artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

みくになえ「glare」

会期:2018/11/14~2018/11/25

72 Gallery[東京都]

みくになえの写真展のタイトルになっている「グレア現象」というのは、「車のヘッドライトの光が重なる時、人の姿が見えなくなる」状況を指す言葉だという。みくには、自動車教習所で免許取得の講義を受けている時に教科書でこの言葉を知り、強いインスピレーションを受ける。そこから「ヘッドライトの光が重なる時、失われた魂が再び浮かび上がることもあるんじゃないか」と妄想を膨らませて制作を開始したのが、今回の出品作「glare」である。

みくにの作品は、筆者も審査員のひとりである第34回東川町国際写真フェスティバルの「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」でグランプリを受賞して、今回の個展が実現した。だが、今年8月の受賞時にはまだ作品のクオリティが不十分で、実際に展示ができるかどうかが危ぶまれていた。その後、カメラを精度の高い一眼レフに変え、連続撮影などの手法も取り入れ、さらにスライド上映や展示の仕方もブラッシュアップすることで、見応えのある展示が実現した。あくまでもカメラの機能に身を委ねて、「人の姿が見えなくなる」という現象そのものを定着した写真群は、意図的な「絵作り」を禁欲的に避けることで、逆に観客のイマジネーションを喚起する魅力的な作品として成立していた。ユニークな思考力と実践力とを併せ持つ写真作家の登場といえるだろう。

多摩美術大学芸術学科出身のみくになえには、制作行為をきちんと言語化できる能力も備わっている。今後はそれを活かして、テキストと写真(映像)とを融合させた作品に向かうことも考えられるのではないだろうか。

2018/11/17(土)(飯沢耕太郎)

主観主義写真における後藤敬一郎

会期:2018/11/14~2018/12/01

スタジオ35分[東京都]

日本では「主観主義写真」と称されるSubjective Photographyの理念は、1950年代にドイツのオットー・シュタイネルトが提唱して世界中に広がった。現実世界をそのまま忠実に再現・描写するのではなく、写真家の主観性、創造性を強調する彼の主張は、第二次世界大戦前の実験的、前衛的な写真のあり方を、戦後に再び再構築しようとする試みであった。日本では1956年に日本主観主義写真連盟が結成され、『サンケイカメラ』主催で国際主観主義写真展が開催されている。

名古屋在住の後藤敬一郎もその有力作家のひとりで、同時期に、抽象的なオブジェや風景写真を盛んに発表していた。もともと、後藤は日本におけるシュルレアリスムの拠点のひとつであった名古屋で、戦前から前衛写真家としての活動を続けており、戦後は1947年に高田皆義、山本悍右らと写真家グループ「VIVI」を結成するなど、「リアリズム」が主流だった当時の写真界にあって異彩を放つ存在だった。今回の「主観主義写真における後藤敬一郎」展は、1970年代まで旺盛な創作意欲を発揮し続けた彼の、1950年代の活動を中心としたもので、当時のヴィンテージ・プリントのほか、ネガから新たにプリントした未発表写真も多数展示されていた。

スタジオ35分では、以前にも日本主観主義写真連盟のメンバーのひとりだった新山清や大藤薫の展覧会を開催しており、 今後も「主観主義写真」にスポットを当てた展示を企画していくという。これまでは、戦前の「前衛写真」への郷愁といううしろ向きのベクトルで捉えられがちだった「主観主義写真」だが、国際主観主義写真展には大辻清司、石元泰博、奈良原一高らも出品しており、むしろ次世代の新たな写真表現を切り拓く運動だったという見方も出ている。今後の掘り起こしをさらに期待したいものだ。

2018/11/16(金)(飯沢耕太郎)

アメリカ近代写真の至宝 ギルバート・コレクション展

会期:2018/11/09~2018/11/28

フジフイルム スクエア[東京都]

アメリカ・シカゴ在住のアーノルド&テミー・ギルバート夫妻は、1968年から集中してアメリカ近代写真のコレクションを開始した。自身もアマチュア写真家で、アンセル・アダムス、アーロン・シスキン、ブレット・ウェストンら近代写真の巨匠たちとも親交のあった彼のコレクションは、特にニュー・バウハウスを前身とするシカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン出身の写真家たちの作品を多く含む貴重なものである。そのうち1050点が、息子のジェフリー・ギルバートの斡旋で1986年に京セラ株式会社によって購入され、京都国立近代美術館に寄贈された。今回のフジフイルム スクエアでの展示は、そのなかからアメリカ近代写真の創始者のアルフレッド・スティーグリッツやポール・ストランドの作品を含む約70点を厳選したものである。

