artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
中村紋子「光/Daylight」
会期:2018/08/10~2018/08/26
Bギャラリー[東京都]
中村紋子のBギャラリーでの個展は4年ぶり4回目になる。2008年以来、絵画作品と写真作品をコンスタントに発表してきたが、東日本大震災後の2011年5月に自らの死生観に向き合った「Silence」を発表して以来、写真の表現からはやや距離を置き、被災地での活動や知的障がい者との関わりなどに力を入れてきた。ひさびさの写真作品の発表となった今回の個展では、新作の「Daylight」のシリーズを中心に展示していた。
「Daylight」は「Silence」「Birth」に続く「3部作」の締めくくりにあたるシリーズで、障がい者や新生児を含むポートレートと、「場所」の写真がセットになるように並んでいた。中村はそれぞれの人物を照らし出す光のあり方を注意深く観察しながらシャッターを切っており、「この人はこのように在るべきだ」という確信が、以前にも増して強まっているように感じる。独りよがりな解釈ではなく、被写体の存在のありようをストレートに受け入れることができるようになったことで、表現に安定感が備わった。17歳の頃から構想していたという「3部作」は、これでひとつの区切りを迎えるということになる。
会場の最後のパートには、ひと回り大きめにプリントされた写真が5枚ほど壁に直貼りしてあった。それらがいま進行中の新たなシリーズ、「光」の一部なのだという。「光」がどんなふうに展開していくのかは、まだ明確には見えていないが、都市のイルミネーションやデモ隊の写真など、これまでとは違った「客観的」「物質的」な感触の写真が含まれている。どちらかといえば内向きだった中村の写真の世界が、外に大きく開いていきそうな予感がする。次作の発表は意外に早い時期になりそうだ。なお、展覧会にあわせて写真集『Daylight』(Bギャラリー)が刊行された。
2018/08/11(土)(飯沢耕太郎)
加藤俊樹「失語症」
会期:2018/08/04~2018/08/31
公益財団法人日産厚生会 玉川病院[東京都]
1965年、岐阜県生まれの加藤俊樹は、写真雑誌の編集の仕事を経て2008年からカメラメーカーに勤務していた。ところが2012年に急性の脳出血を発症し、以後長く療養生活を送るようになる。失語症のために「自分の名前も言えず、平仮名も読めなく」なったのだという。その後、週2回の通院とリハビリによって症状は回復し、2014年5月には復職することができた。今回、通院先だった玉川病院内のレストランの外壁を使って展示された写真群は、そのリハビリの期間中に撮影されたものである。
写真に写っているのは、ソファ、鏡、窓、植物など、自宅や病院の行き帰りに目にしたものがほとんどである。花火や自分の手を写した写真もある。まず目につくのは、光に対する鋭敏な反応だろう。まさに光を物質として捉え、撫でたり触ったりするようなあり方を見ると、加藤が写真を撮るという行為の「原点」を、もう一度辿り直しているのではないかと思えてくる。よく知られている例でいえば、急性アルコール中毒による記憶喪失から復帰した中平卓馬と共通する写真への取り組みといえる。加藤は写真雑誌の編集長を務めていたほどだから、写真の「撮り方」はよく知っていたはずだ。だが、失語症によってそのようなルールが一切無化された状況下で、もう一度ゼロから写真行為を組み上げていこうとするもがきが、このシリーズに異様なほどの緊迫感、みずみずしい生命力の漲りをもたらしている。
写真展のコメントとして、以下のように記されていた。「心は言葉か? 心は絵か? 心は脳CTか? 心は写真か?」。たしかに、さまざまな問いかけを呼び起こす写真群である。すでにPLACE Mで一度展示されているシリーズではあるが、もうひと回り規模を拡大して、多くの観客に見てもらう機会を持ちたい。写真集の刊行もぜひ考えてほしいものだ。
2018/08/10(金)(飯沢耕太郎)
渡辺眸「東大全共闘1968-1969 続 封鎖の内側」
会期:2018/07/13~2018/08/04
nap gallery[東京都]
渡辺眸が全共闘の学生によって封鎖されていた東京大学安田講堂のバリケード内で撮影した写真集『東大全共闘1968-1969』(新潮社、2007)が、角川ソフィア文庫から未発表作品も含めて復刊された。今回のnap galleryでの個展はその出版に合わせてのもので、これまでの同テーマの展覧会では最多の、40点以上が出品されていた。
あらためて渡辺の写真を見直して、この「東大全共闘」のシリーズは、むろんあの激動の時代の貴重な記録として重要だが、それ以上に彼女の独特の眼差しの質を体現した写真群であると感じた。写真のなかには、渡辺の友人の夫だった元・東大全共闘代表の山本義隆をはじめとして、闘争中の学生たちの姿が数多く写り込んでいる。だが、むしろ目につくのは、彼らの周辺に散乱し、増殖していくモノたちの様相である。謄写版、ヘルメット、旗、壁や床を引き剥がした瓦礫、バリケードの材料として使用された机や椅子──渡辺はそれらのモノたちの感触を確かめるように、ゆっくりと視線を移動させ、そのたたずまいを丁寧に写しとっていく。結果として、東大全共闘がもくろんでいたのが、政治体制だけではなくモノや風景の秩序に対する叛乱でもあったことが、写真から確実に伝わってきた。
