artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

守屋友樹「gone the mountain / turn up the stone: 消えた山、現れた石」

会期:2015/04/14~2015/04/26

Gallery PARC[京都府]

マッターホルンの山の写真を出発点に、複数の写真や立体の空間的配置の中で、「山」をめぐるイメージが連鎖的に反応し、意味の獲得と喪失を繰り返しながら、記憶と認識のズレについて問いかける。岩石を写したと思しき写真は、山の部分が切り抜かれた写真を見た後で目にすると、切り抜かれた山の形なのかただの石ころなのか判然とせず、意味の曖昧な領域へと漂い始める。小高く盛り上がった雪面を写した写真は、山の形が切り抜かれた写真の白い空白と響き合う。くしゃくしゃにした紙切れの写真は山の稜線をなぞり、脱ぎ捨てられた衣服の写真もまた、峡谷のイメージへと錯覚を誘う。逆さまに掛けられた山岳写真の中の輪郭線は、ネオン管のラインへと置き換えられ、白々しく空間を照らし出す。イメージの目まぐるしい転移、反復、連鎖の中で、「マッターホルン」という固有名は失われていく。
このようにして、守屋友樹は、写真イメージのもつ多義性と戯れ、かつ三次元のモノへと展開し、イメージ同士が干渉し合う磁場を作り上げることで、自由な連想の遊戯へ誘うと同時に、記憶と認識の危うさを突きつける。それはまた、写真は複数の意味を多義的に呼び込める場であるからこそ、逆説的に、写真それ自体は次々と意味を充填されることを待ちかまえる空白に他ならないことを暴き出している。

2015/04/22(水)(高嶋慈)

西山美なコ・小松敏宏「On the Exhibition Room」

会期:2015/03/28~2015/04/18

CAS[大阪府]

「空間の中に(in)ある美術作品ではなく、美術作品が導く場所について(on)の意識を前景化する」ことを、小松敏宏と西山美なコの作品を通して試みた二人展。
小松敏宏の作品は、展示室の壁の向こう側に存在する空間を撮影した写真を、同寸で当の壁に貼り、写真の縁と白い壁の境界線を曖昧にぼかすことで、外部の現実空間をホワイトキューブの中へ召喚してみせる。ギャラリーの事務所、作品の保管場所、廊下や階段、非常灯……あたかも壁の向こう側を「透視」しているかのように、壁の一部が透明化したような錯覚に陥る。ただし、それは「写真」であるがゆえに、現実空間との時間差をはらんでいる。「透視」しているのは、現実にあった空間だが、既に過去のものなのだ。小松の作品は、純粋なホワイトキューブとして虚構化された空間を、写真というイメージを用いて、「今ここ」の現実とは微細な差異を伴ったものとしてもう一度虚構化するような、ねじれた構造をはらんでいる。
一方、西山美なコは、展示室の壁のみならず、天井や梁にまで、鮮やかなピンクの曲線によるウォール・ペインティングを展開した。それは紋様化された植物や花のようにも、飛沫のようにも見え、フラクタルのようにどこまでも増殖しながら空間を覆っていく。また、描線の上に白い絵具を薄く塗り、さらにその上から描線を重ねることで、ギャラリー空間の「壁」の物質性は後退し、絵画的イリュージョンが生成する場へと変貌していく。
ホワイトキューブの虚構性に裂け目を入れつつ、写真というメディウムの特性によって再虚構化するような小松と、物理的な壁を支持体としつつも、イリュージョンの生成によって半ば非物質化させていく西山。物理的な「壁」を出発点としつつ、写真/ペインティングというメディウムの違いによって、異なる空間を呼び込んだ両者の対比が興味深い展示だった。

2015/04/17(金)(高嶋慈)

地点『CHITENの近現代語』

会期:2015/04/15~2015/04/16

アンダースロー[京都府]

