artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
山下残『大行進、大行進』
会期:2015/04/03~2015/04/05
アトリエ劇研[京都府]
2010年初演の山下残の作品『大行進』を、山下自身と司辻有香(辻企画)との2バージョンとして連続上演する試み。舞台上を本物の線路が横切り、美術家カミイケタクヤによる粗大ゴミ捨て場か災害現場のような不穏な空間が広がる。
散乱したガラクタを一つ一つ拾い上げ、「熊」「リス」、「鳥がさえずる」といった単語や短文を発語するも、「なかなかダンスが生まれませんね~」とつぶやく弛緩した時間。空間内を探検し、手触りを確かめながら、モノや身体の動きを名指そうとする行為が反復され、速度を増し、ズレを生み出すうちに、言葉から乖離していく身体の動きが暴走的な様相を呈し始める。「右手、左手」「あれ、左手?右手?どっちだっけ」「小さく回して、大きく回して、ふくらんで」「小さく回して、大きく回して、ふくらんで、ドドドドライブ?」「ドドドラ、僕ドラえもん」。反復は一つの強度をもたらす一方で、意味を宙吊りにして解体し、言葉と身振りの乖離を増幅させていく。残骸のように漂う身振りと言葉のズレ、その破綻がダンスを瞬間的に駆動させる呼び水となる。
断片的な言葉を羅列しながら、フラフラとあてどなく歩き回る、ユルく脱力した時間と、発語した言葉と身体の動きのズレが増幅し、回路が暴走し、運動の密度を増していく時間が、交互に訪れる。弛緩と瞬間的な爆発。その中に、ゆらゆらと揺らめかせた手のひらの動きを「チョウチョ」と呼ぶ美しい一瞬も、梯子に上って高所に吊られた電球を「月」と呼ぶ自由な見立て遊びの時間も、「大洪水、大行進、大震災、大火災」というフレーズを繰り返し叫びながら両足を踏み鳴らし続ける狂気じみた時間もある。ここは自由な遊び場でありつつ、「大洪水、大行進~」のリフレインや「空から爆弾」といった強いイメージ喚起力を持つ言葉によって、大破壊が起こった後の廃墟へと変貌される。
このように本作は、作品内における反復・リフレインが特徴的だが、今回の上演においては、上演の構造それ自体がもう一つの反復性をはらんでいた。タイトルにある「、」の意味するところである。出演者の異なる2バージョンをなぜ連続上演したのか。名目上は「舞台技術スタッフの育成を目的としたワークショップ公演」を掲げているが、空間構成の違いと出演者の身体的差異(男性/女性、年齢、ダンサー/演出家・俳優、など)を伴って、2回繰り返して上演された『大行進、大行進』は、図らずも、舞台芸術作品の上演=反復なのか?という原理的な問いを提出していた。
2015/04/04(土)(高嶋慈)
Site Specific Dance Performance #4
会期:2015/03/29
2009年から過去3回にわたり、神戸ビエンナーレ関連企画として兵庫県立美術館の屋外大階段で開催されてきた本企画。場所の特性を生かすサイト・スペシフィックな試みとして、ダンス作品の上演を行なってきた。今回は、元・具体美術協会の向井修二による記号アートで埋め尽くされた屋外円形劇場と、館内ホールにて計5作品が上演された。
屋外円形劇場という場所性がうまく作品の魅力を引き出していたのが、サイトウマコトと関典子のデュオ作品『鞄女』。円形舞台の背後は壁がなく、外に開かれているため、観客は、舞台上のダンサーとともに、背後の遊歩道やその先に広がる海を視野に入れながら鑑賞することになる。歩道から、大きな鞄を抱えた男(サイトウマコト)が現われる。鞄は生き物のように動き出し、中から腕が現われて雄弁に語り出し、やがて女(関典子)の全身が鞄の中から出現する。どこか無関心そうで寂しげな男を誘惑し、突き放し、翻弄する妖艶な女でありつつ、かと思うと初めて世界に触れるような瑞々しい仕草で駆け回る少女にも変貌する。関の優れた表現力と身体的技術が発揮され、外の歩道と半ば地続きの屋外という状況も相まって、日常の光景がふとした瞬間に官能的な夢幻の世界にすり替わったような印象を与えた。
