artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

岩渕貞太『DISCO』

会期:2017/03/17~2017/03/19

あうるすぽっと[東京都]

JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)が主催する「踊りに行くぜ!!」II(セカンド)は、今年度のプログラムで一旦終了するそうだ。全国をコンテンポラリー・ダンスの上演が巡回する「踊りに行くぜ!!」は、これまで振付家を鍛え、地域にダンスを紹介する大きな役割を果たしてきた。今年度は、アオキ裕キ、山下残、黒田育世と並んで岩渕貞太の上演があって、これが凄まじいものだった。タイトルから連想される通り、アップテンポのポップソングが爆音で流されるなか、岩渕がひとりで踊った。これまでの岩渕は、緻密な身体へのアプローチによって生み出される運動に定評があり、その分、方法に忠実でストイックな印象も受けていた。今作では、そうした活動の軌跡を一旦脇に置きそこから距離をとって、まるで皮が破けて剥き出しの岩渕が出現したかのようだった。途中、リミックスの施された『ボレロ』を背景に流しながら、ニジンスキー『牧神の午後』のポーズをゆったりとした動作で決めると(ライブで岩渕を撮影した映像が舞台奥の壁にディスプレイされ、複数の岩渕の姿が群舞を形作っていた)、官能的なエネルギーが岩渕の身体に充填されてゆくようだった。音楽に刺激されて、岩渕の身体が痙攣の波立ちを起こす。すると美しく柔軟な岩渕の身体が異形の怪物に見えてくる。舞台というものが、どんなケッタイなものでも観客の目の前に陳列してしまう貪欲で淫らなものでありうることを、久しぶりに確認できた時間だった。ダンスは「表象」という次元を超えて生々しく、怪物を生み出す。岩渕の「怪物性」はとくに「呼吸」にあった。音楽の合間に低く(録音された)呼吸音が流れた。それと舞台上の岩渕が起こす呼吸の音。呼吸は命の糧を得る行為であるだけではなく、声や叫びのそばで生じているもの。だからか、吐く息吸う息は観客を翻弄し、縛り付け、誘導する。その意味で白眉だったのは、顔を客席に向けた岩渕が何か言いたそうに微妙に口を震わすシーン。声が出ず、しかし、声が出ないことで観客は出ない声の形が知りたくなり、ますます岩渕が放っておけなくなる。魔法のような誘惑性が舞台をかき乱した。さて、岩渕のではない呼吸音は、どこから、誰が発したものなのだろう。結論はないが、二つの呼吸音が響くことで、舞台は重層化し、舞台の読み取りに複数性を与えていた。尻餅をつき、脚が上がると不思議な引力がかかってでんぐり返ししてしまうところや、とくに四つん這いの獣になって徘徊するところは、故室伏鴻の踊りを連想させられた。「踊りに行くぜ!!」のプログラムとしては、ほかに路上生活経験者との踊りを東池袋中央公園で見せたアオキ裕キ、力のこもった美意識をみっちりと詰め込んで「鳥」をモチーフにして踊った黒田育世、「伝承」をテーマに師匠から振り付けを伝授される人間の戸惑いをコミカルに描いた山下残の上演があった。どれも、わがままで強引な振付家の意志が舞台に漲っており、舞台芸術としてのダンスの異質性を再確認されられる力強い作品だった。ダンスってヘンタイ的でキミョーなものなのだ。そうだった。

2017/03/18(土)(木村覚)

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション─NELKEN』

会期:2017/03/16~2017/03/19

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉県]

わずかな違和感がずっと消えなかった。かつて本作は1989年に日本で上演された(初演は1982年)ことがある。筆者は今回が本作初見、でも、90年代以降のバウシュの上演はほとんど見てきた。違和感の正体は、そこにバウシュ(2009年逝去)がいないという感覚である。だからと言って、あそこがなっていないとか、はっきりと不十分と思われる箇所があるというのではない。けれども、どこかヴァーチャルな上演とでも言いたくなるような感触が、見ている間ずっと消えなかった。もちろん、作家の死後に上演(演奏)される作品などいくらでもある。慣れの問題かもしれないが、バウシュの舞台を見るとき、筆者はバウシュの目を常に意識していた、ということなのだろう。あとひとつ思うのは、バウシュの戦略が今日どう映るかということだ。バウシュの「タンツテアター」は意味の宙づりにその戦略がある。バウシュの舞台はほとんどどの作品も、小さなシーンが複層的に重なり進んでゆく。例えば、本作には、男二人が代わりばんこに頬を殴り、殴った頬にキスをするといったシーンがあった。これは暴力なのか愛なのか。単純に二者択一ではない「宙づり」が舞台を知的に躍動的にする。この「宙づり」をかつての筆者だったら「戯れ」の肯定として受け取っていたことだろう。とはいえ、いまそれは「大人の子供化」に映ってしまう。大人の子供化が凄まじく世界を席巻しているのが、いまだ。その時代の中では、かつての「知的な遊び」は「非知的な後退」あるいは「本質的な問いの回避」に見えてしまう。そう見るのを避けたければ、バウシュの試みを歴史的な遺産として受容するのが賢明な態度といえるのかもしれない。バウシュはいまや懐メロなのである。そして、バウシュが(ある種の)コンテンポラリー・ダンスの創始者であったとすれば、明らかに、コンテンポラリー・ダンスは過去のもの、歴史的なものとなったのだ。