明治期に制定された大日本帝国憲法に始まり、終戦の詔勅(玉音放送)、日本記者クラブでの昭和天皇の会見記録、夏が巡るたびによみがえる敗戦の記憶を扱った朝吹真理子の小説『家路』と、戦後の被爆者の生に触れた別役実の戯曲『象』という2編のフィクションを経由して、改正問題で揺れる現在の日本国憲法へ。『CHITENの近現代語』は、日本の近代の始まりから敗戦を経て現在へ至るまでのさまざまなテクストを引用し、コラージュすることで構成された演劇作品である。断片化されたテクストが、5人の俳優たちによって、アクセントや分節、音程やスピードを変幻自在に変化させて発語されることで、意味内容の伝達よりも音響的現前として迫ってくる。とりわけ、冒頭での大日本帝国憲法のシーンが圧巻。暴力的なまでに切り刻まれたテクストが、俳優の身体という楽器によってポリフォニックに奏でられ、戦慄的なまでに美しい。テクストの分裂、複数の声が口々に発語する多重化、詠唱のようにハーモニックな和音の同調性が共存することで、意味が破壊されたテクストの残骸が音響的に空間を漂っていく。あるいは、アコーディオンで、切れ切れの音程で引き裂かれるように奏でられる君が代の旋律の美しさ。
だがこの美しさは、単純な賛美ではない。アコーディオンの奏者は目を頑なに閉じ、両側から支えられないと自立できず、アコーディオンの蛇腹を他者に引っ張ってもらわずには演奏ができない。俳優たちの身体には常に外部からの圧力や負荷がかかっている。重力に抗えずくずおれる身体。あるいは機能不全や麻痺に陥る硬直した身体。それは発語を強要する負荷なのか、声を奪い沈黙させようとする圧力なのか。『CHITENの近現代語』は、空間(観客と今ここで共有する空間、日本語という共有空間、歴史と接続した空間、社会的現実と地続きの空間)に、俳優の身体性と音響的現前によって楔を打ち込もうとする。発語する複数の声たちは、「わたし」/「あなた」の指示的関係の中で幾重にも分裂し、「臣民/国民」として数値化され、「日本語」という言語的共同体の中にいくつものひび割れと異質さを打ち込んでいく。コラージュ素材として用いられるテクストの多様性もまた、祝詞のような大日本帝国憲法の御告文、戯曲の中の会話体、終戦の詔勅、議会での演説といった文体の差異を際立たせるとともに、声の主体のありかを問いかける。国家、国民、固有名を持った個人、「朕」という特殊な一人称……。ここでは、言語的パフォーマンスとその圧倒的な強度によって、言語的共同体の出現とその解体をもくろむことが仕掛けられている。


写真撮影:Hisaki Matsumoto(2枚とも)

2015/04/16(木)(高嶋慈)

村川拓也『終わり』

会期:2015/04/12~2015/04/13

アトリエ劇研[京都府]

