artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
創刊記念『國華』130周年・朝日新聞140周年 名作誕生—つながる日本美術
会期:2018/04/13~2018/05/27
東京国立博物館[東京都]
東近の「横山大観展」に続いて東博の「名作誕生」内覧会へ。サブタイトルどおり「つながる日本美術」だ。それにしても会期がまったく同じで、会場もどちらも国立の施設。主催は前者が日経と毎日の相乗り、後者が朝日系列と異なるが、なにか申し合わせでもあったのか。「名作誕生」の頭には「創刊記念『國華』130周年・朝日新聞140周年」と冠してある。『國華』とは大日本帝国憲法が公布された1889年、同じ年に東京美術学校(東京藝大の前身)を開校した岡倉天心らによって創刊された日本美術専門誌。現在は朝日新聞社が発行しており、現役の美術雑誌では世界最古ともいわれ、値段も5千円(特別号は7千円)+税と高い。
そんな『國華』の編集委員と東博の研究員によって構成された展覧会、というと退屈に聞こえるかもしれない。たしかに退屈だ、とくに似たような仏像や仏画がズラリと並ぶ第1章「祈りをつなぐ」は。ところが第2章になると、雪舟と中国絵画、宗達と鎌倉絵巻、若冲と狩野探幽などを比べて、模倣・転写・再利用の作例を暴き出している。こうした巨匠たちのサンプリングやリミックスは、専門家筋には常識でも素人衆にとってはとても新鮮だ。まあそんな難しい話は抜きにしても、雪舟の《四季花鳥図屏風》、若冲の《仙人掌群鶏図屏風》、等伯の《松林図屏風》、あるいは《風俗図屏風(彦根屏風)》や《誰が袖美人図屏風》など、国宝・重文級の作品が見られるだけでも価値はある。最後に、いささか唐突ながら、岸田劉生の《野童女》が伝顔輝《寒山拾得図》と、《道路と土手と塀(切通之写生)》が北斎の《くだんうしがふち》などと比較展示してあり、なぜ劉生の2点だけ近代以降で出ているのか理解しにくい。たしかに劉生は日本の古美術にも精通していたが、古典とのつながりをいうならそれこそ大観を持ってくればよかったのに。そこはいろいろ大人の事情があったのだろう。
2018/04/12(村田真)
生誕150年 横山大観展
会期:2018/04/13~2018/05/27
東京国立近代美術館[東京都]
横山大観といえば近代日本を代表する画家であり、国民画家といっていい。なんてったって明治元年の生まれだから、近代日本の申し子みたいなもの。明治、大正、昭和の前半まで日本の近代とともに歩み、日本画という形式を確立させた功績は大きい。展覧会の構成も「明治」「大正」「昭和」と単純明快な分け方だ。絵そのものもわかりやすい。たまに《屈原》のような、逆風に立たされた師匠・岡倉天心の苦しい心を暗示したような「読む絵」もあるが、あとは富士にしろ桜にしろ四季の風景にしろ、見たまんま、なんの裏もない。
驚いたのは、76年ぶりにハレー彗星が地球に近づいたときにしっかり《彗星》を描いていること。また外国に行けば、ナイアガラの滝や万里の長城を六曲一双の金屏風に仕立ててもいる。グローバルというより節操がないのかもしれない。これは芸術家にとって重要な気質だ。全長40メートルを超す《生々流転》などは、長大さで目を引こうというスタンドプレイだろう。その最たるものが、戦時中の1940年に描かれた通称「海山十題」の連作だ。皇紀2600年を記念して大観が得意とする海と富士山の絵を各10点ずつ制作し、それぞれ日本橋の三越と高島屋で展示即売。その売り上げ金50万円で4機の戦闘機を購入し、海軍と陸軍に2機ずつ献納したというのだ。当時は戦闘機など消耗品だから(乗組員はさらに消耗品だった)それで戦況が変わったということはないけれど、大観の行為は戦時下における芸術家の模範的役割を示すと同時に、国民に対する愛国精神のアピールにもなったはず。今回はそのうち7点が出ている。まあ残された作品より、近代日本の広告塔としての役割のほうが大きかった画家ではないかと思った。
2018/04/12(村田真)
写真都市展 ―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち―
会期:2018/02/23~2018/06/10
21_21 DESIGN SIGHT[東京都]
ウィリアム・クラインは「20世紀を代表する写真家」で、「写真、映画、デザイン、ファッションのジャンルを超えた表現と、ニューヨーク、ローマ、モスクワ、東京、パリなどの世界の都市を捉えた作品で、現代の視覚文化に決定的な影響を与え」たそうだが、どこがいいんだかピンと来ない。でも展覧会は評判がいいので行ってみたら、クライン以外の日本人の作品が展示構成も含めてとても刺激的だった。
