artscapeレビュー

2023年10月15日号のレビュー/プレビュー

生誕一〇〇年 大辻清司 眼差しのその先 フォトアーカイブの新たな視座

会期:2023/09/04~2023/10/01

武蔵野美術大学 美術館・図書館[東京都]

大辻清司の自宅・アトリエに残されていたプリント、ネガ、蔵書・資料などは、2001年の没後に武蔵野美術大学に寄託され、同大学の「大辻清司フォトアーカイブ」の手で、整理・研究・展示などの活動が行なわれてきた。2016年には大部の『所蔵作品目録』が刊行されたが、本展はその活動の一応の区切りを期して開催されたものである。

1940年代からの代表作から成る展示は、「原点」「シアター」「シークエンス」「他者たち」の4章で構成されている。全101点という作品数は、やや少ないように感じられるかもしれないが、長年にわたる研究の成果を踏まえて、的確かつ周到に選ばれている。例えば、「原点」の章に出品されている「太陽の知らなかった時」(1952)と題するシリーズに、これまでよく知られていた《新宿・夜》のほかに、子供たちや親子を撮影した「リアリズム写真」を思わせるスナップが含まれていること、「シアター」の章の「無言歌」(1956)シリーズに未見のヴァリエーションがかなりたくさんあることなど、新たな角度から大辻の作品世界を見直していこうという意図が随所に感じられる構成だった。写真という媒体の可能性を、つねに最大限に発揮しようとしていた大辻の表現意欲が充分に伝わってきた。「アート・アーカイブのひとつの在り方を示し、その先に何を見出すことができるのかを探る」という本展の方向性も、本展を通じて明確に見えてきたといえるだろう。

これまでの活動の成果を踏まえた、大辻の仕事の全体像を一冊にまとめた写真集の刊行も、そろそろ企画してもいいのではないだろうか。「大辻清司フォトアーカイブ」の今後の活動への期待は大きい。


大辻清司 眼差しのその先 フォトアーカイブの新たな視座:https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/20681/

2023/09/12(火)(飯沢耕太郎)

蓮井元彦「そこにいる」

会期:2023/09/12~2023/10/15

半山ギャラリー[東京都]

東京・代田橋の半山ギャラリーの会場には、14点の写真が並んでいた。道路脇の植物を撮影した2点以外は、すべてポートレートだ。スタジオなどで、ポーズライティングをあらかじめ定め、構えて撮影したものではない。「はじめて会った人、近所の人、ひさしぶりに会った人」などに、素直にカメラを向けている。正面から向き合って撮影した、腰から上くらいの写真が多く、いわば、ポートレート撮影の原点を確認するような仕事といえるだろう。

蓮井の写真を見ていると、ポートレートとはコミュニケーションの積み重ねのなかで成立してくるものであることがよくわかる。写真家と被写体とのあいだのコミュニケーション、そして出来上がった写真を前にした観客と写真家、あるいは写真に写っている人とのあいだのコミュニケーション──それらが重なり合い、干渉し合うところに、“声”のようなものが聞こえてくる。だが、その“声”をクリアに聞きとるためには、写真そのものはあまり押し付けがましくないほうがいい。その人が「そこにいる」ということだけが端的に伝われば、あとは波紋が広がるようにさまざまな思いや感情が膨らんでいく。蓮井は「もともとクラスメートや身の回りの人々の写真を撮ることから始めた自分をもう一度見つめ直そう」という動機で、このシリーズを撮り始めたのだという。それは彼にとっての原点回帰であるとともに、われわれ一人ひとりへの、ポートレートとは何なのか、どのように撮るべき(見るべき)なのかという問いかけにもなっていた。


蓮井元彦「そこにいる」:https://pineapple-sawfish-6yml.squarespace.com/exhibition/jc63f2w9e53thm5n3aspr3lt762s97

2023/09/13(水)(飯沢耕太郎)

川崎祐「未成の周辺」

会期:2023/09/01~2023/09/24

Kanzan Gallery[東京都]