渡辺のそのユニークな視点を可能としたのは、彼女が観念的にではなく、あくまでも身体的、生理的な反応としてシャッターを切っていたからだろう。一見、非日常的に思えるバリケードのなかにも、多様で豊かな日常の光景が広がっていたことを、渡辺の写真を見ながら追体験することができた。
2018/08/03(金)(飯沢耕太郎)
杉浦邦恵「うつくしい実験 ニューヨークとの50年」
会期:2018/07/24~2018/09/24
東京都写真美術館2階展示室[東京都]
1942年、名古屋生まれの杉浦邦恵は、1963年にお茶の水女子大学物理学科を中退して渡米し、シカゴ美術館付属のシカゴ・アート・インスティテュートに入学する。杉浦が師事したケネス・ジョセフソンはインスティテュート・オブ・デザイン(ニュー・バウハウスの後身)でハリー・キャラハンやアーロン・シスキンに学んだ実験的なスタイルの写真家であった。杉浦は彼の影響を受けて室内のヌードモデルを魚眼レンズで撮影し、フォトモンタージュなどの技法を駆使して画面に構成した写真作品「孤(Cko)」を制作する。1967年には、シカゴからニューヨークに移転し、カンヴァスに感光乳剤を塗って写真を焼き付け、アクリル絵具による抽象的なドローイングと合体した、「フォトカンヴァス」のシリーズを制作・発表するようになった。
杉浦の代表作といえば、1980年代以降に制作し始めた「フォトグラム」作品を思い浮かべる。だが、日本での最初の本格的な回顧展となる今回の「うつくしい実験」展を見て、シカゴ時代、あるいはニューヨーク時代の初期に制作された「孤」や「フォトカンヴァス」のシリーズが、じつにみずみずしく、魅力的な作品であることに気づいた。たしかに、コンセプトを重視する「シカゴ派」の写真作品や、当時流行していたポップ・アートの影響は感じられる。だが、若い日本人女性アーティストが、身の回りの事象に好奇心のアンテナを伸ばし、作品化していくプロセスがしっかりと組み込まれていることで、共感を呼ぶ作品として成立していた。
そのような、のびやかで流動的な作品づくりの流儀は「フォトグラム」作品にもそのまま活かされている。そこから、飼い猫が暗室内の印画紙の上で戯れる様子をそのまま定着した《子猫の書類》(1992)のようなユニークな発想の作品も生まれてきた。1999年以降に制作された「アーティスト、科学者」のシリーズでも、モデルとの親密な関係をベースにしながら、即興的に画面を組み上げていくやり方をいきいきと実践していった。
50年以上にわたるシカゴ、ニューヨークでの生活に根ざした杉浦の作品世界は、ほかの追随を許さない領域に達している。だが、それらは孤高の高みというよりは、親しみやすく、とてもオープンな印象を与える。2009年から日本各地で撮影されているという「DGフォトカンバス」のシリーズを含めて、その柔らかな感受性は、これから先も写真という表現メディアの特性を活かして、さまざまな方向に伸び広がっていきそうだ。
2018/08/02(木)(飯沢耕太郎)
宇田川直寛「パイプちゃん、人々ちゃん」
会期:2018/07/18~2018/08/10
ガーディアン・ガーデン[東京都]
とても刺激的で面白い展示だった。宇田川直寛は2013年の第8回写真「1_WALL」展のファイナリストで、今回は同展のグランプリ受賞者以外の作家による「The Second Stage at GG」の枠での展覧会である。にもかかわらず、本展は「写真展」ではない。宇田川は、「写真家と名乗る俺」がよく撮影する「パイプちゃん」(鉄パイプ)という被写体の意味、またそれを作品化するというのはどういうことなのかを問い詰め、あえて写真作品を展示しないやり方を取ることにしたのだ。
会場に並んでいるのは、「観測者」である「人々ちゃん」たちに、パイプを取り扱う「ルール」を考えてもらい、その「ルール」に従って制作している過程を彼が撮影した映像を流す10台のモニター、実際に制作作業に使用した平台(彼のアトリエに常備してある)、「人々ちゃん」たちがつくったルールを別の第三者に伝え、それに従って石膏やパイプで再制作してもらった作品などである。「ベニヤ板と単管パイプ」という基本的な組み合わせが、「木の枝と石、ラップとクランプ」、「長い草と短い草」という具合に読み替えられ、最後はルールづくりのコミュニケーションのあり方を問題にして、電話による指示を聞きながら作業するという段階にまで至る。作品制作のプロセスそのものがテーマなのだから、できあがった「作品」は見せる必要がないし、写真による記録も視点の固定化を促すという理由で潔癖に排除されている。宇田川の思考と実践の往復運動が、会場構成にもよくあらわれていて、とても見応えのある展示が実現していた。
だが、今回の試みの最大の弱点は、作品の重要なファクターである「人々ちゃん」が、宇田川の周囲の、コミュニケーションしやすい仲間たちに限定されていることだろう。そうなると、次に何が出てくるかわからないスリリングな展開はあまり期待できなくなる。もっと異質な「人々ちゃん」──例えば子ども、外国人、障がい者などにも作品制作のプロセスを開いていくことで、「パイプちゃん」の変容はより加速するのではないだろうか。
2018/08/01(水)(飯沢耕太郎)