artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

ゴッホ展 巡りゆく日本の夢

会期:2017/10/24~2018/01/08

東京都美術館[東京都]

またもやゴッホ展! 日本ではだいたい2、3年にいちど大規模なゴッホ展をやっている。こんな国ほかにないだろう。いっそゴッホ・トリエンナーレにしては? でもさすがに近年は単なる「ゴッホ展」では話題性に乏しいと感じたのか、「こうして私はゴッホになった」(2010)とか「空白のパリを追う」(2013)とか「ゴッホとゴーギャン」(2016)とか、なにかとテーマ性を持たせるようになってきた。てなわけで、今回は「巡りゆく日本の夢」と題して日本との関係に焦点を合わせている。これなら日本人の琴線に触れそうだ。といっても、ゴッホと日本とのつながりはひとつではなくいくつかある。まず最初のつながりは、いわずと知れた「浮世絵」からの影響だ。

ゴッホが故国のオランダ、ベルギーを経てパリに出たとき、2つの大きな出会いがあった。ひとつは印象派であり、もうひとつは浮世絵だ。この2つの出会いによって暗褐色だったゴッホの絵は劇的に明るくなる。特に浮世絵は「ジャポニスム」旋風が吹き荒れていた当時のパリでは安価で手に入れることができたので、ゴッホは模写するだけでなくみずから収集し、浮世絵展まで開くようになった。《花魁(渓斎英泉による)》は英泉の浮世絵を元に、原作にはない極彩色と厚塗りでゴッホらしさを出し、その周囲を縁どる水辺の風景にも別の浮世絵から引用したツルやカエルを赤茶色の輪郭線で付け加えている。もう見慣れてしまったが、冷静にながめればこんな奇っ怪な絵もない。《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》は、片手にタバコ、脇にビールを置いた気の強そうなカフェの女主人を描いた肖像画だが、この店でゴッホは浮世絵コレクションを展示したという。右上に花魁らしき女性を描いた浮世絵が確認できる。

第2のつながりは、ゴッホの日本や日本人芸術家に対する憧れだ。パリの生活に疲れたゴッホは陽光あふれる日本を目指して、なにを勘違いしたのか南仏のアルルに移住し、そこでまたなにを勘違いしたのか、日本の芸術家のように愛にあふれた共同生活を送ろうと、画家たちに声をかける。ところがだれもゴッホの誘いに応じず、ようやくゴーガンが安い生活費につられて重い腰を上げたものの、これが最悪の結果をもたらすことになった。強烈な個性を持つふたりの芸術家は激しくぶつかり、ゴッホは精神に錯乱を来して共同生活はわずか2カ月ほどで破綻してしまう。このへんの事情は2年前の「ゴッホとゴーギャン展」に詳しい。結局ゴッホは自分のユートピア志向を未知の日本に託したかったのかもしれない。タイトルにある「日本の夢」とはこれを指す。

そして第3のつながりはゴッホの亡きあと、最期の地となったオーヴェール・シュル・オワーズへの日本人の旅だ。ゴッホが日本で人気を得るのは死後20年ほどたった大正時代、白樺派の文学者や美術家たちが画家や作品について紹介してから。渡仏した日本人の多くは当時まだ作品も関係者も残っていたオーヴェールに赴き、墓参りしたという。その芳名録3冊も出品されていて、1922年から39年までの17年間に前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三、斎藤茂吉、式場隆三郎、福沢一郎、高田博厚、北澤楽天ら計266人のサインがある。平均すると年間15人程度だから少ないようだが、まだ飛行機もパックツアーも、まして「アートツーリズム」なんてシャレた趣味もない時代に、はるばる極東の島国からパリ郊外の小さな田舎町まで「ゴッホ巡礼」に足を運んだということだけでも驚き。日本人のゴッホ好きはもう100年の歴史があるのだ。

2017/12/01(金)(村田真)

