artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
素材と対話するアートとデザイン
会期:2017/01/16~2018/01/08
富山県美術館[富山県]
北陸ひとり旅。つーか妻子がハワイにトンヅラこいたので、ひとり寂しく美術館でも見に行こうって話だ。まず訪れたのが富山県美術館。ぴあ時代、たしか初めて地方に出張させてもらったのが富山県立近代美術館の開館時の取材で、1981年のことだった。開館記念展として「富山国際現代美術展」が開かれ、出品作家のダニエル・ビュレンや彦坂尚嘉らが出席。日本では東京ビエンナーレ70「人間と物質」以来の国際展として、華々しい門出を飾ったものだ。当時はまだ公立美術館が少なく、特に「近代美術館」という名称が輝いていた時代、日本海側の富山がいきなり海も山も越えてアートワールドに直結してしまったわけで、とまどいも少なくなかった。オープニングに駆り出された通訳はアートのアの字も知らない地元の英語教師たちで、招聘アーティストとの会話のチグハグさに英語を解さないぼくでさえ唖然としたのを覚えている。そんな土着文化とアートとの摩擦が表面化したのが、86年の「とやまの美術」展を機に起きた表現の抑圧を巡る事件だったのかもしれない。
なんでこんな昔話を蒸し返したのかというと、一昨年末その県立近代美術館が閉館し、昨年の夏、富山駅の反対側にあらたに富山県美術館として再スタートを切ったからだ。公立の「近代美術館」が盛んに建てられたのはおもに70-80年代。神奈川県立近代美術館(51)を嚆矢として、兵庫県(70)、和歌山県(70)、群馬県(74)、北海道(77)、富山県(81)、埼玉県(82)、滋賀県(84)、茨城県(88)、徳島県(90)、新潟県(93)と続き、秋田県(94)を最後に近代を冠した美術館は途絶える。バブルが崩壊し、ポストモダニズムがひと段落した時期で、「近代」という言葉がいささか時代遅れに感じられるようになったからだろう。そのかわりに現代美術館とか21世紀美術館とか未来志向のネーミングか、さもなければ地名+美術館のシンプルな名称が増えていく。そして21世紀になって、震災で被災した兵庫県立近代美術館が「近代」を外して兵庫県立美術館に、富山県立近代美術館も富山県美術館に後退(とあえていいたい)してしまうのだ。
近代美術館というのはMoMAが最初に示したように、本来扱う作品が近代であることよりも、美術館のあり方が近代的であろうとする態度表明ではなかったか。つまり「近代美術の館」ではなく「近代的な美術館」という解釈だ。だとするなら「近代」を外すことは美術館の姿勢としてやはり後退といわざるをえないだろう。富山県立近代美術館が近代を外した理由は知らないけれど、富山県美術館になって明確に打ち出したことがある。それは英語名のToyama Prefectual Museum of Art and Design(通称TAD)にあるように、アートとデザインを館の2本柱に据えたことだ。富山は以前から「世界ポスター・トリエンナーレ」を開いたり、デザインチェアを収集したり、デザインに力を入れていた。それは隣県の金沢が工芸の街で、21世紀美術館も現代工芸を推進しているため、デザインで対抗しようとしているのかもしれない。ならば近代美術館のままでよかったはずだし、いっそ富山アート&デザイン館としたほうがストレートだった。
長々と書いてしまった。美術館は富山駅の北、富岩運河環水公園に面して建つ。南東が全面ガラス張りになっていて、眼下の公園のはるか向こうに立山連峰を望む絶好のロケーションだ。設計は《茨城県天心記念五浦美術館》や《島根県芸術文化センター》などを手がけた内藤廣。いちおう美術館そのものを見に来たので、開催中の「素材と対話するアートとデザイン」展はほとんど素通りしてしまったが、併催されていた「ワールド工芸100選」のほうは足が止まった。文字どおり世界の現代工芸を集めたもので(金沢のお家芸じゃなかったか)、およそ伝統を重んじる工芸の概念とは無縁の、微に入り細をうがち奇をてらったマニエリスティックな作品の数々が並んでいるのだ。なかでもLee Seunghee(なんて読む?)の《タオ2016》は、陶磁器を陶磁器で描くという離れ技をやってのけている。画中画ならぬ陶中陶。
2017/12/15(金)(村田真)
池内晶子展
会期:2017/12/07~2017/12/24
ギャラリー21yo-j[東京都]
