artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
泉太郎「山ができずに穴できた」
会期:2009/01/20~2009/03/07
NADiff Gallery[東京]
本屋の地下にあるいびつな白い部屋、壁に映るのは人体のでたらめで、ユーモラスな運動。同一人物を撮影した紙が次々に手で引きちぎられてゆく動画は、下の紙の体と上のそれとがときに重なり、パラパラマンガに似て非なる原始的で奔放な動きを見せる。「ダンス」なんて言葉が不意に漏れてしまう魅力があった。壁の下に紙の残骸。プロジェクター台に半分隠れたテレビは、紙にプリントされた元の映像(壁に沿ったり壁を蹴ったりする泉)を映す。重層的な映像(「重ねた紙を上からちぎってゆく映像」=「運動する泉」+「それを映した映像」+「映像を映した紙」)を重層化のプロセスごと展示するやり方は、最近の泉らしいこだわりを示している。事が重層的になれば必然として、作家の思惑とその結果のズレは増加する。プロセスの開示はそのプロセスこそ主役なのだといいたいようだ。タイトルにある「~できずに」は、こうした思いのズレにこそ泉の関心があることを明かしている。
2009/01/21(水)(木村覚)
サンプル「伝記」
会期:2009/01/15~2009/01/25
こまばアゴラ劇場[東京]
サンプルの芝居の根底にあるのはニヒリズムである。話の筋はこう。
浅倉シェルター社長の死後、伝記を出版しようとする浅倉の親族とその編纂を任された会社資料部のスタッフたち、社長の元愛人と息子、出版事業に出資を申し出る女、社長の家の使用人など、社長と伝記をめぐるそれぞれの思惑のズレが対話によって肥大化し、収拾がつかなくなってゆく。よくある「中心の不在」をめぐる物語(?)といってしまえばそれは確かにそうで、父への愛憎(コンプレックス)を基点に、きわめて明瞭な構造が舞台を構成する。この構造は、ちょっとしたハプニング(車椅子の元愛人が失禁したり、金持ちの女が意味不明の挑発を男性スタッフにふっかけたり、突然歌い出したり……)によってわずかに歪む。この歪みが、観客の笑いを引き出し、舞台を推進させる。とはいえ、その歪みに社会の歪みや人の心の歪みを反映させるなんて気持ちは、主宰・松井周にははなからない。人生とは?伝記とは?などと問うのは意味がない。ここで伝記とは、歪ませて遊ぶおもちゃの骨組みをつくる原材料以外ではないのだから。といって歪みの角度が笑いを狙うこともない。構造を歪ませる行為がただの純粋な遊び(であるが故に、この遊びは遊びでさえないのかも)であることをはっきりと告白するために、スタッフたちが突然口紅を塗りあうなど振る舞いの無意味さは次第に激しさを増し、その甚だしさがピークを迎えたあたりで終演した。
この形式主義の高度さが日本の若手演劇のクオリティを証しているのは間違いない。とはいえ、隠しがたいのは、形式が内部で機能すればそれだけ、ぼくの疎外感がエスカレートしたこと。浅倉と同じく観客もここでは死者に近い存在であり、不在としてのみ位置づけられている気がした。
サンプル「伝記」:http://www.komaba-agora.com/line_up/2009_01/sample.html
2009/01/16(金)(木村覚)
magical, TV
会期:2009/01/13
superdeluxe[東京]
精神科医でアートコレクターの岡田聡が運営するギャラリーmagical, ARTROOM。その3周年記念イベントが六本木で催された。OFFSEASON featuring 大谷能生の演奏や遠藤一郎の楽器を用いたパフォーマンスなどが上演された。タイトル通り、このイベントにはweb上のテレビ番組・DAX LIVE!!が入り込んでいて、ライヴは同時にテレビ収録のスタジオともなっていた。また最初のコーナーでは「一人ごっつ」やBSの番組「TOKYOブレイクする~!」の制作者・倉本美津留が岡田とのトークに出演するなど、テレビとアートの連携はいかにして可能かといったテーマが貫かれていた。
