artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

寺門豪「PARADISE」

会期:2018/08/29~2018/09/11

銀座ニコンサロン[東京都]

寺門豪は1976年、栃木県生まれ。2008~09年に東京・四谷のギャラリーニエプスの運営に参加している。今回、銀座と大阪のニコンサロンで開催された「PARADISE」は、気持よく目に飛び込んでくる写真群で構成された、クオリティの高い展覧会だった。会場には「人間が消えた世界を想像しながら、無人の風景を撮影」した縦位置のカラー写真、約60点が並ぶ。すべて2014~18年に首都圏で撮影されたもので、そのなかには旧国立競技場の跡地、建設中の豊洲市場、いじめによる殺人事件の現場となった河原など、「社会的な出来事の舞台になった場所」も含まれている。感情移入を排したそっけない撮り方だが、ここ数年間に東京とその周辺を覆い尽くそうとしている、鬱陶しい空気感がじわじわと伝わってくるように感じた。

ただ、2枚の写真を1枚の印画紙にプリントして並置する会場構成が、うまくいっているかどうかは微妙だ。寺門の意図としては「個々の風景に没入するのではなく、それぞれを相対化」するということのようだが、むしろ2枚の写真の相互関係が気になってしまう。時折、1枚の写真だけをフレームに入れて展示しているのも、やや不徹底な印象を与える。また、「①人間の不在、②過去の消失、③場所の変質」を経て、そこから出現してくる世界を「PARADISE(楽園)」と呼びたいというコメントもあったが、ではなぜそれが「PARADISE」なのかという理由も明確ではない。コンセプトを形にしていくプロセスを、もう少し丁寧に追求していくと、より見応えのある作品に成長していきそうだ。

2018/09/04(飯沢耕太郎)

立木義浩「Yesterdays 黒と白の狂詩曲(ラプソディ)」

会期:2018/09/01~2018/09/29

CHANEL NEXUS HALL[東京都]

会場に掲げてあった立木義浩のコメントは以下のように書かれていた。

「ここには『世の大事』は写っていない。スナップは今(時代)を呼吸しながら撮るものだ。頭のなかで熟成したイメージを再現するものではない。」

たしかにその通りだが、では行き当たりばったりに街に出て、目についた被写体にカメラを向ければ、それでいいスナップ写真が撮れるかといえばそうではないだろう。スナップ撮影には、むろん優れた動体視力と撮影機材を正確に使いこなす能力が必要だが、それ以上に「イメージの熟成」が不可欠なのではないだろうか。この場合の「イメージ」とは、空からつかみ出すようなものではなく、長年の経験に裏づけられた、事物がこのように配置されているべきだという精妙かつ流動的な確信である。そのような「イメージ」と現実の場面とが交錯し、スパークする時に、上質のスナップ写真特有の冴え渡った画面構成が生じてくることは、アンリ・カルティエ=ブレッソン以来のスナップの名手たちの仕事が教えてくれることだ。

立木義浩もまた、写真家として本格的に活動し始めた1950年代末以来、スナップ撮影の実践に磨きをかけ、その本質を探求し続けてきた。むろん彼には、ポートレート、ファッション、ヌード、ドキュメンタリーなど、多彩な領域にまたがる優れた仕事がたくさんあるのだが、スナップ写真こそ、それらの写真を支えるベースになってきたことが、今回の展示を見てよくわかった。広々とした開放的な雰囲気の空間に、6×6判のモノクローム写真(女性モデルを街で撮影した「フォト・セッション」も含む)を中心に、縦位置の大判カラー写真を配し、心地よく耳に残るジャズのスタンダードナンバーを流した会場構成も見事に決まっていて、贅沢な気分を味わわせてくれる写真展になっていた。

2018/09/04(飯沢耕太郎)

深瀬昌久『MASAHISA FUKASE』

発行所:赤々舎

発行日:2018/09/13

2012年に死去した深瀬昌久に対する注目度は、このところ国内外で高まりつつある。その理由の一つは、さまざまな事情で、彼の本格的な回顧展や、初期から晩年までの作品を集成した写真集が実現してこなかったためだろう。断片的にしか作品を見ることができなかったことで、驚くべき執着力で自己と世界との関係のあり方を探求し続けてきたこの写真家が、いったい何者であり、どこへ向かおうとしていたのかという興味が、否応なしに強まってきているのだ。

今回、深瀬昌久アーカイブスのトモ・コスガが編集し、ヨーロッパ写真美術館のディレクター、サイモン・ベーカーが序文を執筆して刊行された『MASAHISA FUKASE』は、まさにその期待に応える出版物といえる。日本語版は赤々舎から出版されるが、Editions Xavier Barralから英語版/仏語版も同時に刊行される。ただしこの写真集が、内容的に大きな問題を孕んでいることは否定できない。1950年代に深瀬が故郷の北海道美深町で撮影した初期作品「北海道」から始まり、「豚を殺せ」、「遊戯-A PLAY-」、「烏」、「家族」、「父の記憶」、「私景」などの代表作を含む写真集の構成は、一見過不足ないものに思える。だが、そこには重要な写真群が抜け落ちている。深瀬が1964年に結婚し、76年に離婚した深瀬洋子を撮影した写真が、すべてカットされているのだ。