2017/03/17(金)(木村覚)

白蟻の巣

会期:2017/03/02~2017/03/19

新国立劇場 小劇場 THE PIT[東京都]

谷賢一演出「白蟻の巣」@新国立劇場。光を劇的に扱った演出が美しい。三島由紀夫の戯曲だが、構造と寓意を組み込んだすごい作品である。異国に移住した2組の夫婦のX関係を軸に、死と生、敗戦後の日本とブラジル、赦しと残酷が、複雑なポリフォニーを奏でる。もう60年前に書かれた作品だが、まったく古さを感じさせない普遍的な価値を持った古典と言うべきか。また、三島の最期にもつながる内容だ。

2017/03/15(水)(五十嵐太郎)

砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作される本作。2013年に北九州で、2015年に仙台で上演され、今回の大阪公演は、市内の追手門学院高校演劇部とのワークショップを経て上演された。また、震災後の東北でメディアと記録活動に関わる作家の集団 NOOKとも協働。映像作家の小森はるかとユニットを組む画家で作家の瀬尾夏美は、「2031年」の想像上の陸前高田を春/夏/秋/冬の4つのシーンで描いた小説『二重のまち』を朗読した。また、映画監督の酒井耕は、自身も舞台に上がって時に群舞に加わり、出演者との距離を限りなくゼロに縮めながら舞台作品を記録した。
公演は、瀬尾を含む4人の女性出演者が「あの日」を振り返る雑談風のシーンで始まる。客席に向かってフランクに語りかけ、「第四の壁」の消失と観客の存在の肯定がなされるなか、背後ではスーツ姿の2人の男(ダンサーの砂連尾理と垣尾優)が黙々と、フラットな台を運び込み、積み上げていく。瀬尾の朗読が始まる。2031年春、「僕」が父親に連れられ、石碑の裏にある扉から地中に続く階段を降りると、そこは一面の花畑の中、消えかけた道路や家の土台が残る不思議な空間だった。それは、かさ上げ工事で埋め立てられる前の、震災の爪痕と生活の痕跡を残した「かつて」の町の姿だ。台を積み上げる男たちの姿が、かさ上げ工事とオーバーラップする。出来上がった「高台」の上にぶわっと被せられ、波のようにはためくブルーシート。本作はこうしたメタファーを随所に散りばめつつ、声と身体を駆使した圧倒的なパフォーマンスと反復の密度によって、構成の計算高さを吹き飛ばす強度を備えていた。
とりわけ何度も反復されるのが、向かい合った2人が握手して手をつなぎ、互いを強く求め合うゆえに、自分の方へ引き寄せようと引っ張る力が拮抗し、ギリギリのバランスが崩れた瞬間、手が離れて仰向けに倒れてしまうシークエンスだ。求め合う力が反発力に反転し、共倒れになる。このシークエンスが砂連尾と垣尾の2人のみならず、十数人の高校生たちが次々に行ない、地に横たわる死者たちへと擬態する。シークエンスの反復と、春から夏、秋から冬へと移りゆく時間。円陣の群舞が象徴する、円環的な時間。反復され、循環する時間と、二度と元に戻らない不可逆的な時間が交錯する。舞台を見ているうちに、時間軸が混乱をきたし、過去も遠い未来も渾然一体となった密度に飲み込まれそうになる。ここは遠い未来なのか、地底に埋もれた古層なのか。人間とも獣ともつかない、尾を引く不穏な声は、死者の嘆きなのか、生まれる前の赤ん坊の叫びなのか。
シークエンスの反復、時間の循環性と不可逆性に加えて、本作のもうひとつの特徴が、「声の憑依」と「発話の困難」である。砂連尾と垣尾はマイクを持ってテクストを朗読しようとするが、声は裏返り、かすれ、異物として喉から漏れる。相手の身体を背負って重みに耐えながら震え声で朗読するシーンは、「発話」の行為に負荷がかかり続けていることを文字通り体現する。また、圧巻なのが、舞台上の小舞台に銀色に輝く猫の仮装をした人間が立ち、その周囲をやぐらのように十数人が取り囲んで群舞する、後半のクライマックスだ。うめきとも泣き声ともつかない声で、絞り出すように朗読される小説の一節。よく見ると猫人間は口パクで、その背後から女性が操り人形の操者のように声を吹き込んでいる。召喚された死者の声のうめくような軋みと、憑依された者が声を発する苦痛。砂連尾と垣尾は仮面をつけ、高校生たちとともに盆踊りのような群舞が展開される。祭の狂乱に、「記録者」も身を投じる。(死者の)声の継承、声の憑依、仮面や仮装が象徴する人間ならざるものの到来、盆踊り=死者の魂を再び迎える儀式、共同体性、円環が象徴する時間の循環など、本作のキーワードが凝縮されたシーンである。
声の倍音的な重なりはまた、瀬尾のテクストの「一人称」の語りともリンクする。「私」「僕」は交換可能性に開かれており、その座は特定の固有名によって占められていないのだ。


