2020年10月15日号
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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|市原佐都子(Q)『バッコスの信女―ホルスタインの雌』

2019年11月15日号

会期:2019/10/11~2019/10/14

愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を換骨奪胎し、「性と生殖」をめぐる現代社会批判をポップかつ網の目のように散りばめた、2時間半の大作。市原佐都子がこれまで主題化してきたテーマ──ロマンチック・ラブ・イデオロギーから切り離された「生殖」としての「性」、女性が自身の「性」を語るタブーへの異議申し立て、「男性」が不在・排除された世界、人間/動物の境界の曖昧化、異種交配への強い衝動、そして最終的には食べることも性も「命の連続」「生」の営みとして全肯定する意志── を、ギリシャ悲劇が描く「子殺し」の復讐劇やその形式性と結び付け、現代社会批判として読み替え、さらに音楽劇として昇華させた。昨年のKYOTO EXPERIMENT 2018で上演された『妖精の問題』も衝撃的だったが、さらに突き抜けた深度をもつ怪作である。


本作では、リビングダイニングを舞台に、一見平凡な主婦と、彼女が生み出した「牛と人間のハーフ」である「半獣」の愛憎劇が描かれる。以前は、牧場でホルスタインの雌を人工授精して繁殖させる「家畜人工授精師」だったという主婦。特に好きでもない男と結婚したのは、家事や性欲の処理という「妻の役割」をこなしていれば、賃金労働に就かずに安楽に暮らせるからだと語る小市民的な人物だ。彼女は結婚前、乱交バーで女性とセックスし、「硬いものを経由しなくても柔らかいものに触れることでダイレクトに自分を喜ばせている」喜びに感動するが、直後に罪悪感に陥り、正しい「生殖」をして子どもをつくろうと思い立ち、海外の通販サイトで「日本人男性の精子」を購入する。彼女のなかでは「性(欲)」と「生殖」は分離されており、後者は普段、自分が牛相手に行なう仕事と同じなのだ。彼女は矛盾や分裂を抱えた奇妙な人物であり、ヘテロセクシズムの規範を逸脱しつつ、「結婚」「妊娠出産」という世間的圧力や「生殖に結びつかない性は異端である」という性規範を内面化してもいる。また、「子どもが外見でいじめに合わないように」「精子の国籍」にこだわる彼女は、人種差別主義者でもある。



[Photo:Shun Sato]


しかし、土壇場で臆した彼女は、購入した精子をホルスタインの雌に注入し、「上半身が人間、下半身が牛」の化け物を生み出してしまう。「牛の本能と成長速度」のために、制御できない性欲と肥大したペニスを持て余し、泣き喚く子ども。「エロ本」を教科書として「しつけ」を施す主婦。この「半獣」は、ひとつの体に牛と人間、理性と衝動、男性と女性が入り混じる「半獣半人かつ両性具有」という複数の境界攪乱的な存在だ。手に負えなくなった「半獣」は育児放棄されるが、「変態向けの性風俗」で生活の糧を得て生き延び、主婦が暮らすリビングダイニング、つまり「規範化・制度化された生殖システム」「女性の再生産労働の現場」のなかに回帰してくる。

成長した「半獣」は、山中で「女性を愛する女性のための牧場」を運営し、「バターマッサージ」で互いに愛撫し合うことで、人工授精で精子を注入される苦痛を濃密な快楽に変え、繁殖しているのだと言う。「半獣」が母を再訪したのは、「人間に母乳を搾取された子牛たちの、そして自身も飲めなかった恨みを癒すため、母と交わって自らの生まれ変わり(子)を産ませ、母乳を独占したい」からだ。「半獣」に誘われ、主婦は牧場へ赴きマッサージを受けるが、欲情した「半獣」に襲われ、引きちぎった肉の棒を手に茫然自失でリビングに戻る。「字幕スクリーン」を突き破って(再)登場した「半獣」は、「解放された」「これは母の愛なのでしょうか」と呟き、彼/彼女の浄化と昇天(さらには理性による獣性の制御)を暗示する。「中国では牛のペニスを食べる」「生臭いがコラーゲン豊富」という挿話を挟み、主婦が愛玩犬と「焼肉」を囲むラストシーンはグロテスクだが、ドラマに併走してきたコロスの合唱によって、食べられることは誰かの一部になって生き続けることであり、生を全肯定するポジティブな意志が歌い上げられる。



[Photo:Shun Sato]


そしてこの物語は、会話部分とコロスによる合唱を交互に繰り返すギリシャ悲劇の形式を踏襲し、東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるポップで多彩な楽曲が散りばめられる。「雌のホルスタインの霊魂たち」によるコロスは、清冽なハーモニーで、毒の効いた歌詞を繰り出す。とりわけ、「半獣」を演じ、狂気走ったダンスからファルセットの効いたヴォーカルまでこなすダンサーの川村美紀子の怪演は圧巻だ。



[Photo:Shun Sato]



本作において、女性と「ホルスタインの雌」の二重写しは、批判と肯定の両面を含み、極めて両義的だ。しばしば「巨乳」と同義の「ホルスタイン」同様、男性の欲望に支配・搾取される家畜・奴隷状態であることへの批判(だが男性もまた、ランキング化された精子が「商品」として販売される生殖産業においては、牛と同じである)。一方、「人工授精」は、「半獣」の牧場では、生物学的な「男性」が不在の世界でも、女性だけで生殖できるものとして、ポジティブに読み替えられる。「私たちには(も)快楽への欲求や性欲はある、でも『男』は要らない、なぜならずっと男性の欲望や幻想の道具として客体化・家畜化されてきたからだ」という弾劾と自立への強い意志がここにある。

女性が「性」を語ることへの抑圧、性的な搾取に対する異議申し立てに始まり、「エロ本」を教科書代わりに「学習」する男性の性幻想、国境を越えて拡大する生殖産業、性風俗産業、人種差別(人種の「ハーフ」から「人間と動物のハーフ」に拡張される)、食肉・家畜産業/愛玩犬の対照性が示唆する「動物の搾取」など、現代社会に対する問題提起が、「リビング」すなわち「主婦」「家族」にあてがわれた私的領域において語られ、相互参照し合う。いや、むしろそうした私的領域こそ、性と生殖をめぐるポリティクスに浸食され、管理されているのだ。市原がユニット名に掲げる「Q」に込められた複数の意味──クエスチョン(問題提起)、クィア(「正常」に対する疑義)、そして卵子に侵入した精子の図示──をここで改めて思い起こすべきだろう。

また、すべて女性出演者のみで構成される本作が、「すべて男性俳優により、市民=男性観客だけのために上演されていた」古代ギリシャ悲劇に対するアンチでもある点も看過できない。同日に観劇した劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』が、非常に緻密で洗練された手法で「物語の解体・極北」を示し、(あえて)プロセニアム舞台を用いて「上演すべき物語などない」上演批判・物語批判を行なっていたのに対し、(彼ら「ヨーロッパ演劇」の根本たる)「ギリシャ悲劇」の物語や構造を換骨奪胎して、「いや、女性の側から語り直すべきことはまだある」という、強烈なアンチを突き付けていた。来年、ドイツで開催される世界演劇祭への正式招待も決まっている本作だが、国内での再演も強く希望したい。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


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2019/10/13(日)(高嶋慈)

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