artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
上野千紗「mirror」
会期:2015/04/07~2015/04/12
KUNST ARZT[京都府]
本物の植物の種と造花をそれぞれ用いて、生/死、自然/人工の境界の曖昧さを問うインスタレーション。病室に入るように半透明のカーテンをめくってギャラリーの第一室に入ると、植物の種が植えられたプランターが整然と並べられ、人工的な水色をした栄養剤が点滴のようにセットされている。ここは生命を育む場所でありながら、人工的な管理が行き届いた工場か実験室のような無機質さに支配されている。
一方、第二室では、一枚ずつ剥がされた造花の白いバラの花びらに、花言葉が刺繍され、蝶の標本のように並べられている。人工物である造花が、刺繍という手仕事を施すことで、むしろ生き物のような有機的な表情に近づいていく。管理された生/死や人工/自然の境界の撹乱に対する批評性を読み取ることは容易いが、詩的な美しさと相まって、今後の期待値を感じさせる展示だった。
2015/04/11(土)(高嶋慈)
大﨑のぶゆき ─Display of surface─ 「不可視/可視/未可視」
会期:2015/03/31~2015/04/11
galerie 16[京都府]
大﨑のぶゆきが2004年から続けている「Display of surface」シリーズと、制作プロセスの記録映像によるインスタレーション。展示されたキャンバスはいずれも、一見すると白の単色で塗られただけで、何も描かれていないように見える。だが作家によれば、実際には、ワセリンを指に付け、下地の上に手探りで描いているという。今回はカフカの小説『城』の登場人物が描かれているというが、それらは「不可視」の存在に留まっている。
では、指での描画、つまりキャンバスとの身体的接触の痕跡を「可視」化することは、どのようにして可能なのか。手がかりは、傍らに置かれた『城』の文庫本。持ち主が表紙に触れたことが、銀色に浮かび上がった指紋の痕跡によって示される。「Display of surface」シリーズにおける、潜在的な画像をはらんだ表面もまた、犯罪現場での鑑識捜査に用いられる指紋の検出方法を使えば瞬時に像が現われるのであり、あるいは酸化作用などの経年変化によって、何十年か後には自ずと像が顕在化するという。つまり、「不可視」は正確には「未可視」の状態にあるのだ。自然作用による像の顕在化までにかかる時間に耐えうるように、油絵の技法研究者の協力を得て、「表面が剥落せず、100年間もつ絵画」を制作するプロセスが映像で示される。
このように「Display of surface」シリーズでは、可視的なビジュアルイメージではなく、身体との物理的接触によって「表面」で起こる出来事(の痕跡)として、「絵画」は唯物論的に了解されている。その接触の痕跡が未可視にとどまる状態は、むしろ「ネガ」に近く、経年変化によって像が可視化されていくプロセスは、時間が極端に引き延ばされた「現像」と言えるだろう。その「現像」プロセスに、個人の生を超える時間的スパンを持ち込み、それに耐えうる下地を開発する大﨑の手つきは、両義的である。一方では、絵画という制度の「延命」を図りつつも、無造作に壁に立てかけられたキャンバスたちは、ただの白い板というモノにしか見えないからだ。
ポートレートや星座などの描画が水に溶け出し、おぞましさと美しさが同居する崩壊の過程を映し出した映像作品においても同様に、コントロールを手放した「時間的作用」が変容を駆動させる。本シリーズ作とは、イメージの消滅/顕現という点では逆向きのベクトルをなすが、絵具の層の堆積とは異なる「時間の相」と絵画の関係を考えることが、大﨑作品の基層のひとつにあると言えるだろう。
2015/04/11(土)(高嶋慈)
高松次郎 制作の軌跡
会期:2015/04/07~2015/07/05
国立国際美術館[大阪府]
近年、回顧展や書籍を通じて、歴史化への関心が高まっている高松次郎の大規模な回顧展。本展の特徴は、絵画や版画、立体作品に加えて、約280点のドローイングや書籍・雑誌の装丁の仕事など、膨大な紙の仕事を高松の基底面と捉えて展示していることにある。とりわけポイントは、装丁の仕事を除き、「○○のための習作・下絵」といった表記をキャプションに記していないことにある。完成作の下部構造として位置付けるのではなく、その時期ごとの関心に応じて、「影」「遠近法」「単体」「複合体」「平面上の空間」というシリーズ名が冠せられている。また、各シリーズごとに分けられた展示スペースには、絵画や版画、立体作品と紙媒体のドローイングが並置され、同じ空間内に同居する。つまり、署名された完成作品/補完的存在としての習作というヒエラルキーを設けず、一つの関心軸およびシリーズを構成する連続体として眺めるように要請しているのである。
その意味で本展は、約40年の制作活動で膨大に残された紙の仕事の調査を通して、高松の思考の足跡を立体的に再構成しようとする、思考についての思考であり、メタ的装置としての性格を強く持つと言えるだろう。
