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ダニエル・ヘラー゠ローゼン『エコラリアス──言語の忘却について』

2018年08月01日号

訳者:関口涼子

発行所:みすず書房

発行日:2018/06/08

プリンストン大学で教鞭を執る若き比較文学者、ダニエル・ヘラー゠ローゼン(1974-)の初の邦訳書。この著者の仕事を10年以上にわたり追いかけてきた者として、本書の出現はまさに待望といってよい出来事だった。従来、ヘラー゠ローゼンの名は「ジョルジョ・アガンベンの英訳者」という枕詞とともに伝えられることが多かったが、本書『エコラリアス』の訳出によって、恐るべき学識と語学力を備えたこの碩学の名は、今後本邦でも広く知られていくにちがいない。

弱冠20代半ばにしてアガンベンの複数の訳書をものした著者は、これまで本書を含む7冊の──まったく主題の異なる──単著を発表しているだけでなく、ノートン版『アラビアン・ナイト』の編集を手がけるなど、文献学の領域でもすぐれた業績を残している。『薔薇物語』の研究で博士号を取得した彼の専門はさしあたり中世文学といってよいだろうが、古代ローマ法以来の「海賊」をめぐるさまざまなトポスを渉猟した『万人の敵』(2009)や、ピタゴラスに端を発する「世界の不調和」の系譜をたどった『第五の槌』(2011)などが示すように(いずれも未邦訳)、その関心は哲学、法学、言語学などにまたがり、ほとんど際限がない。

なおかつこの著者の美点は、10におよぶ言語を操り、古代・中世・近代の文献を縦横無尽に呼び出すその学知に加えて、それを伝える文章がきわめて平明かつ魅力的であることだ。先に列挙したような壮大なテーマを扱った著作が、専門的な知識を欠いた幅広い読者に開かれているという事実は、率直に言って驚くべきことである。私たちはその筆に身を任せるだけで、本来ならば容易には接近しがたい広大な「知」の一端を瞥見することができる。本書『エコラリアス』もまた、古典文学からカフカ、ハイネ、カネッティら近代の作家を経由して、副題にもある「言語の忘却」という主題にさまざまな角度から迫った、すぐれたエッセイ集として読むことが可能である。

2018/07/25(水)(星野太)

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