artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

「転校生」(演出:飴屋法水、脚本:平田オリザ)

会期:2009/03/26~2009/03/29

東京芸術劇場中ホール[東京都]

女子校の教室をそのまま切り取ってきたのかと錯覚するほどに自然な舞台。作為(演出)の産物であるのは承知しているものの、あまりの自然さに圧倒される。けれども、それだけでは本作を語るのに不十分だ。冒頭に胎児の映像が映る。スクリーンの前にいる役者たちの生命は、こんな胎児が生育してここにあるのだよななどと考えているうちに、役柄そのままの年代20人ほどがいま舞台上で実際に呼吸していて、その身体自体が、この舞台の中心的存在であることに気づかされる。役者が生けるオブジェとして舞台にある。演劇と生命。リアルと見紛う芝居とその場でリアルに呼吸している身体。両者の交差する空間に異物が置かれる。おばあさんと呼ぶにふさわしい身体の転校生。生や死の理解しがたさに、さらに他者の理解しがたさが織りこまれ、生の謎は増大する。転校生に戸惑いながらも高校生のおしゃべりはとまらない。からかったりなぐさめたり励ましたりを繰り返す何気ない教室の一場が人間というものの生活をかたどる。最後に、一列に並ぶと高校生たちは一斉にジャンプした。「せーの」と合図し床に着地すると激しい音がした。着地の度に一人一人の名前と生年月日がスクリーンに映された。着地音は、まるで彼女たちを生み落とした大地の地響きに聞こえた。
転校生:http://festival-tokyo.jp/program/transfer/

2009/03/26(木村覚)

梅田宏明 新作公演

会期:2009/03/20~2009/03/22

横浜赤レンガ倉庫[神奈川県]

床面を四角く枠取る無機質な照明のラインが、漆黒の闇の中央に佇む梅田を淡く照らす。映像作品《MONTEVIDEOAKI》を含む三本を並べた新作公演の良し悪しは、梅田のソロ舞台「Haptic」が典型的に示す、こうした「エレクトロニクス」「テクノロジー」といったものへのやや懐かしくも感じさせる「かっこいい」イメージを、見る側がどう評価するかにかかっていよう。懐かしいなどとぼくが言ってしまうのは、身体とエレクトロニクスをシンプルかつダイレクトな仕方で繋ぐ真鍋大度のクレイジーなアプローチにリアリティを感じる感性こそ現在だ、という時代認識による。観客の視覚・聴覚に鋭く切り込む照明と音響に、ダンサーは痙攣的に反応している(リアクション)ようで、結構踊って(アクション)いる。女性ダンサー三人を振り付けた《centrifugal》はそうでもなかったけれども、梅田のソロはストリート系ダンスのヴォキャブラリーを高速化したもののように見える。そうした高速運動ができる技量を見せたり「かっこいい」イメージを提供したりするだけでは表現として説得力を獲得しえない、そんな過酷な地平にいまの表現者は立たされている、などと思って見ていた。
梅田宏明:http://www.hiroakiumeda.com/

2009/03/22(日)(木村覚)

Chim↑Pom「広島!」

会期:2009/03/20~2009/03/22

Vacant[東京都]

本展覧会の核となる、というかあの騒動の原因を招いた《広島の空をピカッとさせる》は、動画作品だった。騒動の際に流通した写真は「ピカッ」の文字だけが切り取られた状態であったけれども、この作品にとって重要なのは、この文字の下に原爆ドームが配置されていることで、もっと重要なのは、原爆ドームの下、のどかな調子で歩く修学旅行生や市民の姿をカメラがフレームインさせていることだった。原爆ドームが示唆する〈過去の現実〉とその足元の呑気で鈍感な〈今日の現実〉。上空の「ピカッ」は、2つの現実を重ねるとともに、両者のギャップを痛烈に意識させる装置だったのだ。本作に一層の凄味を与えているのは、「ピカッ」が飛行機雲で出来ていることだった。つまり、かつてリトルボーイを搭載し飛行した武器が、脳天気な表情のカタカナを描く絵筆へと誤用されているわけだ。リトルボーイの放った光がゆっくりゆっくりと描かれてゆくこの文字だったらよかったのに、と思う。けれどもそんな無邪気な夢(ギャグ)は、原爆ドームの現実にかき消されてしまう。しかもそのドームの現実はさらに、穏やかな今日の現実にスルーされている。ドームにはカラスがちょこんと座っていて、Chim↑Pomのカメラは、その光景全体をじっと見つめている。彼らの制作過程に勇み足の面があったとしても、またそれによって悲しみや怒りを引き起こしたことが事実であるとしても、この作品が映し出した現実は間違いなくひとつの現実であり、現実を映す鏡の機能を強烈な仕方で発揮している本作が、彼らの代表作、のみならずこの時代の代表作となるのは間違いない。これは彼らの作品ではなくぼくたちの作品である。