2015/04/06(月)(高嶋慈)
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
会期:2015/03/07~2015/05/10
河原町塩小路周辺[京都府]
京都駅近くの崇仁地区に展開された、ヘフナー/ザックス《Suujin Park》。フェンスで囲われた空き地が連なる異様な一帯の中に、廃棄された資材でつくられた公園が突如として出現する。フェンスと同じ素材で建てられた仮設の鳥居が異空間への入り口を示す。誘われるままに入り組んだ路地を進むと、取り壊された家屋の廃材で組み立てられた遊具のような建築物が出迎える。植物のプランターが無数にぶら下がる。バーベキューセットも置かれている。巨大な日時計もある。カラフルな三角旗が風にはためき、サーカスのような祝祭性と仮設性を強調する。
公園や広場を想起させるこれらの空間は、公共性へと開かれているようで、一方ではフェンスで囲われ、立入禁止の私有地であることを示す。この奇妙な矛盾が、開放的で楽しげな場に緊張感をもたらす。更地となった空間は、排除や均質化の暴力が背後にあることを匂わせる。権力や資本の介入に、ブリコラージュ的な手法で、打ち棄てられた素材や廃品を用いて抗うこと。ヘフナー/ザックスの《Suujin Park》は、祝祭的空間へと場を再構築しつつ、「場」に対する批評性を展開している。ひとつには、長く差別を被ってきたこの地区の歴史という具体的な場に対して。そしてもうひとつには、「国際展」という文脈に対して。
3つの歌が重なり合うサウンドインスタレーションを鴨川デルタに展開したスーザン・フィリップス、帝冠様式で建てられた京都市美術館の地下に、占領期の米軍による接収を示す資料を展示し、美術館の歴史を帝国主義や日本の戦後史と関連させて示したアーカイブ。これらと同様に、《Suujin Park》もまた、観光地としての消費対象である「京都」を再確認するのではなく、場のはらんだ重層的な歴史を批評的に掘り起こす試みであった。均質化、消費化されていく国際展へのアンチテーゼとしてこれらを提示した点で、PARASOPHIAの開催は評価できるだろう。
2015/04/05(日)(高嶋慈)
mizutama「"Tsumaru - tokoro" the concluding exhibition of "tokoro"」
会期:2015/03/14~2015/04/20
アートスペースジューソー/#13[大阪府]
築60年の2階建木造アパートである新・福寿荘の建物内で、一年間、毎月2日間だけ、計12回にわたって開催された展覧会の集大成。私はこれまでの展示を見ていないが、年間展示で使われた素材や作品は段ボールに詰めこまれ、新たに制作された作品とともに展示/提示されていた。
気になる段ボールの中身は、一部しか見ることができず、しかも無造作に詰め込まれ、キャプションもないため、雑多なガラクタ類にしか見えない。というのは、mizutamaのつくる作品は、日常的な既成品を素材に、特別な技術も用いず、作為と無作為のあいだでたよりなく行き来するようなものだからだ。例えば、固形物と液体に分離されたマヨネーズ。第三者が何かを思い出すまでに口走った、脈絡を欠いた断片的な言葉の羅列。トーストをコピー機にかけて、「○枚切り」の数だけカラーコピーを取り、「エディション」として提示したもの。窓の外では、バケツの底に薄く張られた水の上に、表面張力で浮かんだプラスティック容器が、風に揺られて水面をスーッと滑っていた。「コンセプト」「ステートメント」の類はなく、作品同士の関連性も不明瞭で、ぶっきらぼうに投げ出されている。ただ、その水面に浮かんだ容器がスーッと生き物のように動いた瞬間には、何か心を動かされた。
日常的な素材の使用、スタイルの非統一性、技術の放棄、作家名と相まっての匿名性。とりわけ匿名性ということで私が想起したのは、昨年末に京都芸術センターで開催された「Stolen Names」展だった。この展覧会の挑発性は、「作品に関わるおよそすべての情報(あるいは手がかり)が盗まれた状態にある」として、作品名も作者名も非公表にし、ただ作品だけが提示された状態を提示したところにある。「盗んだ」のは誰か。なぜ「盗んだ」のか。一部が黒く塗りつぶされ伏字になった文章、紛争地帯の兵士と迷彩服のファッションモデルの写真を重ね合わせた作品、顔も名前もお互いに出さずに伏せたまま、Ustreamでしゃべり合うプロジェクト。もちろんここには、思想弾圧、言論統制への同時代的な危機感と抵抗の意志があるだろう。だが、そうした政治的な態度表明とは別に、「展覧会を見に来た観客に対して、私たちは情報を提供しているのではありません」という意志も感じ取れる。言語的情報は、視覚物としての作品を補い支える存在であるが、あえてそれらを一切取り払うことで、「情報の摂取がいかに普段の鑑賞体験に組み込まれているか」「それがいかに無意識化しているか」「見る導線が予めつくられてはいないか」といった問いを逆説的に浮かび上がらせる。賛否両論あるだろうが、この展覧会が投げかける問いには、一考の価値があるだろう。
2015/04/05(日)(高嶋慈)