川崎祐は前作『光景』(赤々舎、2019)で、故郷の滋賀県長浜市の風景とそこに住む家族の姿を捉えたシリーズを発表した。その、否応なしに絡みついてくるような、かかわりの深さを感じてしまう写真群と比較すると、今回、Kanzan Galleryの個展に出品された新作「未成の周辺」からは、どこか淡く希薄な印象を受ける。被写体となった和歌山県新宮市の周辺は、川崎が学生時代からずっと関心を保ち続けてきた中上健次の小説の舞台になった場所である。だが前作と比較すると、そのような理由づけだけでは、どうしても必然性を欠いたものに見えてきてしまうのだ。

川崎はむしろ、「他者の風景」を撮ってみたかったのではないだろうか。『光景』に写し込まれた琵琶湖北岸の土地の呪縛から離れて、もっと自由に、のびやかに見渡すことのできる眺めを求めたともいえそうだ。その狙いはとてもうまくいっていて、意味づけの重力から逃れた「未成の」風景が、次々に目の前に生起してきた。だが展覧会に寄せたコメントには、「海にしろ山にしろ森にしろ、みあきることのない景色がいたるところにひろがる新宮とその周辺」にカメラを向けながら、結果的には「迂回に迂回を重ねたような道をぐるぐる歩きながら荒地や空き地や住宅が気になった」と書いている。その「荒地や空き地や住宅」は、『光景』にも頻繁に登場してくる。とすると、川崎が次にめざすべきなのは、「他者の風景」と「自分の風景」とが重なり合うところに出現してくる眺めなのかもしれない。その萌芽は、今回のシリーズにもすでにあらわれてきているように見える。

なお、展覧会にあわせて喫水線から同名の写真集が刊行されている。


川崎祐「未成の周辺」:http://www.kanzan-g.jp/yu_kawasaki.html

関連レビュー

川崎祐 写真展「光景」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年12月15日号)

2023/09/14(木)(飯沢耕太郎)

ERIC「東京超深度掘削坑」

会期:2023/09/12~2023/09/25

ニコンサロン[東京都]

1976年に香港で生まれ、1997年に来日して以来、東京で写真家として活動してきたERICは、7年前に生活の拠点を岡山に移した。その結果、農業や狩猟など、それまでは縁遠かった経験を積み重ねることになる。その「お金を介さない、本来的な食糧調達」のあり方に触れることで、彼のなかに「新たな目」が育ってきたのだという。その彼の新作では、そうやって獲得した視線のあり方を、コロナ禍以降の東京に向けている。

日中シンクロの手法を多用した路上のスナップショットという点においては、これまでの彼の写真のスタイルをそのまま踏襲しているように見えなくもない。だが、都市の表層を鋭利な刃物で剥ぎとるようなこれまでの写真と比べると、本作では視線の深度が深まっているように感じる。マスク姿が目立つ異形の人物たちや、むしろ人間以上の生命力を感じさせる植物たちの写真から見えてくるのは、むしろ都市の深層に伸び広がる「根」のようなものを探り当てようとする試みである。これまでのERICの作品と比較しても、本シリーズには、この時代のこの瞬間を写真に刻みつけておかなければならないという切迫感をより強く感じた。

この「超深度掘削坑」の試みは、もしかすると東京以外でも試みることができるかもしれない。次の展開が大いに期待できそうだ。


ERIC「東京超深度掘削坑」:https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2023/20230912_ns.html

関連レビュー

ERIC「香港好運」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年02月01日号)
ERIC『LOOK AT THIS PEOPLE』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2012年02月15日号)

2023/09/14(木)(飯沢耕太郎)

Q『弱法師』

会期:2023/09/15~2023/09/17

城崎国際アートセンター[兵庫県]

物語の原型と上演形式を古典芸能から借用し、とりわけ性やジェンダーをめぐる社会構造や人間の欲望の歪さをグロテスクな過剰性とともにえぐり出す市原佐都子の最新作。能「弱法師」や「俊徳丸伝説」、さらに歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の演目として派生した「摂州合邦辻」を下敷きとする。長年子どものいない長者の夫婦に容貌の整った息子が生まれるが、横恋慕した継母によって失明・ハンセン病に罹患する。そして流浪の物乞いとなるが、神仏への祈願で病が癒えるという物語だ。戯曲は『悲劇喜劇』2023年9月号に掲載。