2009/03/20(金・祝)(木村覚)

ボクデス「スプリングマン、ピョイ!」

会期:2009/03/19~2009/03/20

SuperDeluxe[東京都]

「ベスト・ライブ」と銘打ってはあるものの、ほぼ「全部のせ」。きゅうりでお盆の動物やおつまみをつくり、カレーを早(?)食いし、睡眠中独り言を漏らし、蟹を振り回し、時計を見る仕草をダンスとして披露する。ワンアイディアの短い作品を繋ぎ、休憩を何度も挟んで18演目、2時間。たっぷりとボクデスを堪能し、わかってきたのは「おっさん」「論理性=だじゃれ」「失敗」といった構成要素。要するに、だめな若いおじさんの無茶な振る舞いを笑って、笑うことで許し、愛するというとても平和な、母性的な時間が会場に流れているのだった。だめだけど嫌われるほどでないキャラがつくるのほほんとした会場の空気。CMやテレビドラマに出演しているというタレント・パワーもそれを助長する。だじゃれネタもそうだけれど、画像にあらわれるキャプション使いなどかなり「テレビ」的な公演。『増殖』(YMO)ネタなどは80年代。すると根底にあるのは「80年代のテレビっ子」の感性であって、この感性とどうつきあっていくべきかという社会問題として考えさせられた。
ボクデス:http://www6.plala.or.jp/BOKUDEATH/

2009/03/19(木)(木村覚)

演出 蜷川幸雄、作 清水邦夫:さいたまゴールドシアター「95kgと97kgのあいだ」

会期:2009/03/18~2009/03/29

にしすがも創造舎[東京都]

60人は優に超える役者たち全員が砂袋を担いで賑々しく行進する。タイトルの意味は、その砂袋の重さである。行進は「奴隷労働の演技」などではない。舞台は稽古場、したがって役者の演じるのは「役者」であって、彼らは「重いものを担ぐという演技」を演技する。ほぼ全編がこの劇中劇というか劇中稽古に費やされる本作は、演じさせる支配者と演じる被支配者の関係の物語である。冒頭の場面で寡黙に行列する若者たちをちゃかし続けた不良男は、スモークにせかされ老人たちが登場すると、鬼演出家へ変貌する。さいたまゴールドシアターの老役者たちは、ほぼ同数のNINAGAWA STUDIOの若い役者たちとシンプルな対比を見せる。老体をさらし、若者たちはそれをひやかす。鬼演出家の厳しい指令に応え担ぐ砂袋は、次第に重くなる。100kgは担げなくとも95kgはぎりぎり可能。ならば、そこにさらに2kg足してみよ。「重さ」をイメージし、体で感じてみよ。なぜできない? そんなこともできないでそれでも経験を積み重ねた老人か! 演技は想像力を刺激し、「重さ」=「苦しさ」のメタファーはさまざまな個人的・歴史的出来事を想起させる。だとしても、あまりに類型的なキャラとその演技、あまりに一様な身体性を現実の演出家・蜷川が現実の役者に課している以上、すべては蜷川と役者たちのリアルな物語にしか見えない。「世界の巨匠」に本公演という砂袋を担がされた苦しみと喜び。照明や音響はそれらをスペクタクル化する。役者たちのカタルシスのために舞台があったのなら、これは劇中稽古ではなく稽古中劇だったのかもしれない。

2009/03/18(水)(木村覚)