2013 年の『瓦礫』に続く、演出家・映像作家の村川拓也によるダンス作品の2作目。出演ダンサーは倉田翠と松尾恵美。
ただし、前作の『瓦礫』と同様、村川自身がいわゆる「振付」を行なったわけではない。村川の演出した演劇作品におけるように、ドキュメンタリー的手法を用いて、出演者自身の身体的記憶を抽出し、再編集し、舞台空間上で再現するという方法が採られている。『瓦礫』では、出演ダンサー3名が普段の仕事で行なっている動作(飲食店のバイト、映画館のスタッフ、インストラクター)が舞台上で淡々と再現・反復されていた。一つひとつの動作の意味は明瞭であり、接客の言葉も口に出されるが、3つの動作が同じ空間に併存して展開され、互いの見え方に干渉し合うことで、具体的な日常の身振りと抽象的なダンスのムーブメントとの境界が曖昧になっていく。同時に、「現実に行なわれている行為(労働)」と「舞台上での再現」との境界も撹乱されていく(現役の介護士が被介護者役の観客に対して、介護=労働を舞台上で身振りとして行なう『ツァイトゲーバー』でも同様の事態が起こっている)。
『終わり』もまた、出演ダンサーの身体に蓄積された履歴を「再編集」してつくられている。ただし、出演者2名が過去に踊った作品から抽出した振付をソースとする点で、『瓦礫』とは大きく異なる。このソースの違いは、当然、作品の質的な差異にも作用する。『終わり』は一見、よく構成されたデュオのダンス作品に見える。だが、『終わり』を見終わって感じたのは、いわゆる完成度とは異なる強度へ向かおうとする意志に満ちていたことである。この強度には二種類ある。ひとつめは、平手打ち、相手の腹を蹴る、全身を使った激しい動き、といった元々の振付自体がもつ強さである。暴力的なまでの肉体の酷使が何度も反復されることで、ムーブメントとしての強度がより増幅されていくのだ。そして二つめが、感情の強度である。とりわけ、前作にも出演していた倉田翠が、『瓦礫』では淡々と反復・再現を行なっていたのとは対照的に、『終わり』では、カーテンコールの際に、精神的な緊張感の持続と解放が入り混じった複雑な表情を浮かべ、涙を見せていたことが印象的だった。聞けば、「過去作品を振付けした時、踊った時に何を考えていたかを思い出しながら踊る」という指示を受けていたという。つまり村川は、具体的な身体の動きではなく、意識を振付けていたことになる。呼び出した記憶を抱えて踊ること、踊ることが感情の強度を高めていくこと。それがフォームとしての反復を凌駕した時、舞台上で起こっていることはリアルな「出来事」へとすり替わる。舞台芸術では、過去に起こった出来事の「完全な再現」は原理的に不可能である。村川の作品は、この不可能性を承認しつつ、虚構の精度を上げてつくるリアリティではなく、「出来事」が起こる一瞬の裂け目に賭けているからこそ、見る者に迫ってくる。そこに、ドキュメンタリーを出自とする村川が舞台芸術作品を手がけることの意義もあると言えるだろう。

2015/04/12(日)(高嶋慈)

西山裕希子「You」

会期:2015/03/28~2015/04/12

Gallery PARC[京都府]

西山裕希子はこれまで、ロウケツ染めの技法を用いて、主に女性像や、女性像と組紐などの紋様を組み合わせた平面作品を発表してきた。今回の個展では、染織をベースにしつつ、「うつす」行為や「トレース」がはらむズレへと作家の関心が移ってきたことが伺える。
この関心の変化は、元々、ロウケツ染めの技法に内在していたものだ。ロウケツ染めでは、「うつす」「なぞる」プロセスが幾重にも介在する。まず下絵をトレーシングペーパーになぞり、布に線をうつし、線の周りをロウでなぞり、ロウとロウの隙間に染料を染み込ませることで、残された隙間が線として顕在化する。こうした何重もの「うつす」プロセスを経ることで、元々の線は微細なズレをはらんでいく。
今回の個展では、ロウケツ染めの平面作品に加えて、銀塩写真をガラスにプリントした作品や、鏡やガラスの映り込みを利用したインスタレーションが展示されている。また、絵画の起源として有名な「恋人の影を壁になぞる女性」の図像を文字通りトレースしたドローイングもある。特に、写真をガラスにプリントした作品では、銀を含んだエマルジョンをガラスに塗って像を定着させる際にズレが生じ、像にわずかな歪みをもたらす。被写体はいずれも光が差し込む窓辺であり、それ自体が透明なガラスにプリントされ、透過光の差し込むガラス壁に置かれることで、天気や時間帯によってさまざまな陰翳の表情を見せ、美しい。
線のトレース、「うつす」行為がもたらすズレ、オリジナルからの距離の増幅、映像を生み出す光源としての光、光の痕跡としての写真、ガラスや鏡への映り込み、反射や鏡像……「うつす」を軸に多様な試みが展開され、インスタレーション空間の中で文字通り乱反射のように響き合う個展だった。過渡的ではあるが、それぞれの分岐が今後、どう展開されていくのかが楽しみである。

2015/04/12(日)(高嶋慈)