また、館内ホールでの上演で興味深かったのが、冨士山アネットの『Attack On Dance/Short Ver.』。バレエ、モダンダンス、ジャズダンス、コンテンポラリーダンス、ヒップホップなど異なるダンス経験を持つ若いダンサー10名に対して、ダンスに関するさまざまな質問を投げかけていく、レクチャー形式のダンス作品である。ダンスを始めた年齢、経験したダンスの種類、出演した作品数、師匠の数など、答えの数値順に一列に並ぶ(並ばせられる)ダンサーたち。また、「観客がいなくてもダンスは成立すると思うか」「ダンスに師匠は必要か」「社会的な問題を扱った作品は苦手か」といった質問が投げかけられる場面では、舞台を二分するYes/Noのどちらかを選択しながら、ダンサーたちが双方を行き来する。質問とそれへの反応は面白く見つつも、多様な価値観や身体経験を数値化・二極化しようとするような還元的な暴力性も同時に感じてしまった。ラストでは、ノリノリの音楽がかかるなか、全員一斉にそれぞれが自分のソロ作品を踊るのだが、「独自性や個性を尊重しています」という言い訳にも見えてしまう。むしろ見せられていたのは、用意された質問という枠組みのなかで動かされ、右往左往するダンサーたち=振付された身体ではなかったか。
2015/03/29(日)(高嶋慈)
國府ノート 2015
会期:2015/03/17~2015/03/29
アートスペース虹[京都府]
昨年、急逝した現代美術作家、國府理が遺した制作ノート、図面、ドローイングなど、紙媒体の資料が遺族の協力を得て展示/公開された本展。初期作品のプロペラ自転車の展示に加えて、計20冊に及ぶノートは、一部がファイルに収められて実見できるほか、スキャンされた画像データの状態でも見ることができる。90年代半ばに関わったソーラーカーのプロジェクトに関する詳細な設計図や各種パーツの図面もあれば、アイデアを描きとめたドローイング、チラシの裏に落書きしたバイクやクルマの絵も大量にある。國府の作品は、自動車や自転車、パラボラアンテナなどの機械に手を加えて、想像上の乗り物や植物が自生する装置として作り変えることで、乗り物=移動手段がかき立てる夢の世界とテクノロジーへの批判が同居するような性質を持つが、今回展示されたノート類をめくっていくと、バイクや自動車など乗り物への愛と豊かな想像力をベースに、常に手を動かしながら考え、イマジネーションを具現化するための精密な設計図面を描くエンジニア的側面を持ち合わせていたことがよく分かる。國府の作品は、機能を取り去られたオブジェではなく、実際に稼働可能であるものも多いからだ。
本展の後に見た「高松次郎 制作の軌跡」展も、「作品」として公開される以前のドローイングや紙の仕事を多数展示したものであったが、本展もまた、作家の思考の足跡が多角的に浮かび上がる貴重な機会だった。ただこれらは「完成作」として公開を前提に描かれたものではないため、とりわけ作家の死後は、誰がいかなる基準でどのように管理するのかが問題になる。もちろん作家の研究資料としての価値はあるが、例えば、捨てられてしまうようなチラシの裏の落書きを保管するか/しないか、どこまで公開するかの選択は、誰のどのような判断に基づくのか。残された資料を読み解き意味づけるのは歴史家の役割だが、アーカイブは潜在的に(複数の主体の)価値判断の問題をはらんでいる。
2015/03/28(土)(高嶋慈)
山本聖子「白い暴力と極彩色の闇」
会期:2015/03/03~2015/03/22
Gallery PARC[京都府]
