artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

富田大介(編)『身体感覚の旅 舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』

発行所:大阪大学出版会

発行日:2017/01/31

ダンスは消えてしまう。絵画や小説、写真ならば、一度創作が完了すれば、作品は永続する。しかし、ダンスはそうはいかない。ダンスの記譜法は考案されてきたものの、十分に活用されてはいないし、そもそも舞踊譜と上演はイコールではない。「消える」という上演芸術の潔さは、ダンスの魅力のひとつではあろう。とはいえ「消える」性格に抗う、記録へ向けた試行錯誤は、ダンスの継承や伝播、批評などに意識を傾けるとき、切実なものとなる。本書が記録するのは、フランスの舞踊家 レジーヌ・ショピノと彼女の友人である研究者 富田大介が進めたプロジェクトのひとまずの成果である(このプロジェクトは今後も継続されるという)。そこでは、ニュージーランド、ニューカレドニア、日本という「島」に生きる人々が集められ、各人のルーツとなる伝統や身体文化が取り上げられ、さらにコンテンポラリー・ダンスの知恵が注ぎ込まれ、最終的に舞台公演へと結実してゆく、その数年の軌跡が閉じ込められている。本書は、単に「公演録」と呼ぶのでは不十分な、アーカイブする意志に満ちている。vimeoにアップロードされた、一本の公演映像と三本のドキュメンタリーフィルム(合計四時間ほど)のアドレスが記載されている、といった試みはその一例だ。これによって本書は紙媒体の限界を超え、映像アーカイブの機能を内蔵させる。もちろん、ショピノの自伝的内容を含んだ公演創作にまつわるエッセイ、研究者による哲学的・美学的な論考や公演レビューも収められている。興味深いのは、本間直樹の論考(「表現することから解き放たれるとき」)に、リサーチワークの記録映像を取り上げつつ、この記録ではリサーチの際に参加者が経験しただろう「時間の感覚」「時間の持続」が消えてしまっている、と筆者の嘆息する様が残されていることである。アーカイブされることの難しいものとは何か、その点を隠さず指し示そうとする姿勢から分かるのは、単なる記録の集積ではなく、(プロジェクトの参加者や観客が得た)経験の(再)上演を本書は企図している、ということだ。何と言っても本書のタイトルは『身体感覚の旅』である。おそらく最も映像に記録することが困難な「身体」の内的「感覚」こそ、本書の核であり、読書体験を通してこの感覚に読者を導くことこそ、本書の狙いなのだろう。その際、映像の限界をテキストが補完するということが本書のあちこちで起きており、アーカイブにおける言葉の力に気づかされる。

2017/04/26(水)(木村覚)

忘れる日本人

会期:2017/04/13~2017/04/23

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

三浦基演出、松原俊太郎作「忘れる日本人」@KAAT。突き刺すような凄まじい音圧とヒップホップのごとく、畳みかける言葉の渦。もはや物語は解体され、寓意の波に身を委ねる感じだ。見えない壁に囲まれた閉鎖的な空間において演劇は進行し、終盤に皆で担ぎ上げた中央の舟が右旋回で動く挙句に、カタルシスを迎える。

2017/04/23(金)(五十嵐太郎)

地点『忘れる日本人』

会期:2017/04/13~2017/04/23

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

舞台空間を紅白の紐が四角く囲い、その中に一隻の船がある。船底から、登場人物がひとりずつあらわれる。彼らは一様に、カニのような横歩きしか許されず、手もイソギンチャクのように常に揺れている。叫ぶように言葉は発せられる(戯曲は松原俊太郎)。どれも日本への苛立ちや生活への不満、将来への不安や現状への憤りを含んでいるようだ(登場人物たちの胸には日の丸のシールが貼られている)。けれども、意味はいつも途中で千切られ、行き先が曖昧になり、クラゲのように空を漂うばかり。まずは、その独特の(身体的また知的な)運動に圧倒される。強いエモーションを伴いながら、どこにも行き着かない彷徨する運動、リズム。途中から、何か言葉を発すると、「わっしょい」と全員で合いの手を入れるようになり、それが延々と続くようになった。意味は曖昧なまま、しっかりと共有されるリズム。その後、全員で船を担ぐことになり、すると息が合わなかったり、サボっているものがあらわれたり、コントのような笑いの場面になる。船は担ぐ人数に比して随分と重い。客席は彼らの虚しい努力を応援したい気持ちになってくる。登場人物のひとり、漁師風の男が客席に「ともだちはいませんか」と声をかける。観客の10人ほどが舞台に上がり、船を担ぐことに協力する。西へ東へ、船は舞台を移動し、奇妙な一体感が醸成された。「ともだち」が客席に返されると、登場人物たちは船を自力でひっぱりあげて、顔を歪めながら移動させる。観客との共同作業の際もそうだったのだが、この移動にさしたる目的は見いだせない。曖昧に、不安定に、移動の状態が継続されているだけだ。北朝鮮の核実験に翻弄させられ、トランプ政権の強気な外交に振り回されながら、日本としてなすべきことは、この状況に無言でついてゆくことだけという、2017年4月に生きる日本人としては、これ以上はないというくらい、今の自分たちの気分が表現されていると思わずにいられない舞台。『三月の5日間』から13年。その当時、渋谷のラブホや路上でうろうろする若者に戦争は遠く、不安は漠としたものだった。今、船は出航してしまった。ぼくらはあのラブホや路上にいた自分たちとさして変わってはいないのに、覚悟も準備もなく、出航してしまった。三浦基の緻密な演出は、日本人の現在を表象して見せてくれた。

2017/04/21(火)(木村覚)

「バベルの塔」展 プレ・コンサート vol.2 永田平八&吉澤実

会期:2017/04/15

東京都美術館[東京都]

「バベルの塔」展プレコンサートにおいて、永田平八(リュート)&吉澤実(リコーダー)の演奏を聴く@東京都美術館。ジョスカン・デ・プレの曲など、ブリューゲルの時代の絵画に合わせて古楽のプログラムが組まれていた。吉澤による軽妙な語りも入り、勉強になる内容だった。確かに、リコーダーは記録するという意味をもち、人の声や鳥の囀りに近いリコーダーは、抽象的な音の楽器に比べ、少し具象的かもしれない。

2017/04/15(土)(五十嵐太郎)

「螺旋と蜘蛛」

会期:2017/04/13~2017/04/16

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

螺旋状の舞台をぐるぐる死者がまわり、中央に垂直の「蜘蛛の糸」という空間構成はけっこう好みだが、物語はむしろ亡くなる前の罪(神殺しなど)の記憶再生がメインになり、想像とちょっと違っていた。それにしても、ジャンルを問わず、日本では似非宗教批判のネタが多すぎて、やや食傷気味である。

2017/04/13(木)(五十嵐太郎)