市原は、古典の物語を、うらぶれた安アパートを舞台に、現代日本の匿名的な家族に置き換えた。交通誘導員として、毎夜、工事現場に立って誘導灯を振り続ける男。ドライバーに毒づかれる度に感情を押し殺し、「自分は人形だから」と言い聞かせて働いている。帰宅すると、妻とセックスして疲労と性欲を吐き出す日々だ。ここで観客の度肝を抜くのが、それぞれ「交通誘導」「性欲処理」の用途のために作られた文字通りの「人形」を操って演じられることだ。夫は人間の代わりに工事現場に立って腕を機械的に振る交通誘導人形「安全太郎」が演じ、妻は巨大な胸と脱着式オナホールを持つラブドールが演じる。粗雑な造形で棒のような手足の安全太郎と、精巧で整ったラブドールとの落差が、ゴツンゴツンと音を立ててぶつかり合う「人形同士のセックス」のグロテスクさを一層際立たせる。



[© igaki photo studio 写真提供:豊岡演劇祭実行委員会]


さらにグロテスクなのが、人形の背後では常に、「生身の人間の姿」をさらけ出した「人形遣い」が影のように張り付いている点だ。三人で一体の人形を操る人形浄瑠璃ではなく、一人の人形遣いが一体の人形を操る「乙女文楽」を参照し、安全太郎とラブドールはそれぞれ男女のパフォーマーが一人で操る。ただし、黒衣ではなく、肌色の下着を付けているため裸のように見え、腰や関節を人形と連結させて動かす。そのため、「人形の動き」は「遣い手の手足の動き」と常に連動し、人間が人形を抱え込んでいるようにも人形が人間を背負い込んでいるようにも見え、両者の分離不可能性が際立つ。

さらに事態を複雑化させるのが、「夫は行為後、妻の脱着式オナホールを取り外して丁寧に洗う」という語りだ。文字通り「ラブドールを妻として暮らす男」を安全太郎が演じているのか、それとも「互いにモノ化された生/性を生きる夫婦」をそれぞれ人形が演じているのか。

やがて夫婦の間には息子が生まれる(美少年の人形を男性パフォーマーが操る)。だが「出産」という役割を終え、「容貌が衰えて夫の性欲をそそらなくなった妻」は、「寿命」を迎えて納棺されてしまう(=ダンボール箱に詰めて捨てられる)。一方、家には派手な女がしばしば来るようになり、父の留守中に息子に口淫する。そこに父が帰宅。「この子が誘った」と言い張る女。「泣くのを必死に我慢しているじゃないか」と非難する父。ここで注意したいのが、少し前のシーンから、「息子の人形」には遣い手がいなくなる点だ。性被害者が「モノ」として扱われ、さらに二次被害により感情を抑圧してしまう事態を示唆する。



[© igaki photo studio 写真提供:豊岡演劇祭実行委員会]



[© igaki photo studio 写真提供:豊岡演劇祭実行委員会]


第二幕では、継母に顔を包丁で刺されて失明し、ゴミの山に捨てられた息子が、「性風俗のマッサージ店」で働く人形たちに拾われる。彼らはマッサージの代価として客から奪った眼球、耳、指、毛髪、ペニスなどの身体パーツを増殖的に装着し、好き勝手に身体改造している。その店に息子がいるとは知らず、肉体労働の疲れを癒そうと父親がやってくる。そして、快感と引き換えに胸にナイフが付き立てられ、えぐり出される心臓。その先にはさらにホラーな展開が待ち受けている……。暴かれるのは、「自らを決して傷つけず、意のままに扱える人形のような存在」を常に欲する人間自身の欲望だ。


終盤、「僕は人間になった」と歓喜する息子も、パニックになった人形たちも、激しくのたうち回る。それは歯止めが効かない欲望の暴走のようにも、人形を操っているはずの「人間」が自らの肥大化した欲望をふりほどこうともがき苦しんでいるようにも見える。ラストシーンでは、父親の首吊り死体がぶら下がるが、彼の安全ベストは暗闇で命の鼓動のように赤く瞬く。「死ぬことのできない人形」は、「人間の欲望の終わりのなさ」の裏返しでもある。