いうまでもなく「洋子」の写真群は、深瀬の写真家としての軌跡を辿る上で最も重要な位置にあるもののひとつであり、これまでの展覧会や写真集でも幾度となく取り上げられてきた。にもかかわらず、今回の写真集からそれらが抜け落ちたのはとても残念だ。むろん、深瀬が作家活動の最後の時期に取り憑かれたように制作していたというドローイング作品など、未発表作が掲載されていること含めて、本書の刊行の意義はとても大きい。今後、肖像権などの問題が解決し、完全版の写真集が刊行されることを願っている。

[編集部注]表現の一部を訂正しました。(2022年12月26日)

2018/08/31(金)(飯沢耕太郎)

たけうちかずとし「妄想植物園」

会期:2018/08/10~2018/08/23

ソニーイメージングギャラリー銀座[東京都]

たけうちかずとしの写真作品を初めて見たのは、2016年の第5回田淵行男賞の審査の時だった。その時に特別賞(フォトコン賞)を受賞した「五分の魂」は、さまざまな昆虫をオブジェに見立てて構成した作品である。今回の野菜や果物や野草をモチーフにした「妄想植物園」はその続編というべき仕事だが、彼のユニークな発想と高度な技術力はそのまま活かされていた。例えば「ナルシスト」の水仙はブランコに揺られ、西瓜は「遠い星からやって来た宇宙船」に仕立てられている。赤い実のミズヒキを「水引」に見立てるというしゃれた発想の作品もある。30点の作品のそれぞれが詩的な小宇宙として見事に自立しており、しかもそれらが相互に結びついて気持ちのいいハーモニーを奏でていた。今回はタイトルやキャプションは最小限に抑えられていたが、作品の一つひとつに散文詩のような言葉が付いていても面白いかもしれない。

たけうちの写真のスタイルは、日本ではどちらかといえば異端と見られがちだ。だが、ヨーロッパなどではもっと高い評価を受けそうな気がする。ギャラリーが銀座4丁目という絶好の場所にあるので、観客の多くが外国人観光客なのだが、特にイタリア人から熱烈な反応が返ってきたと聞いた。たけうちは、今後も「自然物をアート化」した作品をライフワークとして発表していく予定で、昆虫、植物の次は動物を考えているという。これまでより、大きさや動きという点でハードルの高いテーマだが、もしそれが実現すればさらにスケールの大きな作品になっていくのではないだろうか。

2018/08/22(水)(飯沢耕太郎)

天野裕氏「鋭漂」

会期:2018/08/01~2018/08/30

kanzan gallery[東京都]

福岡県大牟田市出身の天野裕氏(あまの・ゆうじ)は、2009年に塩竈フォトフェスティバルで大賞を受賞する。それ以来、彼自身が「鋭標(えいひょう)」と名づけた、とてもユニークなやり方で作品発表を続けてきた。天野が手作りした写真集を全国のさまざまな場所に持ち歩き、Twitterなどで日時と場所を指定して、一定の料金を支払った上で希望者に観賞してもらう。写真集を見る場所は喫茶店、公園、車の中などであり、作者と観賞者とが一対一で同じ時間と場所を共有することが前提となる。実際に僕自身も、新宿の喫茶店で天野と対面しながら写真集を見たことがあるが、その雰囲気が、当初予想していたよりもオープンで風通しのいいことが分かってややほっとした。何よりも凄いのは、これまで3000人以上にそうやって写真を見せているということで、人数を考えると、これは写真集という表現媒体の可能性を最大限に展開・拡張していく、最良の方法のひとつであるようにも思える。

さて、今回のkanzan galleryでの「鋭漂」は、天野のいつものやり方とはかなり違っていた。会場のテーブルには、彼がこれまで制作してきた5冊の写真集『Rirutuji』(2009)、『Arga』(2011年)、『Luzes』(2012)、『Korm』(2013)、『Lust Nights』(2017)が置かれ、観客はそれぞれ1冊につき1000円の観覧料を払って自由に(混み合う時には入場制限あり)見ることができる。天野が会場にいることもあるようだが、僕が行った時には不在だったので、より気楽にページを繰ることができた。あの一対一の濃密な時間を味わうことはできなかったわけだが、逆にこれはこれで新たな視覚的体験の可能性を秘めているのではないだろうか。

出品された5冊を観賞してあらためて感じたのは、天野の写真家としての表現能力がとても安定しているということだ。どの写真集もよく練り上げられた構成で、特にシークエンス(連続画面)が効果的に使われている。だが、10年近く同工異曲の「私写真」のスタイルを維持し続けていることに対してはやや疑問も残る。そろそろ写真集作りの土台を再構築していく時期にきているのではないだろうか。今回の「展示」は菊田樹子のキュレーションによる連続展「Emotional Photography」の一環として開催された。「『感情』『情動』をキーワードに、写真を撮る・見るという行為を考察する」という展覧会シリーズの第1回目にふさわしい展示だったと思うが、逆に天野の写真に本来備わっている論理性、倫理性を軸にした写真集も見てみたい。

2018/08/17(金)(飯沢耕太郎)