2019年10月01日号
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artscapeレビュー

木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』

2019年03月01日号

会期:2019/02/10~2019/02/11

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

劇場とアーティストが協働するプログラム「レパートリーの創造」第2弾として、昨年度の『心中天の網島―2017 リクリエーション版―』に引き続き、糸井幸之介とタッグを組んだ木ノ下歌舞伎。『摂州合邦辻』は、説教節「しんとく丸」、「愛護の若」、能「弱法師」などを元にした人形浄瑠璃、歌舞伎作品として成立し、現代の文学まで語り継がれてきた物語である。

大名の高安家の跡取りに生まれ、才能と容姿に恵まれた俊徳丸は、異母兄に妬まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄せられる。玉手御前を拒絶する俊徳丸だが、業病にかかり、家督相続の権利と許嫁を捨てて失踪してしまう。彼の行方を訪ねる許嫁が探し当てたのは、両目の視力を失い、醜く顔貌が崩れ、社会の底辺で彷徨う俊徳丸の姿だった。許嫁に横恋慕する異母兄が連れ戻そうとするが、2人は合邦道心という僧侶に助けられ、家に匿われる。この合邦道心は玉手御前の父親であり、俊徳丸を追い求めて高安家を飛び出した玉手御前は、2人が匿われているとも知らず、実家へ身を寄せる。俊徳丸への邪恋を諦めさせようと諭す両親だが、玉手御前は聞く耳をもたない。俊徳丸を連れて逃げ出そうとする許嫁に、襲いかかる玉手御前。元武士である道心は、高安家へ義理立てするために、愛娘を手にかける……。



[撮影:東直子]


舞台は、「許嫁に襲いかかる玉手御前を、父親の道心が斬りつける」というこの緊迫したシーンで幕を開ける。いきなりのクライマックスの提示から、時間を過去へと巻き戻し、ストーリーの進行と過去の回想が時間軸を行き来しながら語られていく仕掛けだ。生と死、愛と憎しみ、聖と俗、真実と嘘が渦巻く重厚なドラマだが、ポップなメロディに乗せて歌い踊る、糸井幸之介によるミュージカル調の演出が、軽やかさと推進力を与える。舞台の前半は俊徳丸の生い立ちや病による凋落に、後半は玉手御前にスポットが当てられる。息も絶え絶えの彼女が真実を吐露する独断場は、内田慈の熱演が光る。実は、俊徳丸への恋慕はカモフラージュのための演技であり、異母兄が俊徳丸の暗殺計画を立てていることを知った彼女は、彼の命を救うため、毒酒を飲ませて業病にかからせた。失踪した俊徳丸をなおも追い求めたのも、恋に狂ったからではなく、自分だけが彼を癒せるからだった。「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の生き血」を飲ませれば病は癒え、まさに自分がそれに該当する女なのだ。玉手御前は後妻になる前は高安家に仕える使用人であり、彼女の行動原理は、恋慕の情ではなく、元使用人としての主への忠誠心と(継)母として子を救う想いだったことが明らかになる。最後の力を振り絞って血を飲ませる玉手御前の周りを、登場人物たちは輪になって囲み、数珠を回して祈りを捧げる。数か月後、病から癒えた俊徳丸は許嫁と式を挙げ、玉手御前の両親は娘を想って空の月を見上げる。



[撮影:東直子]

序盤での群舞とコーラスのシーンは、このクライマックスを念頭に振り返ると、伏線が散りばめられていたことに気づく。例えば、トラが爪を立てて獲物に襲いかかるような手の振りや、真ん中の1人を囲んで円陣を組んで踊る構成だ。また、舞台美術も秀逸。10数本の柱を使ったシンプルなものだが、俳優たちの手で組み替えられる度に、現代の都市のビル群、神社の社、掘っ立て小屋、家の骨組みや敷居へと自在に変化する。冒頭、垂直に立っていた柱の列は、ストーリーの変化に応じて分解され、さまざまに組み替えられた後、再びラストで「垂直の柱の列」に戻り、「秩序の回復」を暗示する。また、後半で運び込まれる大玉は、初め不穏な異物として現われ、玉手御前を囲んで人々が回す数珠になった後、夜空に浮かぶ星へと変貌する。人々の祈りや、超越的な力の顕現を現わすようだ。


このように見応えある舞台だったが、「古典を現代(の問題として)上演する意義」と「玉手御前の二面性」について最後に考えたい。ラストで明かされる玉手御前の行動原理は、一応の辻褄は合うが、彼女がそこまでの自己犠牲に徹する動機を理解するのは(現代の観客としては)困難だ。むしろ、こう考えた方が良いのではないか。玉手御前はほぼ終始、「恋に狂い、男を追い詰めて滅ぼす悪女」として振る舞う。一方、終盤、いまわの際の告白で彼女は、「貞操深く慈愛に満ちた、自己献身的な貞女の鑑」へと反転する。毒酒によって死に至る業病をもたらす一方、自らの生き血で病を癒す。「(男の)命を奪う悪女」と「癒し、命を与える女」という二面性。「恋と嫉妬に狂い、我が身と男を滅ぼす悪女」(例えば『娘道成寺』で僧の安珍に愛を拒絶され、蛇に身を変えて焼き殺す清姫)と、「命に代えても夫への貞操を守る、自己献身的な貞女」(例えば、自分に横恋慕する男に夫を殺すよう頼み、就寝中の夫と入れ替わって不貞の代わりに自らの命を捧げる袈裟御前)。古典ではおなじみの、両極端な二つの典型像すなわち「テンプレキャラ」を統合し、貼り合わせて造形したのが「玉手御前」である、と。


従って、古典をどう「現代」に接続し、「現代の問題」として上演するのかにあたり、より重要なのは、整合性の高さでも、古典に詳しくない観客でも楽しめるエンターテインメント性でもない。本作の場合、「玉手御前の両極端の二面性は、(男性の)ファンタジーを貼り合わせた産物に過ぎない」という問題こそ問われるべきである。従って、玉手御前の両親が柱の森を彷徨って「あの子はどこにいったのか」とつぶやき、舞台端の柱を背に玉手御前(の霊魂)が無言で佇むラストシーンは、「親子の情」というエモーショナルなオチに帰着する演出に堕しており、「玉手御前など(実は)いない」という彼女の不在性にこそ言及すべきだった。

だが、「現代の問題として古典を上演することの意義」は、少なくとも、木ノ下歌舞伎がKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで上演した『勧進帳』にはあった(外国人やトランスジェンダーの俳優を起用することで、人種や国籍、セクシャリティなどの差異に基づき排除が正当化される構造をメタレベルで示唆する秀逸な上演だった。リクリエーションによる初演版のアップデートである点も大きい)。「古典」は、時代の要請によってアップデートされていくものであり、アップデートの作業が作品を延命させる。例えば今作の場合、ジェンダーに意識的な演出家ならば、「死と破滅をもたらすファムファタル」/「自己犠牲に徹する聖女」という玉手御前の二面性に対して、どう批評性を加えるだろうか。また、木ノ下歌舞伎の今後の可能性として、「古典」にとって外部の視線である女性や外国人の演出家と組む選択肢も考えられる。ただ女性演出家の場合、男性に比べて数が圧倒的に少ないという問題がある。この事態もまた、「誰の視線からの上演なのか」という問題、「繰り返し語られる『物語』を駆動させる政治性」を問う姿勢を妨げている。

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2019/02/10(日)(高嶋慈)

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