artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
植本一子『フェルメール』
発行所:ナナロク社/Blue Sheep
発行日:2018/10/05
植本一子は一般的には写真家というよりは『かなわない』(2016)、『降伏の記録』(2017)などのエッセイ集の作者として認知されている。僕自身もそんなふうに思っていた。だが新作の『フェルメール』を手にして、彼女がとてもいい写真家であることをあらためて認識した。
植本は編集者の「草刈さん」と「村井さん」、デザイナーの「山野さん」とともに、世界中に点在するフェルメールの全作品、35点に「会いにいく」旅に出る。2018年3月20日〜26日および同年5月9日〜16日に、オランダ、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館からアメリカ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館まで、17カ所の美術館を巡り、現存するすべてのフェルメールの作品を撮影した。この撮影旅行が、どんな動機と目的で行なわれたかについての詳しい説明は最後までない。だが、掲載された写真を見て「旅の記録」として綴られた撮影日記を読むと、あえてそのことを詮索する必要もないように思えてくる。
植本は「末期ガンで入退院を繰り返していた」夫を亡くしたばかりで、この仕事が「新しい旅」へのスタートとなった。撮影にあたって、デジタルかフィルムのどちらで撮影するか迷いに迷って、結局フィルムに決める。本書の図版ページには、フェルメールの作品だけでなく、絵を見る観客たちの姿や旅の途中のスナップも挟み込まれ、そのことによって、旅のプロセスが立体的な膨らみを伴って浮かび上がってくる。写真と文章とを行きつ戻りつすることで、読者はあらためてフェルメールの絵の魅力に気づくとともに、ひとりの表現者の再出発に立ち会うことになる。判型は小ぶりだが、写真家としての次の仕事もぜひ見てみたいと思わせる、極上の出来栄えの写真集だった。
2018/11/02(金)(飯沢耕太郎)
TOKYOGRAPHIE 2018
会期:2018/10/26~2018/12/25
フジフイルム スクエアほか[東京都]
毎年春に京都を舞台に開催されている「KYOTOGRAPHIE」(京都国際写真祭)も今年で6回目を迎え、国際的な写真フェスティバルとして定着しつつある。今回、都内の各会場で開催された「TOKYOGRAPHIE」は、その「KYOTOGRAPHIE」の「SPECIAL EDITION」という位置づけのイベントである。オープニングプログラムとしてフジフイルム スクエアで開催された「深瀬昌久 総天然色的遊戯」展をはじめとして、小野規、ギデオン・メンデル、リウ・ボーリン、ジャン=ポール・グード、宮崎いず美らの展示は、いずれも今年の「KYOTOGRAPHIE」で開催された展覧会の再構成、あるいは縮小版であり、京都に足を運んだ者にとって新味はない。むろん、東京で初めて展示を見る観客にはありがたいイベントだが、できればもう少し独自の企画に力を入れてほしかった。
「TOKYOGRAPHIE」で初めて見ることができたなかでは、林道子の「Hodophylax~道を護るもの~」と関健作の「GOKAB~HIPHOPに魅了されたブータンの若者たち」(どちらもフジフイルム スクエア)が面白かった。林と関は、「KYOTOGRAPHIE 2018」のポートフォリオレビューで大賞と特別賞を受賞しており、このような形で作品のお披露目ができたのはとてもよかったと思う。ニホンオオカミ(Hodophylaxはその学名)と日本人との関わりを文化史的に跡づけていく林の作品も、ブータンの若者たちの生き方を思いがけない角度から浮かび上がらせた関の作品も、ドキュメンタリー写真の新たな方向性を示す力作であり、会場構成もきちんと練り上げられていた。まだいろいろな可能性がありそうなので、今回だけでこの企画を終わらせるのではなく、来年以降もぜひ続けて開催していただきたい。
2018/10/27(土)(飯沢耕太郎)
阿部淳「白虎社」
会期:2018/10/09~2018/10/27
阿部淳は、ビジュアルアーツ写真学校・大阪で教鞭をとりながら、都市の路上でスナップ写真を撮影し続けてきた。また自ら運営するVacuum Pressから多くの写真集を刊行し、そのうちの『市民』『黒白ノート』『黒白ノート2』で、2013年に第25回写真の会賞を受賞している。その阿部が、1982年から94年にかけて、大須賀勇が主宰する舞踏グループ、白虎社のスタッフカメラマンを務めていたことは、あまり知られていないのではないだろう。今回のThe Third Gallery Ayaでの個展では、1982年11月の「白虎社東南アジア舞踏キャラバン隊インドネシア巡業」に同行して、バリ島で撮影された写真をはじめとして、当時のヴィンテージ・プリントと、2013年に制作されたという大伸ばしのプリント2点が展示されていた。
