2018年04月15日号
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artscapeレビュー

2010年12月01日号のレビュー/プレビュー

ファッション写真展 女神(ミューズ)たちの肖像 モードと女性美の軌跡

会期:2010/10/21~2011/01/10

神戸ファッション美術館[兵庫県]

同館所蔵の、19世紀後半から1990年代までのファッション写真約130点を、各時代のオートクチュールやプレタポルテ(これも所蔵品)とともに展覧。他の美術館では真似のできない、写真と実物をシンクロさせる手法で、非常に説得力のある展示となった。また、会場入口では、ベルナール・フォコンの写真と、彼の作品に登場するマネキン人形数十体を対面配置して観客を歓待するという、心躍る演出がなされていた。写真は、まさにファッション写真史を代表する名作揃い。しかもそのすべてが発表当時のプリントだというのだから恐れ入る。嬉しさと同時に「これだけのコレクションを持ちながら、なぜ今まで有効活用しなかったのか」と、軽い憤りも感じたりして。今後は本展のような工夫を凝らした企画をどんどんやってほしい。

2010/10/21(木)(小吹隆文)

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石子順造と丸石神

会期:2010/10/16~2010/10/30

CCAAアートプラザ(ランプ坂ギャラリー)[東京都]

丸石神とは球体状の天然石に神が宿ると考える民間信仰。山梨県を中心とした地域に根づいており、美術評論家の故・石子順造が晩年にフィールドワークを行なったことで知られている。多摩美術大学芸術人類学研究所が企画した本展は、石子順造を理論的な糸口にしながら、遠山孝之による写真と小池一誠による石の作品を展示したもの。長い年月をかけて風雨や流水によって丸く削り取られた石を見ていくと、たしかに自然と芸術の境界が怪しく思えてくるし、真円とは程遠い歪な球体の造形に石子が近代の限界を乗り越える可能性を見出していたことにも頷ける。しかし、石子によって近代批判のための突破口として意味づけられた丸石神を、展覧会という近代的な文化装置のなかで見る経験には、やはり少なからず違和感を覚えざるをえない。写真であろうとオブジェであろうと、土地から切り離されたうえ、展示会場に移動させられた丸石神の数々は、展覧会という「見る制度」によって、造形的な美しさを際立たせる物体として否応なく見せられているからだ。けれども、丸石神には、造形的な側面と同時に、民俗学的・宗教的な側面があり、そこに民衆による声なき声が仮託されていることはいうまでもない。はたして、その多面性をとらえることができる文化装置はありうるのか。石子が近代的な表現概念の呪縛を問題視しながらも、ついに解放することができなかったという限界を思えば、わざわざ同じ轍を踏むことはあるまい。たんに石子の業績を再評価するだけでなく、石子がなしえなかった不可能性を受け止めながら、別のアプローチを切り開くことこそ、危急の課題である。

2010/10/22(金)(福住廉)

益村千鶴 展 Tenderness

会期:2010/10/26~2010/11/14

neutron kyoto[京都府]

益村といえば、腕、唇、鼻など、人間の身体の一部をモチーフにした、シュールかつ内省的な作風が持ち味だが、新作では一目で本人とわかる人物像を登場させたのが印象深い。今までは人物を特定できないように描いていたのに、一体どんな心境の変化があったのだろう。それにしても相変わらずの冴えまくった描写力。この画力の高さが、作品に確かなリアリティを与えている。

2010/10/26(火)(小吹隆文)

天狗推参!

会期:2010/09/25~2010/10/31

神奈川県立歴史博物館[神奈川県]

「天狗」のイメージを歴史的に振り返る企画展。国宝や重要文化財を含む約200点の文化財を5つの章に分けて展示した。絵巻や舞楽面、浮世絵、絵馬、活字本などに表わされた天狗のイメージの変遷を時系列に沿って見ていくと、半人半鳥の烏天狗から赤ら顔の鼻高天狗へという形象上の変化はもちろん、天狗の意味するものが推移していく様子もわかって、じつにおもしろい。それは、修行を邪魔する仏敵として現われ、魔界転生をはたして現世利益をもたらす信仰の対象となり、その後神事や芸能の現場に登場し、さらには崇高でありながら滑稽でもあるという二重性を帯びながら民衆に愛されるキャラクターとなった。居酒屋チェーン店の宣伝として活用されているように、かつて森の大空を闊歩していた天狗は、いまや完全に地上に引きずり降ろされてしまったわけだ。ただ、天狗だけでなく、河童や鬼など他の想像上の異人たちも同じような路を歩んでいることを思えば、本展が暗示していたのは、輸入した外来文化を内側で熟成させながら神々しい記号を民衆の底辺へと徐々に降ろしてゆく、日本文化の構造的な働きだといえる。いま美しく崇高であっても、いずれ世俗化され、笑いの対象とならざるをえない。豊かな想像力によって空想の世界を創り出す現代アートにしても、その構造からやすやすと抜け出すことはできないだろう。ただ、逆に民衆に愛されてやまない滑稽なアートが、やがて崇高な美しさに高まってゆくことがないともかぎらない。そこに、アートの例外的な価値がひそんでいるのかもしれない。

2010/10/26(火)(福住廉)

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クロッシング

会期:2010/10/30

新宿武蔵野館[東京都]

「メリケンに生まれなくて、ほんとうによかった……!」と心の底から思うことが、アメリカの映画を見ているとよくある。貧困のスパイラルから抜け出そうにも抜け出せず、麻薬とギャンブル、酒、売春、ギャング、不味そうな飯、何よりも銃弾による暴力の応酬。アントワン・フークア監督によるこの映画も、アメリカのどん底を舞台にしながら、それぞれのやり方でなんとかして人生を取り戻そうとしてもがき苦しむ三者三様の人間模様を描いた傑作だ。リチャード・ギアとイーサン・ホーク、ドン・チードルが演じる3人の警官が歪なかたちで交差するクライム・サスペンスの体裁をとりながらも、物語の背後で一貫しているのは幸福を追究する人間の欲望のありよう。定年を機に人生の針路を切り換えるため、愛する家族を守るため、裏切者を許さないため。それぞれの欲望にはそれぞれの正義があり、その先に幸福が待ち受けているはずだったが、その傍らには死と諦念が暗い口を開けて待っている。その穴に落ちないように、それでもなお危うく脆い路を歩んでいくことが人生であることを、この映画は教えている。くたびれた警官にしか見えないリチャード・ギアと、憎たらしい女ボスになりきったエレン・バーキンの演技もすばらしい。

2010/11/01(月)(福住廉)

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