artscapeレビュー
きりとりめでるのレビュー/プレビュー
竹久直樹「スーサイドシート」
会期:2022/04/29~2022/05/22
デカメロン[東京都]
アーティ・ヴィアカントの《イメージ・オブジェクト》は、物理展示よりウェブサイトに掲載された作品写真の価値を高めるという転倒を起こした作品であり、ほとんどの人は記録写真しか目にすることがないなら、記録写真を作品にする方がいいという2010年代前半のイメージ論でもある。このとき、記録写真にとどまらないイメージはもうひとつのオブジェクトとして鑑賞者に提示されるのである。
展覧会「スーサイドシート」は、運転ができない作者の竹久直樹がロケでいつも車の助手席に乗るところに由来する。事故で真っ先に死ぬ席に乗るにつけてマクドナルドに寄り、帰ってはマクドナルドに寄ることが写真で、モニターではスマートフォンで写真のログを見直す様子の録画が流れる。モニターには、積み込み報告の写真、行き先のGoogleマップ、メモ用の写真。さまざまな用途の写真が流れる。たまにピンチインされる写真は、映り込んだものに対する撮影者の驚きや記憶を手繰り寄せたい様子を示す。マウスと同じサイズのミニカーは、ミニカーであると同時に「アエラスプレミアムらしきもの」であるがゆえに、あなたの背後にあるアエラスプレミアムのフロントの写真のようなものでもある。写真は死と指標性と偶発性によって語られてきたわけだが、車も竹久を死に近づける。その車の写真も実物も竹久にはいま同じに見えているのかもしれない。自作の前提となることを展示するにつけて、車を見ていたら写真は見えないし、写真をじっと見ていたらモニターも車も見えないインストール。それぞれは視界で交わることがないが、等質のものとして設置される。
《イメージ・オブジェクト》がオブジェクトよりもイメージにアウラを見出しうる時代の宣言だったなら、竹久はイメージもオブジェクトもシミュラークルも等価だ、あるいはすべては事故が起こる写真なのだと発したといえるだろう。もっと被写体と事故が選定された時代を語り得るものも今後見たい。写真の実在論としてのメメントモリ、indexの指示性と指標性、プンクトゥムとストゥディウムの往還、使用における身振り。これらとイメージ・オブジェクトを物差しにすることで、現在的な個人の写真のリアリティをさらりと示した展覧会で、面白かったです。
デカメロン/TOH「新宿流転芸術祭」:https://www.shinjukurutengeijutsusai.com/
2022/05/04(水・祝)(きりとりめでる)
COLLABORATION─TRANS BOOKS×GINZA TSUTAYA BOOKS
会期:2022/04/04~2022/05/08
銀座 蔦屋書店[東京都]
「TRANS BOOKS」は2017年の11月3日の開催を皮切りに、過去にイベントスペースで3回開催され、2020年からはインターネット上で「TRANS BOOKS DOWNLOADs」を開催し続けているブックイベントだ。2022年4月から5月にかけては「銀座 蔦屋書店」とのコラボレーションフェアが開催された。
中心的な企画者はアーティスト/ディレクターの飯沢未央、ウェブデザイナーの萩原俊矢、グラフィックデザイナーの畑ユリエであり、彼らの領域が混在することで、短期的なイベントながらひとつの生態系を育んできた。それは雑駁に「2010年代後半から現在にかかる日本語圏のメディアアウェアなプレイヤーたちの祝祭」とまとめることができるだろう。企画者のオファーで集うことになった、「本」だからできることを模索してきたものたちの出版物と、ある媒体固有の表現に注力してきた者たちによる「本」の新作が、一斉に陳列される。こういったきっかけ、舞台としてTRANS BOOKSは出展者も読者も魅了してきたのである。
