artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

ゴードン・マッタ=クラーク展

会期:2018/06/19~2018/09/17

東京国立近代美術館[東京都]

ゴードン・マッタ=クラークというと、パリの建物を円錐形にくり抜いた《円錐の交差》が知られている。ちょうどポンピドゥー・センターが建設中だったときで、再開発で取り壊される前の建物を使ったのだ。ほかにも、建物を真っ二つに切断した《スプリッティング》、ゴミを固めて壁をつくる《ごみの壁》、当時流行り始めたグラフィティを撮影して着色した《グラフィティ・フォトグリフス》、食を通じて交流を目指す《フード》など、すでに70年代に先駆的な活動を展開。その後のサイト・スペシフィックなインスタレーションやストリート・アートやコミュニティ・アートやソーシャリー・エンゲイジド・アートなどに道を開いたといっても過言ではない。意識したかしないかに関わらず、川俣正もPHスタジオも殿敷侃も中村政人もChim↑Pomもその影響圏内にあるのだ。

でもそのわりに知られてないのは、彼の作品がモノとして残らないこと、そして、78年にわずか35歳で病死したからだ。亡くなる前に、自分は有名じゃないから作品はすべて処分してくれと遺言したらしいが、遺族は処分しなかった。もし処分していたらその後の美術の流れは変わっていたかもしれないし、こんな極東の国立美術館で紹介されることなどありえなかっただろう。とはいえ、残されたものはスケッチや記録写真、ビデオ映像、使用した建築の断片などで、いかにも作品然としたものはほとんどない。今回の回顧展では、仮設壁を立てたり鉄パイプを組んだりフェンスを張ったりしたなかに、こうした記録や作品の断片をいかにも雑然とした感じで並べていた。まるで「工事中」で、マッタ=クラークにはまったくふさわしい。

そもそも都市を舞台にした活動を美術館で見せることを、マッタ=クラークは望んだだろうか。望んでいなかったから遺品を処分してくれと頼んだのではないか。そこは矛盾しているが、矛盾を抱えていたほうが展覧会としては刺激的になる。だいたい都市と美術の関係なんて矛盾しているし、それ以前に美術館の存在自体、矛盾の固まりではなかったか。みたいな、自爆的な展覧会。

2018/06/18(村田真)

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統制と日常 阿部剛士 博覧展vol.1

会期:2018/06/15~2018/06/25

LAUNCH PAD GALLERY[神奈川県]

円形と正方形に収まるように数千の数字をびっしり印字したウォール・ドローイング。一見ランダムに見える数字の配列だが、0123あたりが多いのでなにか意味があるのではと思ったら、ため込んだレシートの数字のみを抽出したものだそうだ。銅版画もあって、こちらはレシートサイズで数字の並び方もレシートと同じ。レシートには確定申告以外にも使い道があったんだと気づかせてくれる作品。だからどうだってんだ!

2018/06/16(村田真)

荒井郁美 ペインティング・パレット

会期:2018/06/05~2018/06/17

ギャラリー・フー[神奈川県]

パレットを描いている。絵具を置いた状態のパレットをそのままキャンバスに描いている。パレットを描くのだから、パレットの地色(木もあれば紙もある)の絵具がパレット上に置かれ、その絵具でパレットとパレット上の絵具を描く。したがって実際のパレットと描かれたパレットは、厳密にいえばわずかな時差をともないつつほぼ同時進行で変化していき、ついに描き終わることはない。トートロジー絵画。考えるとおもしろいけど、絵としておもしろいものではない。

2018/06/16(村田真)

小瀬村真美:幻画~像(イメージ)の表皮

会期:2018/06/16~2018/09/02

原美術館[東京都]

絵画にはジャンルのヒエラルキーがあって、エライ順に、物語画、肖像画、風俗画、風景画、静物画となる。なぜそうなるかというと、簡単にいえば人間が描かれているからという西洋のヒューマニズム思想による。とくに物語画はたくさんの人物が出てきてなにかドラマを演じるので、いちばんエラい。別の見方をすると、主題や対象が動的であるほど絵画のヒエラルキーが高くなるといえるかもしれない。物語画は登場人物がなにかを物語るもっとも劇的なシーンを再構築しなければならないから、描くほうも見るほうも高度な技術が必要とされるのに対して、静物画は動かないモノが相手なので比較的楽だ。そんなことも階層づけに関与しているだろう。

小瀬村は、そんな最下位の静物画を「動かす」ことで、物語画の地位に高めようとしているようにも見える。初期の映像作品《薇》は、卓上の果物を数カ月かけてコマ撮りし、アニメーションの手法で動かしたもの。果物が徐々にしおれて腐っていく様子が、10分ほどの映像に収められている。静物も長い目で見れば動いて(変化して)いくのだ。これと対をなすのが《エピソードⅢ》という映像。《薇》と同じくアニメの手法でつくられたものだが、こちらは人物が寝息をたてながら寝ているあいだに花は枯れ、壁にはシミが浮かび上がり、やがて剥落し始める。写真創成期のイポリット・バヤールによるポートレートに触発されたもので、たぶん「スリーピング・ビューティー(眠れる森の美女)」も入っているに違いない。人物だけが動かず、周囲の静物や風景のほうが変化していくという反転した世界だ。

ほかにも、切り花がしおれていく過程を静止画(写真)で撮ったり、初期ルネサンスの横顔の肖像画の目や口を動かしたり、静物の卓上にモノを落として配置を壊していく様子をスロー映像で捉えるなど、絵画・写真・映像のあいだでさまざまな試みをしているが、上記の初期2作品にすべてが凝縮されているように思える。また、撮影に使ったセットや小道具なども公開しているが、いらないんじゃね?

2018/06/15(村田真)

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第21回文化庁メディア芸術祭受賞作品展

会期:2018/06/13~2018/06/24

国立新美術館[東京都]

例年どおり冷やかし程度にしか見てないので、めんどくさい作品は通りすぎている。ずいぶん乱暴な見方だが、それで足が止まった作品はホメてあげたい。折笠良の《水準原点》はクレイアニメ。雪原か海原のような白い風景のなかをぐんぐん進んでいくと、ときおり津波のような高波が押し寄せる。なんだろうと見ていると、今度は同じ場所を斜め上から見下ろすかたちで映し出していく。なんと津波の中央では文字が生まれている、というより、文字が生まれる波紋で津波が生じているのだ。その文字をたどっていくと、シベリア抑留経験のある石原吉郎の詩「水準原点」になる。言葉の生成現場がかくも厳しいものであることを伝えるこのアニメも、かくも厳しい生成過程を経て完成したものだ。

もうひとつ、Gary Setzerの映像作品《Panderer(Seventeen Seconds)》はきわめてわかりやすい。映像のなかで男が観客に対し、「美術館で、平均的な鑑賞者がアート作品を見るのに使う時間は1作品につき約17秒であり、この映像作品はその制約を受け入れて17秒という理想的な鑑賞時間を正確に守っている」と語り、17秒で終わる。作品の内容と形式が完全に一致した「理想的」なアートになっているのだ。もちろん理想が必ずしもすばらしいとは限らないが。

2018/06/12(村田真)

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