このテーマ自体は興味深い。テレビ的形態に浸りきったぼくたちの観賞態度を見事クラブイベント化した一昨年の「ぷりぷりTV」を思い出させる。けれども、会場にいて、こりゃマズイぞと思った。この場でアートはテレビに浸食され、テレビ的フレームにパフォーマンスの躍動は押し込められていた。上演中にプレイヤーと観客の前に差し出される「あと5分」「終了」のカンペ。上演後にもプレイヤーは、民放的な軽薄さを帯びたトークにつきあわされ、時間つなぎをやらされる(せっかくweb上にあるテレビ番組なのにどうして民放の真似をするのだろう。webの番組らしいトークのあり方を探すべきでは)。
さすがにちょっとこれはと思ったのは、(音がバンド名)のメンバー小林亮平のパフォーマンスが予定の10分より早く終了させられていた(気がした)こと。シールドを差し込んだりスイッチを入れたり演奏の準備をしつつその間ひたすら自分の現況を叫ぶ小林の演奏(?)は、あえて言えばこの日一番「一人ごっつ」的な時間だったのに。「カントリーロード」を絶唱した遠藤が最後に時間オーバーを詫びたその言葉は、アートではなくテレビへ向けられていてなんだか切なくて、けれどもそうした一種の暴力に対してさえ閉じない優しさは、遠藤流のアートをかたどってもいた。
magical, TV:http://www.magical-artroom.com/events/090113/magicalTV.shtml
2009/01/13(火)(木村覚)
黒沢美香&ダンサーズ「家内工場」
会期:2009/01/12
スタジオクロちゃん[東京]
黒沢美香は、モダンダンスの世界でまたコンテンポラリーダンスの世界で最重要ダンサー、振付家であったし、いまでもそう。本公演は、彼女と稽古や公演をともにしているダンサー、振付家が集まっての小作品集。会場は稽古場。恩田香、長野れいこ、木檜朱実、岸本あずさの振り付け、その他、朗読やライヴ演奏があった。全体として誠実さは感じる。けれども、正直、物足りない気持ちにもなる。そのなか、黒沢は長野れいこの振り付けで踊った。頭にカセットテープを乗せてゆっくりと歩いて登場。舞台奥からラジカセを取り出して頭にあったテープをセットすると、流れる静かな曲をバックに、柔らかく円を描いてステップを踏んだ。窓から差し込む光だけが照らす、伸びた足先のやりとりは、なんともいえず美しく、ジャンルを超えた「ダンスそのもの」がそこにあった。
2009/01/12(月)(木村覚)
大橋可也&ダンサーズ『帝国、エアリアル』
会期:2008/12/28
新国立劇場 小劇場[東京都]
トータル70分。装飾ゼロ。スタッフの移動さえ隠さないスケルトン舞台。照明もフラット。あるのは床に散乱したペットボトルなどのゴミくずのみと楽器セット。ひとりの女が現われ不意に絶叫。それを合図に10人超のパフォーマーが散らばる。各人の動作は個人的動機の内に自閉しているようで、それぞれ他人の些細な仕草に敏感に小さく反応してもいる。冒頭、姿を見せた大橋は、帝国とは「空気」ではないかと観客に語りかけた。「空気」のごとき何かは風となって、木の葉のようなひとの間をすり抜け、その軌跡はときに躍動する渦と化した。バレエなどと外観は異なるとしても、その場を支配する強烈な統率性は振り付け作品以外の何ものでもない。こうした前半20分の繊細な時間は、伊東篤宏とHIKOの演奏が加わると変容した。轟音と閃光はそれ自体魅力的であるとしても、30分続けば見る側の身体を麻痺させ無能化させる。さながら刺身の舟盛りに激辛カレーをかけて食するごとく。最後に無音の20分、相変わらずの群れは次第に数を減らす。ゴミの紙飛行機が飛び、最後の女2人が客席を通り消えると、代わりに大橋が終了を告げに現われた。 今作で、大橋は3種のチケットを設定し、0円というチケットも用意した。貧困問題に応えるかの仕掛けが、実際、普段劇場に足を運ばない観客を少なからず呼び込んでいた。「生きづらさを感じるあなたたちへ。身体、社会、日本をえぐる。」とのメッセージに、ひとが反応した成果だろう。『ロスジェネ』の浅尾大輔、大澤信亮を招いたイベント「帝国ナイト」も功を奏したようだ。ただし「生きづらさ」の段階から次へ向かう力を観客に与えられたかは、即断できない。アートよりも与えるべきは食事じゃないかとの意見さえ出てきかねない時代の空気もある(新国立劇場で炊き出しをするべきだった、とか)。こうした反響も含めて、社会とアートの交点を考える地平が、この公演から垣間見えてきたのは事実だ。
2008/12/28(日)(木村覚)