このように本作は、「人形遣いが人形を操る」構造を露骨に見せることで、非人間化された労働、ジェンダー、性産業、(児童の)性被害といった問題や欲望の歪さを描き出した。太夫(語り)と三味線という人形浄瑠璃の分業形態を参照し、ナレーションとすべての台詞を声色で演じ分けた原サチコと、琵琶で併走した西原鶴真の力も大きい。市原の近作は、ギリシャ悲劇やオペラ『蝶々夫人』という古典を参照しつつ、「男性のみで演じられたギリシャ悲劇をすべて女性で演じる」「多言語・多人種の俳優陣」といった戦略的な上演形式により、換骨奪胎と現代社会批判を両立させている。「人形やアバター/人間」「操る/操られる」という構造を利用しつつ撹乱する仕掛けは、例えば百瀬文の映像作品《Jokanaan》(2019)や、許家維+張碩尹+鄭先喻の上演型インスタレーション《浪のしたにも都のさぶらふぞ》(2023)など近年秀逸な作例が多い。本作もまた、古典の枠組みと上演形式を戦略的に書き換え、アイロニーと滑稽さを突きつけた。



[© igaki photo studio 写真提供:豊岡演劇祭実行委員会]


なお、ジェンダーの観点から、本作がもつ功罪の両面を指摘したい。まず、古典への批評的視線について。原作、とくに歌舞伎や人形浄瑠璃の「摂州合邦辻」では、「継母」が物語のキーパーソンであり、義理の息子への恋愛感情を拒絶されたため、毒を盛って病にかからせるが、実は暗殺から彼の身を救うための計画であり、自分の生き血を飲ませて病を治癒させる。ここには、「男を誘惑し破滅させる悪女/自己犠牲により救済する聖女(母)」という、男性にとって都合のよい女性表象の二面性がコインの表と裏のように接続されている。市原は、「継母の生き血」を「父の心臓」に変更することで、「実は貞女の鑑だった継母が命をかけて息子を救う自己犠牲の物語」を消し去った。そのため継母の存在感は薄れるが、例えば同じく「摂州合邦辻」を現代演劇化した木ノ下歌舞伎では、「女性表象のステレオタイプの二極化」が等閑視されていた事態に比べて一歩前進したと言える。

一方、第二幕で登場する「性風俗マッサージ店で働く人形たち」の造形には疑問が残った。安全太郎/ラブドールはどちらも「人間の外見」だけでなく、安価で代替可能な労働力としての男性/その性欲処理を担う女性として、強固なジェンダー役割を模倣している(しかもラブドールは「妻の役割」として「出産」する)。だが、ジェンダーという制度自体、この操り人形のようなものではないだろうか。生まれたときから、「女」または「男」の特徴を備えたとされる人形を、自らの主体的な意思とはまったく無関係に強制的に装着され、他人の目に晒され一方的にジャッジされるのは、自分自身の前面にくくりつけられた「人形」の方なのだ。その「人形」を違和感なく操ることができる人もいれば、うまく操れず取り外したいと願う人もいる。だがその「人形」はがっちりと強固に取り付けられ、そう簡単には取り外せないのだ。

二元論的な性規範を体現する安全太郎/ラブドールとは対照的に、マッサージ店の人形たちは、顔面に無数の目玉を付け、カラフルなカツラを全身にまとい、ブラジャーを鎧のように重ねて装着し、ペニスを鬼の角のように額から生やしている。自分の身体に好きなパーツを好きなだけ付けて、「売りたい自分を売る」「今日は この子はちんこ二本 この子はまんこ三個」「私は両方二個ずつ付けてます」。だが、「二元論的な性規範からの逸脱」を、フェティッシュな身体パーツや性的記号を増殖させた「過剰な異形性」「奇形的な改造人間」として表象し、「おぞましいモンスター」として造形化することは、トランスフォビアと通底しているのではないか。マッサージ店に入った父親は「入る店を間違えた」「性別は? なんて尋ねたら笑われるかも」と独り言を言うが、この発言は性風俗で働くトランス女性を想起させる。近親相姦や両性具有は市原の過去作品でも登場する要素だが、「規範からの逸脱=(見た目の)奇矯性やグロテスクな過剰性」と直結してしまう回路の安易さには、「そのようにしかクィアは想像・表象されえないのか」という疑問と諦念が残った。

Q:https://qqq-qqq-qqq.com
豊岡演劇祭2023:https://toyooka-theaterfestival.jp/program


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2023/09/16(土)(高嶋慈)

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