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ワードプレイ ワセニ・ウォルケ・コスロフ

会期:2017/11/23~2017/01/31

中村キース・ヘリング美術館[山梨県]

快晴。いつもとは逆の左手に富士山をながめながら小淵沢へ。今日は第9回中村キース・ヘリング美術館国際児童絵画コンクールの授賞式。世界中から公募した4~17歳の子どもの絵(今回は計1240件集まった)を、年齢別に3部門に分けて審査。ぼくも選ばせてもらったので、授賞式に出席して賞状を渡さなければならない。受賞者の約半数は香港、シンガポール、バングラデシュ、アメリカ、カナダ、ブルガリアといった外国の子。ぼくが選んだのは東京の村田奏満くん(たまたま苗字が同じ)、イギリスのクローディア・ピピスさん、マレーシアのムハンマド・ハジム・ビン・アーマド・ナザリくんの3人で、クローディアさんとムハンマドくんは欠席。そりゃ子どもの絵の表彰式のために海を越えて山梨まで来ないよね。と思ったら、わざわざ駆けつけた家族も何組かいた(交通費は自腹)。この授賞式のあと、子供たちも参加してワセニさんがワークショップを行ない、夜には「ワセニ展」のレセプションパーティーが開かれた。授賞式に合わせてパーティーを企画したのか、パーティーに合わせて授賞式を設定したのかよくわからないけど、晩秋の八ヶ岳山麓が人でにぎわった。
で、ようやく「ワセニ展」の話だが、ワセニ・ウォルケ・コスロフはエチオピア出身でアメリカ西海岸に住むアーティスト。その作品は「ワードプレイ」というタイトルにも示されているように、言葉、文字をモチーフに展開した絵画。最初にエチオピアのアムハラ語をベースにした一覧表仕立ての絵があり、展示が進むに連れ徐々に色が増え、文字に絵が絡みつき、ゴーキーを思わせる初期の抽象表現主義風の絵画に変化していくプロセスがたどれる。と思ったら、別に制作年順に並べているわけではなく、文字と絵画のあいだを行きつ戻りつしているらしい。変わらないのは画面をグリッド状に分割していることと、文字を発展させた記号のような黒い線描が骨格になっていること。もしキース・ヘリングとの共通性があるとしたら、この黒い記号的な線描表現だろう。絵画としては特に新鮮みがあるわけでもないし、現代アフリカのプリミティヴアートに括られてしまう可能性もあるが、むしろジャズやエチオピア音楽などポップカルチャーとの関係から見直したほうが、新たな発見があるかもしれない。

2017/11/26(日)(村田真)

「1968年」─無数の問いの噴出の時代─

会期:2017/10/11~2017/12/10

国立歴史民俗博物館[千葉県]

例えば「1920年代展」のようにディケードで区切って見せる展覧会はよくあるが、同展のように特定の年に絞った展覧会はあまり例がないのではないかと思ったら、東京都現代美術館の「よみがえる1964年」とか、目黒区美術館の「1953年ライトアップ」とか、意外とあった。……と書いたのは今秋、葉山で開かれた「1937──モダニズムの分岐点」のレビューの冒頭だったが、今度は「1968年」展だ。なんだ、よくあるじゃないか。1968年というのは日本でも世界でも象徴的な年で、東大安田講堂、パリの5月革命、プラハの春などの学生運動や反権力闘争がピークを迎えた時期。それを同展では「無数の問いの噴出の時代」とまどろっこしく表現しているが、ひとことでいえば「異議申し立ての時代」だろう。
展示は「『平和と民主主義』・経済成長への問い」と「大学という『場』からの問い─全共闘運動の展開」の2部に分かれ、ベ平連、三里塚闘争、大学紛争、水俣問題などの写真、アジビラ、機関紙、ヘルメット、鉢巻きなどを紹介している。会場を見回すとやはり団塊の世代が多く、「これは東大のあれだよ」とひとりブツブツ解説するおっさんもいてウザい。幸か不幸かぼくはそれより下の世代で、子供心にも彼らの闘争が勝つとは思えなかったので(彼ら自身も勝てるとは思っていなかったはず)、当時は冷ややかな目で見ていた。だいたい戦争に反対するのに反戦運動を繰り広げるのは、平和を守るために戦争するのにも似て矛盾してないか。いちばんおかしいと思ったのは、全然別の運動でも使われる文体や書体はそっくりだということ。要するに想像力と創造性に欠けていたことだ。今回の展示を見ても、時代を差し引いてもそうした貧しさはぬぐえない。
余談だが、同展は社会一般の「1968年」を扱っているが、来年の秋に千葉市美術館で予定されている「1968年」展は美術の1968年を俎上に上げるもの。これは楽しみ。つーか、近いんだからどっちか1年ずらして同時開催してほしかったよ。

