学生だった。しかし名声を得る美術家は、その男女比が反映されず、男性の方が圧倒的に多い。それは女性作家が成功しづらい環境が、日本の美術業界にはあることを示唆する。西洋美術が輸入された明治時代から続く、言わば男尊女卑的な観念がはびこる業界ゆえに、その根底には女性差別があり、ハラスメントが起きる要因になっているというのだ。確かに私の友人の女性作家も、「あいつはどこそこのキュレーターとデキているから成功できた」などのやっかみを若い頃によく言われたと聞いたことがある。一見、自由で華やかな美術業界で、実は深刻な問題を抱えていたことを思い知らされた一冊だった。

2023/03/26(日)(杉江あこ)

死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2

会期:2023/03/25

YAU STUDIO[東京都]

2023年現在9名からなるアーティストコレクティブである「カタルシスの岸辺」は、ここ1年間をかけて「死蔵データグランプリ」という番組をYouTubeに24本公開してきた。そこではカタルシスの岸辺が公募した254点の「死蔵データ」の紹介と講評が行なわれている。

応募要綱には「公開していない、誰に見せる予定もない、自分しかその存在を知らないデータ一般を私たちは暫定的に『死蔵データ』と呼んでいます。拾いものではなく、自分自身が生成したものであることが条件です」と記載されており、誰でも自由に参加できる。振り返ってみると、映像、音声、写真、テキストのスクリーンショットなど、さまざまなデータが集まった。

それらは応募と同時に規約上、YouTubeなどインターネットで公開されること、カタルシスの岸辺が運営する「マテリアルショップ」で数百円単位で売買されることを許諾することになる。こうして、とりとめもなかったからか、羞恥心のためか、はたまた自分にとってあまりにも大切なものだったからかプラットフォームで共有されてこなかったデータが一躍耳目にさらされる対象となるのだ。

24回開催されたYoutube番組では毎回、約10点のデータがまじまじと鑑賞されるだけでなく、演劇・音楽・建築・哲学・美術など幅広い領域の人々73名が応募データを各々の基準で言葉にし、採点していく。毎回1位が選ばれて、その24個の1位がオンライン投票で10点に絞られるのだが、番組で「死蔵データ」に関する言語化が積み重ねられることで、「死蔵データ」というものの見方、概念がうっすら立ち上がり、ついにはそれらを元に「死蔵データが死蔵データであるかどうか」鑑定するための14項目に関するマークシートがカタルシスの岸辺によって制作された。

さらに、3月25日に有楽町で開催された「死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2」では、その鑑定14項目も当日参加した100名あまりの鑑賞者によって一斉に再鑑定され、どれが「死蔵データ」を考えるうえで外せない基準なのかも投票で決められた。その基準を元に当日の投票を通して「おっちゃん」とタイトルが付けられた画像データが本イベントのグランプリを飾ったのである。


死蔵データを視聴した後の参加者が、「死蔵データ鑑定シート」をに記入している様子[提供:カタルシスの岸辺]


本データは、ヤギに逆包丁で向かっていくかのようにみえる半裸の男性という、その圧倒的な瞬間がパンフォーカスで捉えられている状況からしてそもそも「純粋に死蔵されていたデータなのか」という議論を巻き起こした。しかしながら、「死蔵データ」として欠かせないと当日鑑定された項目にもっとも当てはまった結果、グランプリとなったのである。イベントのなかで収集・集計されたマークシートと死蔵性をめぐる項目の相関性は、鑑賞者にとってブラックボックスのまま結果が出るようになっており、超精度の言語化を伴った「こっくりさん」のような得点ランキングは、参加者に何かわかりやすいひとつの価値基準を与えることなしに、「データの死蔵性」という概念の道を多角的に拓く。


「死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2」でグランプリを飾った「おっちゃん」(匿名)


ところで、このイベントはカタルシスの岸辺によるパフォーマンスであり、彼らの運営する「マテリアルショップ」における取り扱い商品の「仕入れ」でもある。最終ラウンドだけでも、会場・オンラインあわせて100名程度の参加者が、カタルシスの岸辺が売買する商品の鑑定を行なうという共犯めいた関係を結び、「死蔵」という無価値なものをいかに称揚可能であるかを考えるということになる。