阿部の都市のスナップ写真は、日常の光景に目を向けながら、そこから霊的な気配とでもいうべき非日常性を浮かび上がらせるところに特徴がある。白虎社の写真群はその真逆で、非日常的な空間を日常の最中に強引に接続し、祝祭的な異化効果を生み出す踊り手たちの姿を平静な視線で定着している。つまりそこには、引き裂かれつつどこか繋がっている阿部のふたつの視点があらわれているわけで、白虎社の写真をあらためて見直すことで、彼の写真の世界を別の角度から読み解くこともできそうだ。雑誌等に一部掲載されたことはあるが、これらの写真群は、1994年以来はじめてまとまった形で展示されるのだという。さらなる掘り起こしを期待するとともに、ぜひ写真集としてもまとめてほしい。
2018/10/25(木)(飯沢耕太郎)
岩根愛「KIPUKA」
会期:2018/10/24~2018/11/06
銀座ニコンサロン[東京都]
岩根愛は、2006年頃から「ハワイにおける日系文化」に強い関心を抱くようになり撮影を続けてきた。その成果をまとめたのが本展であり、青幻舎から同名の写真集(デザイン=町口覚)も刊行された。
岩根が目をつけたのは、ハワイにおける盆踊りの伝統である。ハワイ・マウイ島のパイア満徳寺で最初の盆踊りが開催されたのは1914年であり、その時流れたのは相馬盆唄を元にした「フクシマオンド」だった。ハワイ移民のなかに福島県出身者が多かったためのようだ。岩根は東日本大震災以後、福島県三春町にも撮影の拠点を置くようになったが、その福島の盆踊りを、ハワイ各地の「ボンダンス」と対比するように撮影して、会場を構成している。盆踊りはいうまでもなく、地上に降りてきた祖霊を慰めるために行なうものだが、岩根の写真群には「土から目覚めた、自分に連なるものに呑み込まれ、一体となる」という、その根源的な体験が写しとられており、魂が互いに呼び合うような声なき声を感じとることができた。タイトルの「KIPUKA」とは、溶岩の焼け跡に生えてくる植物のことであり、「再生の源となる『新しい命の場所』を意味するハワイ語」だという。ハワイとフクシマのというふたつの場所を「KIPUKA」のイメージで結びつけようとする意欲的な試みである。
ただ、奥の壁に貼られた2枚のパノラマ写真、溶岩の上の日系人墓地と、フクシマの廃墟とで、会場があまりにもくっきりと二分化されており、作品を意味づけ、方向付けしていく力がやや強すぎるようにも感じた。もう少し大きな会場で、写真の点数も多くなれば、もっと多様に枝分かれしていくハワイ、フクシマ体験の細部を味わうことができるのではないだろうか。なお本展は11月21日~12月3日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2018/10/24(水)(飯沢耕太郎)
福永一夫「“ARTIST:1989-2018” 美術家 森村泰昌の舞台裏」
会期:2018/09/29~2018/10/21
B GALLERY[東京都]
福永一夫は京都市立芸術大学在学中の1980年に、同大学教授のアーネスト・サトウが指導する映像教室の講義を受けるようになった。そこで非常勤講師をしていた森村泰昌と出会い、同大学大学院を卒業後、商業写真家の助手を経て独立してから、そのセルフポートレート作品の制作に深く関わるようになる。いわば福永と森村は、写真作品の根幹となる画面構成のあり方について、アーネスト・サトウの教えを共有しており、そのことが互いに信頼感を持つことにつながっていったことは間違いない。
福永は、森村のセルフポートレート作品を最後の一押しで完成させる役目を持つ一方で、その舞台裏の光景を小型カメラでスナップし続けてきた。今回の展示は、2012年の「芸術家Mの舞台裏:福永一夫が撮った“森村泰昌”」展の続編にあたるもので、「なにものかへのレクイエム」シリーズを中心とした前回よりも、年代的にも内容的にも、より幅の広い作品を出品している。それらは単なる「舞台裏」の記録という以上に、福永のシャッターチャンスや画面構成に対する美意識の発露というべきものであり、彼の写真家としての力量が十分に発揮されていた。同時にそれらが、30年以上にわたって他者に変身するという特異なパフォーマンスに心身ともに没入してきた森村を、思いがけない角度から照らし出す、貴重な「ドキュメント」としての意味を持っていることはいうまでもない。
本展の最終日である10月21日に開催された福永、森村、そして筆者によるトークは、まさに以心伝心というべきアーティストと写真家との関係のあり方が、生々しい裏話も含めて披露され、非常に興味深いものとなった。なお、展覧会に合わせて、ビームスから同名の写真集が刊行されている。
2018/10/21(日)(飯沢耕太郎)