2017/11/19(日)(村田真)

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没後70年 北野恒富展

会期:2017/11/03~2017/12/17

千葉市美術館[千葉県]

北野恒富というと、甲斐庄楠音や岡本神草(来年5月から千葉市美でもやる)らとともにデロリ系の日本画家だとなんとなく思い込んでいたが、違った。たしかに大作の《淀君》や大正期のポスターなどは多少デロっているものの、むしろ鏑木清方(東京)、上村松園(京都)と並ぶ大阪の美人画を代表する画家として知られているそうだ。そういわれれば、襖の前の芸妓を描いた《鏡の前》と《暖か》の対作品などはそそられるものがある。ちなみに《鏡の前》は黒い着物に赤い帯、《暖か》は赤い着物に黒い帯と対照的で、前者は着物に飛天、後者は襖に若衆が描かれるなど工夫が凝らされている。しかし美人画だけでなく、雨に煙る街並を描いた《宗右衛門町》や、前面に柳を大きく配した《道頓堀》など風景画も負けず劣らず妖しい雰囲気が漂う。ちなみに《宗右衛門町》は川端龍子、小林古径、下村観山ら日本美術院の21人が連作した『東都名所』の1点で、東京の名所を描く組物なのにひとり恒富だけ大阪の宗右衛門町を描いているのだ。

2017/11/19(日)(村田真)

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レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル

会期:2017/11/18~2017/04/01

森美術館[東京都]

まず初めに暗い通路に通され、ゆるやかなスロープを上っていく。なにが起きるのか期待を持たせる憎い演出だ。広い空間に出るとボートが数隻プールにプカプカ浮かんでいる。《反射する港》と題する作品だ。しかしよく見ると、水面に映ってるボートの反射像が揺らがないので、実際には水がなく、ボートを上下対称につなげて揺らしているだけであることに気づく。いきなりカマしてくれるじゃねーか。ほかにも《教室》、《眺め》、《試着室》など趣向を凝らした装置がいっぱい。
最初はおもしろいけど、しょせんトリックアートにすぎない。と思っていたが、見ていくうちにそんな素朴な作品でないことに気づく。これらはいずれも絵画と関連の深い「窓」と「鏡」から発想されたものなのだ。最初の《反射する港》は鏡、マンション住人の生活をのぞき見る《眺め》は窓、迷路のような《試着室》は鏡といった具合。なかには《雲》のように窓とも鏡とも結びつかない作品もあるが、これは発想が陳腐だし、完成度も低い駄作だ。逆に窓と鏡の双方を結びつけたのが、最後の《建物》と題するインスタレーション。床に窓のあるビルの壁を再現し、観客がその窓に手をかけて横たわると、斜め上45度の角度に据えられた巨大な鏡に、窓から落ちそうな観客の姿が垂直に映るという仕掛け。観客参加型で、しかも撮影可能なインスタレーションだから、まさにインスタ映え。

2017/11/17(金)(村田真)

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