四方の壁の端から1本ずつ計4本の赤い絹糸を延ばし、中央でクモの糸のように網目状に編み、中心部に円形の穴を開け、糸をだらんと垂らしている。支えているのは4本の細い絹糸だけ。床にはやはり赤い絹糸がとぐろを巻きながら円形に置かれているが、これは長~い1本の糸だそうだ。膨大な作業量とただならぬ緊張感を要する作品。イヌやネコが乱入して来たらとんでもない事態になるだろう、と想像しながら鑑賞するのも一興かと。
2017/12/07(木)(村田真)
THE ドザえもん展 TOKYO 2017
会期:2017/12/02~2018/12/12
eitoeiko[東京都]
森アーツセンターギャラリーの「THEドラえもん展 TOKYO 2017」の向こうを張った岡本光博の個展。岡本といえば昨秋、沖縄で《落米のおそれあり》と題するシャッター画が住人の反対に遭い、非公開になったことが記憶に新しい。沖縄の米軍問題でもキャラクターの著作権問題でも、とりあえず果敢に切り込んでいく姿勢は高く評価したい。てことで「ドザえもん」だが、個展のチラシには青く膨れ上がった水死体が池に浮かんでる写真を使用。出品作品は大小さまざまなキャラクター商品を2つに割ってうつぶせ状態にしたもので、2頭身用の青い棺桶まで用意するという周到さ。もちろん「THEドラえもん展」に選ばれなかった腹いせに急ごしらえしたものではなく、1992年の大学の卒業制作のときにつくって以来4半世紀を超える片思いの歴史があるそうだ。なんだかんだいいながら、やっぱ愛が感じられるよね。
2017/12/07(木)(村田真)
ジェニファー・ヒッギー「現代アートについて書く方法──その最前線と実践のためのヒント:『frieze』誌エディトリアル・ディレクターによるレッスン」
会期:2017/12/07
東京藝術大学[東京都]
美術ジャーナリズムの世界に足を突っ込んでもう40年になる私ですが、恥ずかしながらいまだにどうやって書いたらいいのかわからず、いつも四苦八苦している。そんなときに『美術手帖』元編集者の川出絵里さんから、東京藝大で『frieze』誌エディトリアル・ディレクターのジェニファー・ヒッギー氏による「現代アートについて書く方法」と題する公開レクチャーがあると聞き、なにかヒントを見つけられるかもしれないとワラにもすがる気持ちで参加した。もちろん川出さんの東京藝大助教デビューを盛り上げたいとの思いもあったが、そんな必要もないほど大教室は満杯で、こんなに「現代アートについて」書く人、書きたい人がたくさんいたのかとライバルの多さに不安になったものだ。
『frieze』は1991年にロンドンで創刊された「コンテンポラリー・アート&カルチャー・マガジン」で、ぼくは書店や図書館で立ち読みならぬ立ち見(図版だけね)しかしたことないが、90年代のYBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)をはじめアートの最新動向を斬新なエディトリアルで紹介し、急伸してきたメディアで、近年はアートフェアやアカデミーの運営にも手を染めているのは知られたところ。気になるのは、公明正大であるべきジャーナリズムに携わりながらアートマーケットを動かしていることだが、日本でも評論家がギャラリーを運営したり、ジャーナリストが作品をつくったりしている例もあるし、ま、ギョーカイの活性化という意味では許されるか。
講義はまず川出さんがここに至るまでの経緯を語り、スカイプを通してヒッギーさんがさまざまな批評家の言葉を引用しながら持論を展開していくかたちで進められた。ぼくなりに噛み砕いていうと、美術批評家になって得することは、おもしろいアーティストに出会えること、それによって世界が広がること。悪いことはアーティストからうらまれること、いちど始めたら死ぬまでやめられないこと、その割りに金持ちになれないので別の仕事もしなければならないことなど。批評家の守るべきルールは、好きでもないアーティストについて書かないこと(書いたものは後々まで残る)、美術作品と同じくらい読者の心を動かすこと(なんらかのレスポンスを喚起させること)、英語で1000語(日本語だと4000字くらい?)以上書かないこと(だれも読まないから)、かしこそうにふるまうな、ジャーゴン(定型表現、専門用語)は避けろ、簡潔に、明快に……。はっきりいってぼくでも知ってること、やってることばかりではないか。なのになぜぼくは大成しないのかというと、ここが日本だから需要が少ないし、アートに対するリスペクトもないからではないか。と社会のせいにしたくもなるが、でもやっぱり向こうでも美術ジャーナリズムだけで食っていくのは至難の業という。結局どうすりゃいいんだ!?
