artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ピーピング・トム「Le Sous Sol/土の下」

会期:2009/02/05~2009/02/07

世田谷パブリックシアター[東京都]

寓話性を色濃く含んだダンス作品。男2人と女1人のダンサーたちは、敷き詰められた土の上で、反転したでんぐり返しとか、体の一部がなぜか磁石のようにくっついて離れないといった事態を、きわめてアクロバティックに(つまり事故すれすれの状態で)見せた。そのありえない運動はファンタジック(曲芸的)でもあり、またその過酷さ故に踊る身体を強く意識させもする。いや、身体を意識させたといえば、彼ら以外の出演者、オペラ歌手と老婆だ。男ダンサーと老婆とが交わすキスには「そんなことやらせるか!」と思わずにはいられない。が、そんな柔な批判など、老いた体は舞台のマテリアルとして存在してはならないというのか?と目の前の舞台それ自体に反論され、一蹴されてしまうだろう。次第に、この老婆は体が老いているだけの子どもなのではないかとの錯覚がぼくの内で起こり、その錯覚にあまりにふさわしく、最後の場面で老婆はオペラ歌手の大きな乳房を口に含んだ。「土の下」=死というモティーフは、いまここでそのモティーフを上演するリアルな限りある身体に対する思いを強くさせた。けれども、その目の前の身体とて、身体というもののイメージの媒体でしかない。

2009/02/06(金)(木村覚)

We dance:神村恵「Seeing is believing.」

会期:2009/01/31~2009/02/01

横浜市開港記念会館[神奈川県]

ソロ作品。冒頭、南米の民謡が流れると神村は、まっすぐ前を向いた状態で舞台奥から斜め前へとステップを踏んでゆく。そんななんでもない動作がとてつもなくおかしく笑わずにはいられないのは、音楽と神村の身体とが等価の存在感をもって舞台に並置されているからだろう。互いが無関係を装ってすましているといった調子で、そんな両者の配置自体がダンスなのである。シンプルな振りが続く。ヘッドバンキングのようになる振りでは、顔が過剰に紅潮する。かっこつける身ぶりが希薄で、そのために、身体はダンサーの所有物というよりも、単にものとして扱われていると感じる。すべてが他との距離をもっている。クールなのだ。だからこそ、観客はその距離のあり方に心奪われ、望まずして爆笑させられてしまうのである。
We dance:http://wedance-offsite.blogspot.com/
神村恵:http://ameblo.jp/kamimuramegumi/

2009/02/01(日)(木村覚)

川染喜弘/ツポールヌa.k.a. hot trochee「(音がバンド名)presents」

会期:2009/01/26

円盤[東京]

magical, TVで不完全燃焼だった小林亮平を再度見たくて、川染喜弘と組む(音がバンド名)の自主企画へ。それぞれのソロ。観客数は10人弱と少ないが、きわめて衝撃的な上演だった。
ツポールヌa.k.a. hot troche(小林亮平)は、終始、背中を向け、しゃがんだままマイク越しに「あれ?」とか言っている。もうはじまっている? 1時間の上演の9割は、機材のコンセントを探したり、接触の具合を直したりに費やされる。しっかり準備しておけよ!と非難するのはお門違い。なぜなら彼(ら)のパフォーマンスの真髄は準備の過程に、あるいは作品と作品の間にあるのだから。爆笑のピークは、接触の悪いリズムマシーンが直るとすかさず阪神の小さなプラスティックバットでぶっ叩きつづけ、また音が止まると「あれ?」と直す瞬間。因果の自家中毒が生む奇怪な時間。狂気の沙汰はつづき、最後は、触れると50音の鳴る幼児用のボードを取り出し、観客と一緒にこっくりさん。失策のみの演奏が不思議と退屈でないのは「準備」がひとつのフレームになって機能しているからこそに違いない。そうしたフレームへの意識が明らかである故に、小林(や川染)の行為はアートとして評価すべきものとなっていた。
続いて登場した川染は、高いテンションで観客を煽り、このフレームを巧みに観客に語り出す。川染め曰く「これから即興のオペラをはじめる」と。ただし、「思い浮かんだ瞬間、ストーリーばかりか漏らした単語の1音までずたずたにカット&ペースト+エフェクトしていく」と。そこで「村」をカットし代わりに床に落ちていた「ビニール」をペースト。「銃声」をカットし「ヘリコプター音」をペースト。これをひとり全身で実行。音楽的なアイディアが演劇をラディカルに変容させる。とはいえ、きれいにまとまるどころか延々とリハーサルとも上演ともつかぬ時間が止まらない。途中で、発泡酒を煽ると「カンフー少女」が暴れ出すという突拍子のないレイヤーが差し込まれた。とっさに浮かぶ思いつきとそれをとっさに加工・解体する、その連続。
これは、完成を拒んで、行為する身体とはいったいなんなのかを問い、問うて遊ぶゲームである。川染と小林はぼくの知る限り、いまもっとも根本的かつキュリアスかつキュートなパフォーマーだ。