即売会の醍醐味のひとつにつくり手との対話があるが、TRANS BOOKSに商品個別の売り子は存在しない。開けた空間に整然と本が並ぶさまは、Village Vanguardとは真逆ともいえるし似ているともいえる。「本」の傍らには同じフォーマットのキャプションが添えられていて、内容はGoogle formで企画者から投げかけられた問いに出展者が書き送ったものだ。キャプションは同時にすべてハンドアウトに掲載されていて、「本」を手に取らず買わずとも、展覧会のように本をブラックボックスのごとく鑑賞することができる。ただし、欲しいものがあれば店員さんに会計を頼む。これがTRANS BOOKSだ。
今回、「本」のブラックボックス化は極に達した。フラッグで「形式」を問いながら、同じデザインの箱に作家名と作品名と短い説明が書かれた本がぽつんと置かれている。箱のサイズは展示台の大きさから逆算されたかと思わしきフィット感。「箱」をいざレジカウンターに持っていくと、店員さんが名刺サイズのハンドアウトのような紙をくれ、箱はもらえない。もちろん、この強固なフォーマットは情報にだけ施され、出品作自体を抑圧するものではない。差異を顕在化させるための規格化と斉一の問い。いままでのイベントと比べれば小規模だが、TRANS BOOKSが貫いてきた姿勢が凝縮された出店だったといえる。TRANS BOOKSは問いに徹してきた。ただし、問いへの多様な答えがどこでも展開できるほどに、問いのフォーマットを洗練させてきたブックイベントなのである。
公式サイト:https://store.tsite.jp/ginza/event/architectural-design/25208-1546330303.html
2022/05/04(水・祝)(きりとりめでる)
新・今日の作家展2021 日常の輪郭/百瀬文
会期:2021/09/18~2021/10/10
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
「わたしはあなたの個人的な魔女になる」。
百瀬文の映像作品《Flos Pavonis》(2021)で、遠く離れた地の知人に堕胎効果のある花を持って行こうとしたときに発せられたこの言葉を聞いたとき、自分自身のかつての経験について、まったく折り合いをつけられていなかったことがわかった。私と彼女が何を求めていたのか、そのとき、何に脅かされていたのかがわかっていなかったのだ。私が処置を提案した子が産まれ、祝福されるさまを見ていて、自己愛の強要でしかなかったかと思うと同時に、そのときに実は選択肢がなかったことを思い出す。「魔女になる」の一言がどれほどの具体的な救いであるか。船の上で堕胎手術を行なう団体の実際的な救済とはまた別に、この思想の伝播もまた救済である。
《Flos Pavonis》で女が強姦者の身体を反転させ馬乗りになり、自らの唾液でぬらした指を相手の口に押し込み、逃げる強姦者を目にした鑑賞者にとって、例えば「手籠め」という曖昧な言葉はどのような意味になりうるか。他者を圧倒的にあるいはうやむやに制したうえでの行為である。相手の自由を奪い、自己決定を無視することができる上で達するのだと提起される。そして、この地平から堕胎罪の存在を考えなくてはならないと。
本展で同時に展示された過去作《山羊を抱く/貧しき文法》(2016)。ヤギの空腹を待てば、百瀬は食紅で描いた絵をいつかヤギに食べさせることができるが、ヤギは顔をそむけ食べようとせず、百瀬との攻防が続く。百瀬がヤギを手籠めにせんとするときと、その紙を自分で食べると決めたとき。その二つの挙動が収められた作品の隣で、身体の自由を示そうとする百瀬。5年を経て、主題そのものでなく、その露悪性の経路が大きく変化したようだ。
公式サイト:https://ycag.yafjp.org/exhibition/new-artists-today-2021/
2022/05/01(日)(きりとりめでる)
NITO10
会期:2022/04/08~2022/05/05
アート/空家 二人[東京都]