京都国立近代美術館の「ギルバート・コレクション」は質量ともに国内の美術館所蔵の写真作品の白眉と言えるが、なかなかその全貌を見る機会はない。その意味で、ダイジェスト的な展示には違いないが、その一部が東京で公開されるのはとてもありがたい。特に一般の観客にとっては、アンセル・アダムス、イモジェン・カニンガム、エドワード・ウェストンなどの大判カメラを使用した風景写真のヴィンテージ・プリントを目の当たりにする機会はなかなかないので、とても有意義な展示になった。デジタル・プリントも年々進化して、モノクロームの銀塩プリントと比較しても遜色ないレベルに達しているが、それでも黒の深みや諧調の豊かさにおいては見劣りがする。さらに、どのようにも加工できるデジタル・プリントの場合、モノクローム表現の基準をどこに置けばいいのかが曖昧になりがちだ。まさに「ザ・スタンダード」というべきアメリカ近代写真の巨匠たちの作品を、ぜひ目に焼き付けておいてほしい。

2018/11/14(水)(飯沢耕太郎)

建築×写真 ここのみに在る光

会期:2018/11/10~2019/01/27

東京都写真美術館[東京都]

19世紀半ばに写真術の発明が公表されるされると、建築物はすぐにその重要な主題となった。初期のダゲレオタイプ、カロタイプ、湿版写真などの撮影には長めの露光時間が必要だったので、人間や乗り物など、動くものを定着するのは技術的にむずかしかったからだ。建築物は静止しているので、写真の被写体としてふさわしいものだったのだ。それだけではなく、建築物の外観や内部の構造を細部まで精確に捉えるのに、写真の優れた描写力が有効に働いたということもある。写真はその点では、絵画や版画をはるかに凌駕していたのだ。

東京都写真美術館の収蔵作品を中心とした今回の「建築×写真 ここのみに在る光」展の「第1章」には、写真草創期の19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカの写真家たちが撮影した古典的な名作が並ぶ。さらに「第2章」では、第二次世界大戦後の日本の写真家たちの作品が取り上げられていた。渡辺義雄、石元泰博、村井修、二川幸夫、原直久、北井一夫、奈良原一高、宮本隆司、柴田敏雄、瀧本幹也というその顔ぶれを見ると、彼らの作風の幅がかなり広いことに気がつく。建築物に対する日本の写真家たちの解釈も、モダニズムからポスト・モダニズムまで、リアルな描写から抽象表現まで、大きく揺れ動いてきた。別な見方をすれば、建築写真の表現の変遷を辿り直すと、そこに「もうひとつの写真史」が出現してくるということでもある。例えば、北井一夫が1979〜80年に撮影したドイツ表現派の建築作品のように、被写体と写真家たちの関係のあり方を思いがけない角度から照らし出してくれる建築写真の面白さに、あらためて気づかせてくれたいい展覧会だった。

2018/11/11(日)(飯沢耕太郎)

水越武「MY SENSE OF WONDER」

会期:2018/11/06~2018/12/01

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

水越武はいうまでもなく日本の自然写真、山岳写真の第一人者であり、『槍・穂高』(1975)以来多くの写真集を刊行し、記録性と表現性とを合体させた新たな領域を切り拓いてきた。1988年末に北海道弟子屈町の屈斜路湖畔に移住し、自然と一体化した生活を営みながら写真家として活動している。彼の写真は山岳、原生林、氷河などのテーマ性をしっかりと確立し、一枚一枚の写真を厳密に選んで組み上げていくものだ。ところが、今回東京・築地のコミュニケーションギャラリーふげん社で開催された「MY SENSE OF WONDER」には、時期的にも主題的にもかなり幅の広い写真が集められていた。50年近い写真家としての経験を積み重ねるなかで、観客(読者)との写真を通じたコミュニケーションをより強く意識するようになり、エモーショナルな共感を呼び起こすような写真も積極的に取り入れるようになったということのようだ。

とはいえ彼の写真と、アマチュア写真家たちが趣味的に撮影する、いわゆる「ネイチャー・フォト」とのあいだには越えがたい距離がある。今回の展示は「人間の生活圏」で撮影された「水の音」(前期、20点)と、人間界から隔絶した自然を対象にした「光の音」(後期、20点)の2部構成で展示されていた。第1部と第2部の写真にそれほどの違いは感じられない。だがそこに一貫しているものこそ、まさに彼独自の「MY SENSE OF WONDER」なのではないかと思う。では、その「SENSE OF WONDER」とは何なのか。彼自身のコメントを引用すれば「それは自然への好奇心であり、自然の中で森羅万象に出会って驚き、感動し、それに加えて畏敬の念を持って不思議だと思う心である」ということになる。言っていることは単純と言えば単純だが、「好奇心」「驚き」「感動」「畏敬の念」を、つねに新鮮なエッジを保って発揮し続けることはそれほど簡単ではないはずだ。屈斜路湖畔の「森の生活」で鍛え上げた彼の「SENSE OF WONDER」は、いまや多様な被写体に対して融通無碍にその波動を広げつつあるのではないだろうか。

2018/11/10(土)(飯沢耕太郎)