たとえば安田佐智種の《Aerial》は、超高層ビルなどの高所から都市の俯瞰写真を何百枚も撮り、撮影者の足元が消失点(そこだけ白く抜けている)となるように組み合わせた放射状の風景写真。《みち(未知の地)》は、東北の被災地の家が建っていた跡を歩きながら真上から撮影し、つなぎ合わせたもので、どちらも作者の拠って立つ足元を意識させる。西野壮平も都市の断片を歩きながら何千枚も撮って組み合わせ、再構築しているが、こちらは多焦点的で時間軸も組み込んだ未来派的写真といえる。勝俣公仁彦も、同じ場所から異なる時間に長時間露光で撮影した写真を組み合わせたシリーズを発表。静止画像が積層されて時間を与えられ、都市が動いているように感じられる。
彼らは写真を、1点の固定した場所から切り取った一瞬のイメージという既成観念から解き放ち、それこそ都市生活のなかでいつも感じているような多焦点的、持続的な経験を濃密に味わせてくれた。展示方法もすばらしい。仮設壁ならぬ太い仮設柱に展示したり、台の上面に貼りつけたり、印画紙の四隅を天井から吊るして宙に浮かせたり、あえて引きのない狭い通路の両側に大作を展示したり、多彩な写真に見合った多彩な展示で見る者を飽きさせない。満足して帰ろうとしたら、窓から藤原聡志の超巨大な画像が、まるで布団でも干すように垂れ下がっているのが見えた。唐突感がすばらしい。
2018/04/11(村田真)
Re又造
会期:2018/04/11~2018/05/05
EBIS 303 イベントホール[東京都]
近ごろ大きな展覧会に行くと、目玉作品の絵を映像化して動かしたり、立体化したりする例が増えている。昨年の「ブリューゲル『バベルの塔』展」では、映像によって塔で働く人たちを動かしてみたり、塔を高さ3メートルを超える立体に再現してみたり、漫画家の大友克洋が塔の内部を想像で描いてみたり、一昔前にはありえないような試みをやっていた。なぜ一昔前にはありえなかったかというと、ひとつは技術的問題があるが、これは単純にCG映像の発達・普及によってクリアされる。もうひとつは著作権も含めた倫理的問題で、果たして世界的に価値ある芸術作品を現在の解釈で勝手に動かしちゃっていいのか、所有者は許可するのかといった問題がついてくるからだ。でも時代は確実に、そんなカタいこといわず、見て楽しければいいじゃんという方向に流れている。そんなわけで、展覧会の名画は少しずつ動き出している。
「Re又造」は、日本画家の加山又造を紹介する展覧会だが、フツーの展覧会を期待して行ってはいけない。作品は32点だが、原画は11点、つまり3分の1程度で、あとは版画、特殊印刷、陶板、そして映像なのだ。原画はまともに展示しているものもあるが、あえて照明を落としたり、妙な小細工でインスタレーションしているものもあって、まあ楽しめることは楽しめる。んが、絵画とはそれだけで成り立つように描かれているわけで、その上に演出を施すというのは余計なお世話というか、作者に対して失礼ではないかとも思う(もちろん親族の了承を得ているが)。六曲一双の大作《火の島》などは原寸大で映像化し、赤を基調とする山肌や雲をゆっくり動かしていた。たしかにすごい迫力だが、これを見た後で原画を見たらがっかりするかもしれない。山と波と月を描いた《春秋波涛》は、それぞれの図像ごとに3枚に分解し、距離を空けて重ね、立体的に見せている。これはもう原画とは違う作品として見たほうがいい。大きな部屋の天井には巨大な天井画《天龍寺雲龍図》の原寸大複製が張ってあるが、天井画は持ってくることができないのでこの複製は正しい使い方だ。最後は黒い薔薇模様のレースをまとった4人の女性ヌード像《黒い薔薇の裸婦》。なんと女性たちが艶かしく動くのだ。ちょっとやりすぎではないかと思ったが、よくも悪くもこれが展覧会の未来像なのだ。単なる「加山又造展」だったら見に行かなかっただろう。いろいろ考えさせられる、そして、はっきりいって楽しい展覧会だった。
2018/04/11(村田真)
あおいうに個展 公募落選展
会期:2018/04/02~2018/04/14
アートラボ・トーキョー[東京都]
心に病を抱えたいわゆる「メンヘラ」のアーティスト。作品は絵具の滴る人物画や抽象画で、ひょろひょろと線が伸びていたり余白が多かったり、わりとだれが見てもビョーキかなと思ってしまう絵だ。今回は公募展に落選した作品を出しているというので見に行った。「落選展」といえば、1863年のサロンに落選したマネやホイッスラーらが集まって開いた展覧会が有名だが、今回は複数の公募展に落選したたった1人の落選展。だいたい落選作は不名誉なことなので公開されない場合が多いが、彼女によれば、自分の作品は子供みたいなものだから暗い場所に置いておかず、日の当たる場所に出してあげたいというのが親心、というわけだ。公募展に応募したものだけに大作が多いが、小品の方がずっと魅力的に映るのは、それだけ自由に描いている証だろうか。
2018/04/05(村田真)