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木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』

2023年03月15日号

会期:2023/02/22~2023/02/23

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

木ノ下歌舞伎が、書き下ろし台本と演出に岡田利規(チェルフィッチュ)を迎える、初タッグ。『桜姫東文章』は、約200年前に初演された鶴屋南北の代表作のひとつ。ぶっ飛んだストーリーをほぼ原作通りに現代口語で上演。俳優陣も魅力的だ。

物語は、主人公の桜姫、僧の清玄、ワルの色男の釣鐘権助の三角関係を軸に展開する。17年前、稚児の白菊丸との心中に失敗し、自分だけ生き残った清玄のもとに、吉田家の息女・桜姫が尼になるためにやってくる。桜姫の父と弟は何者かに殺され、家宝を奪われた吉田家は存亡の危機にあり、桜姫は生まれつき左手が開かないために婚約を破棄され、出家を望んでいる。しかし清玄が念仏を唱えると手が開き、中から香箱が出てきた。香箱の裏に書かれた「清玄」の文字を見て、清玄は17歳の桜姫が白菊丸の生まれ変わりだと確信する。一方、桜姫の手が開いたことを知った婚約者は、破談を取り消す手紙をよこす。使者の腕に彫られた「釣鐘の刺青」を見て驚く桜姫。かつて屋敷を襲い、自分をレイプした盗賊の腕にも、同じ刺青があったからだ。しかも桜姫は顔も知らないその男に惚れており、同じ刺青を自身の腕にも彫り、密かに出産した子を里子に出していた。出家をやめ、寺で再会した盗賊の釣鐘権助と愛を交わす桜姫。釣鐘権助は逃走し、「清玄」と書かれた香箱が落ちていたため、清玄に疑いがかかる。桜姫への想いで不義密通の濡れ衣をかぶった清玄は、桜姫とともに河原で晒し者になる。清玄は前世の因縁を話して口説くが、桜姫はつれない。




[撮影:前澤秀登](東京公演)



[撮影:前澤秀登](東京公演)


後半、寺を追われ流転の身となった清玄は、香箱を隠し財産と勘違いした元弟子に金目当てで殺される。一方、釣鐘権助と夫婦になるものの、女郎屋に売られた桜姫には、夜ごと清玄の幽霊が出現するため、家に戻されてしまう。家には、かつて里子に出した子どもがめぐりめぐってやってくる。わが子であることを清玄の幽霊から聞く桜姫。そして酔った釣鐘権助の話から、父の殺害と家宝を盗んだ張本人だと知った桜姫は、子どもと釣鐘権助を殺して復讐を遂げる。

心中、輪廻転生、前世の因縁、不具が治る奇跡、三角関係、仇と知らずの恋、家臣たちの忠義、子殺しと復讐……。ネタの過剰投下と複雑な人物関係、(歌舞伎と同様に)清玄/釣鐘権助の1人2役。本公演では「これから演じるシーンを、先に字幕で説明する」という裏技を駆使して約3時間の大作にまとめた。舞台上には、崩れかけた額縁舞台が入れ子状に設置され、出番のない俳優たちが「舞台の端や手前」に寝そべって眺めている。見せ場や立ち回りでは、「紅屋!(ベニヤ?)」「豆腐屋!」といったふざけた屋号に加え、「ポメラニアン!」「ダルメシアン!」といった謎のかけ声が口々に飛ぶ。この「メタな観客の空間」には、衣装ラックや鏡が置かれ、俳優が着替えや水分補給、メイク直しをする「楽屋」でもある。

入れ子状の舞台奥には、「囃子方」の代わりにDJブースがあり、ゆったりしたリズムがどこか不穏さをまとって流れ続ける。抑揚を抑えた平板な発声で、魂が半分抜けた操り人形のような動きをする俳優たちには、「本気で演技してない」感が漂う。あるいは、(初期の)チェルフィッチュを思わせる、「身体の不随意な運動の増幅」が台詞とは無関係に反復され続ける。奥に広がる暗闇を背景に、脱力感と不穏な緊張感が均衡しながら持続する。



[撮影:前澤秀登](東京公演)


木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下裕一は、当日パンフレットで、岡田を脚本・演出に迎えた理由として、次のように述べる。「時に歌舞伎の演目は、ネガティブな側面も内包しています。当時の時代背景に根差した差別やジェンダー観、家父長制や障がい者の描かれ方……(旗揚げから:筆者注)17年経って、それらにも正面から向かい合うべきなんじゃないかと考えました」。本公演で、特にジェンダーと家父長制への批評としてポイントとなるのが、(主人公の桜姫ではなく)「お十」という脇役の女性の演出である。