京急蒲田駅の近くの住宅街に、「ここ」と黒テープがべりべり貼られた一軒家、スペース「アート/空家 二人」がある。このスペースは勝ち抜き戦のような展示「NITO」を続けていて、今回で10回目。スペースの代表でアーティストの三木仙太郎が作家に声をかけて、初回展示の作家は1万円の作品を出展する。2回目の展示では2万円の作品を出展。その作品が購入されたら3回目があり、そこでは4万円の作品を出展することができるが、2回続けて売れなかったら卒業。良作が並ぶ。
iPhone13のカメラに搭載された「シネマティックモード」の浅い被写界深度のビデオ撮影を用いて、appleがアプリの達成として謳う、事後的に付与可能な「芸術的なフォーカス」で映像への陶酔や没入を疎外しつづける迫鉄平の映像作品《シネマティックモードノート》。
水質汚染に外来生物の増加に温暖化。環境問題の縮図ともいえる琵琶湖をめぐる市民活動や、固有種の魦(いさざ)の大量死とその環境の改善を、(市民運動を象徴し訴求力たりうる)リトグラフ、クロモカード(19世紀後半から、無料で配られていた版画広告カードを模した「いさざ」のふれこみ)と映像(Youtuberによる投稿動画の平均的な長さ、全編で不可能性のスリルを煽る)で扱う松元悠のシリーズ。3種の媒体で与えられる情報の質感の差は巧みだ。
このスペースの展示条件は多重に制作上過酷であるが、作家たちの適度な実験場として機能していることを願う。制作者側からしたら作品の商品化に向き合うスペースであり、来場者からしたら現代美術作品は商品であると自分の家を想いながら作品を観られるスペースであることは間違いない。
公式サイト:https://nito20.com/#about
2022/04/23(土)(きりとりめでる)
開園40周年記念「写真で紡ぐ、思い出の中の動物園」
会期:2022/03/19~2022/06/12
横浜市立金沢動物園[神奈川県]
黑田菜月が企画した展覧会会場に到着した。机と椅子、自販機、トイレ、ながし、掲示板があるだけのこぢんまりとした金沢動物園の休憩所に、木製の展示壁とモニターが鎮座する。仮設壁には、動物園の開館以来のユーザーたちがその思い出のメモ書きと写真を寄せていた。映像では飼育員や愛園者が写真を見つめながら黑田のインタビューに答えている。
1982年3月17日に職員5名で部分開園してから40周年を迎えた金沢動物園の記念企画。年表の横と裏に並ぶ100通を超える来園者の物語とそれに対する飼育員の短いコメントは、日常使いされつつ多くの人々が大事にしてきた園の軌跡を描いていた。人間でいう2世代に相当する40年分の想いの丈が綴られる写真のキャプションには、動物と人間の成長と死と感謝にまつわる言葉が衒いなく書かれていた。金沢動物園はある種の動物が死んだらその種が交代で来る園ではない。うっかりすると、そのこが園にいたことを忘れてしまう。でも写真があれば大丈夫。いやでも、その写真を見返さなかったら?
このイベントは、愛園者による園への謝辞であり、家族写真の再編纂の場であり、親しきものや飼育動物への鎮魂の吐露の場になっていた。死を想うのではなく、たったいまの様子を伝えるような、視覚的発話としての写真(ダニエル・ルビンスタイン)というのは、SNSのプラットフォーム設計の結果、目にする機会が増えただけで、写真が想起のよすがであることは変わらず続いている。それがよくわかる。
インタビューは「写真映像で紡ぐ思い出の動物園」と写真に打ち消し線を入れてクレジットされている。ふと、映像もたくさん残っているに違いないと思い至る。しかし、映像の40年は記録媒体やフォーマットが多岐にわたり、コンバートも困難だ。その一方で、写真の出力は容易だ。この伝達の簡便さはいま写真の長所なのだろう。本展は「写真を見返すきっかけ」として何重にもわたしの胸を詰まらせた。映像はYoutubeでも視聴可能。
関連レビュー
「約束の凝集」 vol. 3 黑田菜月|写真が始まる|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年06月01日号)
2022/04/17(日)(きりとりめでる)