山本がレジデンスで滞在したメキシコ(2013~2014年)とオランダ(2014年)での経験に基づく映像作品によって構成された個展。異文化圏で生活するなかで、個人的、文化的、国家的アイデンティティの均質性と雑種性について、言葉とイメージで考察した「ドローイング(思考地図)」が冒頭に展示されており、個展タイトルに込められた色の象徴性や各作品の構想を読み解く地図として興味深い。
《darkness》では、メキシコの祝い事に用いられる極彩色の紙吹雪が、水槽の中に入れられ、水に溶け出した色彩が、色とりどりの美しい軌跡を描きながら、徐々に混ざり合って茶褐色の濁りになり、最終的にはすべての色を溶かし込んだ黒へと至る過程が映し出される。それは、極彩色の花びらが舞い落ちる散華のような美しい光景でありながら、多数の異質な存在が混じり合い溶かし込まれていくプロセスでもあり、個人的身体と国家のレベルの両方で混血性を抱えた混沌を示唆する。
一方、《unconscious》では、白い防護服とマスクを身に付けた人間が、枯山水の庭園の中に白い石膏像をいくつも設置し、白く塗られたベニヤ板で像を覆っていく過程が映し出される。「白」という色彩は、無垢、純粋、清浄といった意味合いを連想させ、穢れを清める色でもあるが、ここでは特に異質な他者を排除して均質化していく「暴力」の表徴として用いられている。また、白砂や枯山水といった設え、土下座という身振りの反復における儀式性は、「日本」という文脈を否応なく連想させるとともに、防護服とマスクを付けた人間が何かを黙々と「覆っていく」「見えなくしていく」作業は、明らかに3.11以降の日本社会へ向けられた批判が込められている。
黒い闇の中に、無数の差異が潜在して成り立っていること。一方、異質な存在を排除して成り立つ「白」が暴力をはらんでいること。山本の映像作品は、両者がはらむ不可視化の力学と共同体の生成を凝視するよう、迫ってくる。
2015/03/21(土)(高嶋慈)
川村麻純「鳥の歌」
会期:2015/03/07~2015/05/10
京都芸術センター[京都府]
前作《Mirror Portraits》では、インタビューを元に、映像による立体的なポートレートを制作し、母娘や姉妹といった女性同士の関係性に焦点を当て、個人の記憶や家族という親密圏について考察した川村麻純。本個展では、第二次世界大戦前後に生まれた日本人と台湾人の夫婦に着目し、インタビューや調査で聞き取った個人史を通して、日本と台湾の歴史を再考している。片方の展示室では、リサーチやインタビューの過程で収集した写真や地図、資料が展示され、もう片方の展示室では、6名の女性に行なったインタビューを元にした映像が展示されている。
ここで奇妙なのは、最初の展示室に置かれた写真や資料が指し示す時代と、結婚式や台湾での家庭生活について語る女性たちの年齢との落差である。彼女たちは30代~中年の女性であり、資料の示す時代に台湾で結婚したとは考えられない。実際には、映像内の女性たちは当人ではなく、いまは高齢であろう女性たちが語った個人史を、カメラの前で「語り直し」ているのである。こうした川村の手つきは、一見両義的である。リサーチやインタビューを行なって過去を丁寧に検証しつつも、本人のインタビュー映像をそのまま用いることをしない。つまり、本人の語る映像が不可避的にはらむ「当事者性」を手放しているのであり、それを自作品の「正しさ」として占有化していない。非当事者による「語り直し」の行為は、フィクションとの境界線を曖昧化していく。
このことはまた、過去を思い出して語ること、「過去の想起」という行為が、常に現在の視点からによるものであり、(意識的にせよ無意識にせよ)なんらかの編集や書き換えを含み込まざるを得ない、揺らぎを伴うものであることとも関係している。川村の試みは、日本と台湾の歴史的関係性、移民と個人のアイデンティティ、家族、ジェンダーといった問題を提起しつつ、演劇的手法と映像という媒体を通して、「真正なドキュメンタリー」の不可能性を提示している。
2015/03/14(土)(高嶋慈)