2009/01/26(月)(木村覚)

島袋道浩「美術の星の人へ」

会期:2008/12/12~2009/03/15

ワタリウム美術館[東京]

「やるつもりのなかったことをやってみる」の文字が大きく白い壁に描かれてあって、それは、観客への作品案内のようで実は指令(インストラクション)。NYのビルボードに「WAR IS OVER」と掲げたオノ・ヨーコに似ているなと思う。ただし、島袋が観客に告げるのは、イマジンというより実感してみよ。例えば、上記した文字の下にはゴルフのできる囲いがあって、実際にスイングしてみよ、というのだ。美術館にないはずのゴルフ場で、思いもかけずスイングする経験。島袋は、観客に実行を誘い、自分もそれを実践する。イタリアでタコ壺を制作して現地の海で漁に挑み、また別の浜辺で自分を描いた等身大の凧を上空に揚げてみる。ほかにも、床に置いた箱がないはずの口でしゃべり出すとか、非常階段をめぐると象の背中を写した写真が見えて、さらに上ると不意に青山で象の鳴き声が響くとかがあった。本展覧会のために制作された写真集『象のいる星』は300円、普段は路上で『ビッグイシュー』を売るおじさんが美術館の出口で販売していた。話すはずのないおじさんと話し、買うはずのない『ビッグイシュー』も購入。今日の作家の大事な仕事は、こうしたちょっとした入れ替えの仕掛けをつくることにある?なんて思いながらぼくは帰りの電車で、象のいない青山の風景写真に象の存在を実感しようと写真集を繰った。
島袋道浩「美術の星の人へ」:http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

2009/01/25(日)(木村覚)

山内圭哉(脚本・演出・主演)「パンク侍、斬られて候」

会期:2009/01/20~2009/02/01

本多劇場[東京]

学生に誘われたまたま見た。なるほど大衆芸術としての演劇とはこうしたものかと思わされる。町田康の同名小説が原作。愚行をつづけこの世の糞とみなされ排出(殺害)されることで、この世の嘘から自由になろうとする「腹ふり党」と、その力を借りて権力闘争を画策する者たち、また彼らに仕える侍たちが織りなす面白おかしい、ときにグロテスクな芝居。
山内扮するパンク侍を中心にあっという間、前半の90分が過ぎる。山内の飄々とした台詞回しがなんとも絶妙。台詞回しばかりではない、ギャグのテイストやいざ殺陣のシーンになるとCG映像へ転換するやり口など、いちいちの仕掛けがことごとく的確で、そのなかに今日の本国の政治に対する揶揄を溶け込ませるなんてスパイスも忘れない。爆笑/失笑の連続に、まるで自分の心が分析尽くされているような気にさせられる。マッサージチェアー?いや、もう、これはほとんど人間科学。と感心しつつ、次第に狙われたツボがお約束過ぎとも思いはじめた後半、「腹ふり党」の踊りが狂気を帯びた暴走と化し、世界が混沌としてくる。混沌の行く先は判然としないまま、さきほどまでの心地よさはかき消され、舞台の激しさに笑いつつ戸惑ううち終幕となった。

2009/01/21(水)(木村覚)