写真:松見拓也


この他にも、本作には忘れられない優れたシーンが数多くあった(くんずほぐれつしながら十数人が互いの「足裏マッサージ」を行なうシーン、孤独な独楽のように女性が回転し続けるシーンと、突然糸が切れたような中断など)。作り手の必然性を感じる、ものすごい密度の体験だったことは間違いない。「フィクションである(~のフリをする)、舞台上では誰も本当に死なない、ここに死者はいない」という前提と、「生きた身体が今ここにある」という身体的なリアルとの解消不可能な溝、つまり舞台・演劇のダブルバインドを「跳躍(サルト・モルターレ)」して架橋するという困難な試みに、本作は成功していたのではないか。


写真:瀬尾夏美


2017/03/11(土)(高嶋慈)

砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター・クリエイトセンター[大阪府]

6年前のこの日、この時(開演は14:30。地震発生は14:46)、東日本大震災があった。舞台はゆるやかな女たちの会話で始まる。公民館で駄弁っているかのように、静かにあの日のことを振り返る。そして、客席に向けて黙とうが促される。女たちと観客は一斉に目を瞑る。温かさと悲しさが一挙に去来する。目を開けると女たちの何人かは涙を流していた。砂連尾理が被災地を訪ね、そこで感じたことをダンスに変換したのがこの作品。北九州、仙台と公演は続き、今回は砂連尾の暮らす大阪茨木市での上演となった。テーマにまっすぐ向き合ったダンスは、仙台では客席に緊張を生み出すところもあった。茨木では緊張はまた別のニュアンスを帯びていたというべきかもしれない。頻繁に出てくるモチーフは「別れのダンス」と呼ばれ、二人が手をつなぎ、そのつないだ手だけでバランスをとり背中を重力に任せる。重さに手が離れ、二人は背中を床に倒れる。シンプルな動きだが、それが「東日本大震災」のコンテクストに絡むと、猛烈な絶望感や悲しみが喚起される。とはいえ、砂連尾と垣尾優の男二人がまじめにやればやるほど、滑稽にも見えてくる。実際いくつかの場面では、正直な笑いが会場を包むこともあり、この作品が「被災地」へのステレオタイプなイメージをただなぞるといった類の舞台でないことは、客席がちゃんと受け止めているようだった。とはいえ、被災地から遠いゆえの難しさもあったかもしれない。何度かのワークショップを経て、地元の高校の演劇部がこの舞台には参加していた。取材で知ったことだが、本作を受け止め難く感じた学生の親族もいたようだった。本作の重要なテーマに「継承」がある。直接出来事を経験しなかった者が、その出来事をどう継承し得るか。ほかならぬ砂連尾は非被災者だ。その彼が、出来事のなかの何かを「継承」しようとして、そして高校生たちがそれを「継承」する。この尊くも難しい試みに本作の賭けはある。もうひとつ茨木公演独自の要素にnookの参加があった。nookは仙台に移住して創作活動を行なう団体であり、彼らも砂連尾と同様、非被災者という立場から震災という問題の継承に挑んでいる。本公演の記録を行なう酒井耕はあえて舞台上に入り込んで撮影を実施し、瀬尾夏美は舞台に小説『二重のまち』を持ち込んだ。小説は2031年から震災を見つめる。その言葉を高校生たちが大きな声で読んでいく。高校生はもはや生き物として美しい。この美しさと絶望と悲しみとユーモアとが混ざり溶け合うというよりは同居している。伴戸千雅子と磯島未来が、それらをつないでゆくように踊った。踊りというものは、つながらないものをゆるやかにつないでゆく。ものすごい力技だが、踊りにはそれができる。その力を久しぶりに見たという気がした。

2017/03/11(土)(木村覚)