2017/12/07(木)(村田真)
没後40年 熊谷守一 生きるよろこび
会期:2017/12/01~2018/03/21
東京国立近代美術館[東京都]
熊谷守一というと素朴な色と形の絵で人気があるが、そのシンプルな作風もさることながら、ザンギリ頭に白くて長いあごひげ、作務衣みたいな着物(カルサンというらしい)の飄々とした姿、「へたも絵のうち」のキャッチフレーズも相まって、いかにも世俗を超えた仙人のようなイメージを増幅させている。ぼくがその存在を知ったときにはすでに90歳を超えた高齢で、雲の上の人だった。ただしそれは70歳以上も年上の超俗老人だからであって、作品には憧れはなかったし、どうも好きになれなかった。それはいまあらためて考えてみると、形の簡略化が中途半端に感じられたからであり(当時はミニマルアートに憧れていた)、色彩が地味で日本的な暗さを嗅ぎ取ったからだと思う。果たしていま見ても同じように感じるだろうか? 若干コワイもの見たさ的な気分もあって見に行った。
初期のころの絵は、ひとことでいえば暗い。色も暗いが、テーマも暗い。ローソク1本のかすかな明かりのなかで描いた《蝋燭》など、もともと暗い上に絵具が黒変してわずかに顔が判別できるくらい。きわめつけは《轢死》で、電車に轢かれて横たわる女性を描いたらしいのだが、画面全体が暗褐色で具体的な形はまったく判別できないのだ。もう「闇夜のカラス」状態。いくら熊谷守一の作品だからといって、いくら衝撃的なモチーフが描かれていたからといって、こんな真っ暗な画面を美術館で見せていいものか。あるいは一種の抽象絵画として見るべきか。その後、画面は徐々に明るくなり、タッチは荒々しい表現主義的になり、モチーフもヌードと風景に絞られていく。が、次男が亡くなったときはその死に顔を素早く描き止めた《陽の死んだ日》を残している。戦後も長女の死に顔《萬の像》や、その遺骨を抱えた家族の肖像《ヤキバノカエリ》を制作するなど、意外にもその長い画業には死がときおり顔を出す。
熊谷を特徴づける赤茶色の輪郭線が表われるのは1930年ごろから。また、よく知られる平坦な色面によるシンプルな画面は40年代からで、そのころすでに還暦を超えている。不謹慎なことをいえば、もし空襲など戦渦に巻き込まれて亡くなっていたら、名もない画家のひとりで終わっていたに違いない。つまり熊谷が画家・熊谷守一になるのはじつに70歳近くになってからなのだ。出品リストを見ると油彩だけで200点も出ているが、うち4分の3は戦後、つまり60歳代後半以降の作品で占められている。これほど遅咲きの画家もめったにいない。ちなみに戦時中はなにをしていたかというと、もちろん出兵するには高齢すぎるし、画家としてもすでに引退を考えてもいい年だったので(なにしろ東京美術学校では青木繁と同級生)、戦争画も描かなかった(依頼がなかったのか?)。ではなにを描いていたのかというと、さすがにヌードは描けなかったのか、風景が多かった。とはいえほとんど人のいない不穏な風景画ばかりで、逆に戦争の時代だったことを予感させる。
後半の100点以上の大半は10号以下の小品で、しかも陳腐なガラスつきの額縁に入っているため、ズラッと並んださまはまるで売り絵のようだ。書や彫刻も出ている。書は軸装で、「無」「ほとけさま」「からす」などちょっとトボケた味を出していて、相田みつをを彷彿させる。彫刻も長さ20センチ程度の小品で、モチーフは横たわるヌードだが、なにか違和感があるのは、こんなちっちゃな彫刻なのに台座がついてるからだろう。どうも熊谷は額縁や台座抜きに絵画・彫刻は考えられなかったのではないか。そこがミニマルアートはおろか、抽象以前の旧世代の画家たるゆえんだろう。そんなわけで後半のシンプルな絵にはやっぱり惹かれないが、初期の「暗い絵」には少し心を動かされるものがあった。
2017/12/01(金)(村田真)