お十は、長屋の大家業を営む釣鐘権助の間借り人の妻である。捨て子(実は桜姫の子)を養育費目当てで引き取った釣鐘権助は、「乳の出る女を適当にみつくろったから」と言うが、お十は「では、その適当にみつくろわれた、乳の出る女とは誰でしょう?」と観客に向かってメタ的に問いかける。また、幽霊が出て客がつかないからと桜姫が「返品」され、売った20両を返せと迫る女衒に対し、釣鐘権助はお十を身代わりに売る。お十には「抗議の台詞」すら与えられないが、無言のまま、クラッチバッグを持った片手を左右に振りながら、ふらふらと身体を揺さぶり続ける。

そして大きく改変されたラストシーン。「劇中劇の舞台」から一歩前に出た桜姫は、奪い返した家宝をお十に放り投げ、さらにお十が舞台奥へ投げ捨て、「ハレルヤ!」と屋号が飛んで幕となる。釣鐘権助にとっても、奪った家宝は、元武士の落ちぶれた自分が再び這い上がるための拠り所だった。だが、原作とは異なり、桜姫には、家宝を取り戻して「お家再興」を果たすという家父長制的使命感も執着もなく、むしろ投げ捨てるべきものである。「家宝」の正体も、「折り畳まれたただの紙きれ」だ。「父から息子へ、血統の正統性とともに継承される家宝」すなわち家父長制の象徴を、「男の手」から奪い返し、非実体性の暴露とともに放棄すること。男の欲望によってモノのように扱われた女性たちが、最後にささやかな抵抗と連帯を示す。

とまとめたいところだが、本作には、下記の2点で疑問や未消化感が残った。1点目は、桜姫の衣装の扱い方である。すべての俳優が複数の役を演じ分けるため、さまざまなコート、ダウンベスト、スタジャンといった「上着」の着替えで「役の交替」が可視化される。だが、桜姫だけが、「身分の転落」とともに分厚いファーコートを脱ぎ、シースルーのコートに着替え、ラストはそれすら脱いでキャミソール1枚となる。根強い性差別や女性に自己犠牲を強いる家父長制的ジェンダー観に異を唱える本作だが、「ヒロイン(だけ)が衣装を脱いでボディラインを露わにしていく」演出は逆行ではないか。

2点目は、「家宝」と同様、家父長制と密接に関わり、「実体がないもの」として舞台上で表象される「赤ん坊」である。「ただの紙切れ」にすぎない「家宝」と同様、「桜姫の子ども」もまた、「俵型のクッション状の物体」として登場する。ずっと釣鐘権助の手中にあった家宝とは対照的に、「赤ん坊」はほぼすべての主要登場人物の手から手へと手渡されていく。もはや誰の「捨て子」なのかもわからないほど捨てられ続ける赤ん坊。それは、「未婚で産まれ、かつ父親不明の子」が家父長制を内部から脅かす存在であり、システム内部に定位できないことの象徴でもある。家長(父親)が息子に家督を継承させる家父長制の存続は、「婚姻外の男との子どもではない」ことが確実に保証された嫡子を産ませるために、女性(妻・娘)の性を一方的かつ徹底的に管理することにかかっているからだ。

しかし、桜姫は、わが子の父親が判明したとたん、原作通り未練も躊躇もなく、「仇の子(=釣鐘権助の血をひく子)」という理由で子どもを殺す。彼女の行動原理を支えるのは、「子は父親(だけ)の血統を継ぎ、父親に属する所有物である」とする父権的思考である。従って、桜姫は、「家宝」を放棄する身ぶりの一方で、子殺しによって逆説的に家父長制的思考を「延命」させるというジレンマを体現してしまう。「家宝」と「赤ん坊」をともに非実体的に表象することで、『桜姫東文章』のドラマの裏に書き込まれた家父長制に迫った本作だが、「終焉を宣言しつつ(再)回収されてしまう」という深い矛盾が残った。

歌舞伎に限らず、「古典」を現代において上演することは、ジェンダーの問題を避けては通れない。逆に言えば、古典に向き合う意義はまだまだ汲み尽くされてはいない。


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/67743/

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