カタルシスの岸辺が「死蔵データ鑑定シート」を集計し、その間に来場していた予選ブロックの審査員たちがコメントを寄せている様子[提供:カタルシスの岸辺]


最優秀死蔵データが決定し受賞式を終えた後、会場にはおよそ160BPMのカタルシスの岸辺のテーマソングがアニメーションとともに流れ始める。アニメのオープニングのようにあらゆる困難を乗り越えてきた彼らの様子が描かれたハイテンポのMVがエンドロールとして使われている。見たこともないアニメ「カタルシスの岸辺」の25話最終回の終わりの終わりでオープニング曲が伏線を回収していくかのようだ。

舞台に次々と現われるメンバーたちは、観客がスクリーンだと思っていた資材を突如解体し、目隠しだと思っていた黒布を剥がし、歴戦の「死蔵データ」を映すモニターが忽然と顕わになる。こうして舞台は「マテリアルショップ カタルシスの岸辺」へと変貌を遂げた。音楽が終わる。近くにいた人が「感動して泣きそう」と言っていた。




漫画『けいおん!』や『らき☆すた』といった2000年代アニメを俗にカタルシスなき「日常系」と呼ぶとき、この「日常系」は「死蔵データ」と近しい価値観を共有している。哲学者の仲山ひふみがVブロックの審査で発し、「死蔵データ」の鑑定項目となった「普通の奇蹟」、ほかにも「凡庸」などが当てはまるだろう。その一方で、「恥部恥部メモリー」といった情けなさ、「勢い」「繊細」「熟成度」といった、忘れたいけど甘酸っぱい青春、過去への追憶を思わせる言葉が挙げられている。ここで、2010年代アニメにおける「異世界系」、すなわち現代人が剣と魔法のファンタジーへ転生するという物語形式のなかで、それは『異世界居酒屋「のぶ」』のような「日常系」であり、『無職転生』のような「セカイ系」における、転生によって物語内に現代的な視点を挟み直すことで陳腐になった形式を生きながらえさせるような効果を想起させられる。この「異世界系」が過去のあらゆる物語にいまの視点をぶつけることで復活させることと、「死蔵データグランプリ」が(メディア的に、あるいは時代の流行に対して)陳腐化したデータを、どのような価値基準で見直すと輝きだすかという、違う世界へ「データ」を転生させるということとの類似性を認めることができるはずだ。


カタルシスの岸辺が得票数を発表する様子[提供:カタルシスの岸辺]


純粋に死蔵しているデータとは、美的状況にある、無意味ということであるが、それが「死蔵データ」としてグランプリを勝ち抜けば勝ち抜くほど、資料性や商品価値をもち始め、政治化されていく。カタルシスの岸辺が「マテリアルショップ」で、鑑賞者が選んだゴミをオブジェにするとき、そのオブジェは唯一無二であるがゆえにその美的存在性(使用できなさ、無意味さ)は保持されるが、新しいストックイメージたる「死蔵データ」の場合は、それはデータであるがゆえに無限に複製可能で、無限のオーナーシップと使用が可能だ。共犯者をつくる手つき、そして、その価値や概念を決してひとつに収斂させないグランプリの決定方法という、この参加者の巻き込みと冗長さにカタルシスの岸辺による造形があると思った。

イベントは生配信視聴券2000円、一般観覧席3500円でした。



★──「死蔵データ」を、ヒト・スタヤルにおける『貧しい画像を擁護する』(2009)や、アーティ・ヴィアカントの『ポストインターネットにおけるイメージ・オブジェクト』(2010)といった2010年前後の画像をめぐる新アウラ論の系譜に位置づけることは容易だろう。もちろん、レフ・マノヴィッチが2010年代に取り組んだ1500万枚以上のInstagramにアップロードされた画像を分析した『Instagramとコンテンポラリー・イメージ』(2017)との差分で考えるのも面白い。
死蔵データグランプリ2022」詳細についてはこちら。
https://katakishi.com/wp-content/uploads/2022/06/ce1fe83ac0ed4b4b0be40e7d97d24c9f.pdf(カタルシスの岸辺「第一回死蔵データグランプリスポンサーさまご提案用企画資料」2022.06.14)



死蔵データGP 2022-2023 決勝戦:https://katakishi.com/sdg_final_battle/

2023/03/25(土)(きりとりめでる)