artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
西尾佳織ソロ企画『2020』

会期:2017/03/09~2017/03/12
「劇」小劇場[東京都]
初演では、作・演出・主演を西尾佳織がすべて行なったという本作、今回は3公演を3人の役者がひとりずつ演じた。幼少期の自分を西尾が振り返っているという戯曲の形式からすると、西尾ではない役者の身体が西尾の内面を語るかのような設えになっていた。いくつかのエピソードは「生きづらさ」に関連していた。例えば、小学生の頃、パン工場見学でもらった食べ物をバスの中で投げ合っている男子に乗せられて、ついお手玉をしたという逸話。その「罪」に後で苦しめられた、と振り返る。あるいは、マレーシアで過ごした子供時代によごれや雑さに耐性がついた分、本来の自分の清潔への意識に気付けなくなっていたなんて話。主体性が揺さぶられるような不安定さを丁寧に個人史のなかから掘り返す、そんな言葉で場が満たされた。ところで、ぼくが惹きつけられたのは、当日パンフのテキストだった。「稽古をしながら、人はそれぞれなんと違っているんだろう!」と3人の役者に演出する際の気づきを西尾は紹介してくれていた。そこで「どうにも動かしがたい「その人のその人性」を見」た、と。西尾が「西尾」性を発揮した戯曲にチャレンジすることで、役者がその人性を発出する、ということが面白い。このことを観客の側でちゃんと実感するには、役者3人のバージョンすべてを見なければならないだろうけど、ぼくはこの体験こそしてみたいと思った。もちろん、時間があればできることだが、ぼくにはその時間がなかった。もし、このことに焦点が絞られたら、三者が順々にひとつのセリフを演じていくような、そんな舞台もあり得たことだろう。あるいは、こういう発見がある稽古場というのは、じつにすぐれた劇場だと思わされる。いわゆる劇場は稽古場でのような発見をどちらかというと、二の次にするものだ。とすれば、稽古場から排除されている観客というのは、豊かな発見の上澄みを舐める役を与えられた人間ということになるのかもしれない。
2017/03/10(金)(木村覚)
村川拓也『Fools speak while wise men listen』

会期:2017/03/09~2017/03/12
アトリエ劇研[京都府]
気鋭の演出家、村川拓也による演劇作品『Fools speak while wise men listen』の再演(2016年9月の初演については、以下のレビューを参照)。本作は、日本人と中国人の「対話」計4組が、ほぼ同じ内容を4セット反復するという基本構造で構成される。同じ「対話」が発話の「間(ま)」や声・身振りのトーンを少しずつ変えて、「(演出家不在の)稽古風景」のように何度も繰り返されるなか、「対話」における不均衡な関係が露わになるとともに、「反復構造とズレ」によって「演劇(本物らしさ)と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造を鋭く照射する作品であった。
今回の再演では、初演と同じ2組に加えて、再演バージョンの2組の「対話」が新たに追加された。この変更は、「演劇と認知」「他者への想像力」という本作の2つの(根本的には同根の)主題に大きく関わるものであるため、以下では、再演での変更ポイントに焦点を当てて考察する。
『Fools speak while wise men listen』は、これまでの村川作品と同様、ごくシンプルな構造と舞台装置で成り立つ。床に白線テープで示された矩形のフレームの中で、日本人と中国人が対面し、マイクを手に持ち、初対面の挨拶と自己紹介に始まり、雑談めいた会話を日本語で行なう。話題は初演時の「結婚と国籍」「パンダ」に加え、「互いの国への好感度」「国歌」だ。ここで興味深いのは、再演で追加された「互いの国への好感度」について話す1組である。「日本社会はルールが多くて、圧力を感じる。でも、日本の大学の友達に中国の印象を聞くと、よく分からない、何か怖いってよく言われる」と話す中国人男性。日本人男性は、「時間をかければ分かり合えると思う。国家でなく個人どうしなら」と応答し、「日本、好きですか?」と問いかけるが、会話はそこでブツ切れになり、2人はマイクを置いて退場してしまう。この「対話」が真に興味深い様相を帯びるのは、後半の2セットだ。3セット目、中国人男性は退場するが、日本人男性はひとり、残された不在の空白に向かって、話し続けるのである。「やっぱり大事なのは想像力だと思う。生活は身体になじまないかもしれないけど、理解の手助けになるのは想像力だと思ってる」。そして4セット目は、中国人が不在のまま、同じ台詞がモノローグとして反復/再生されるのである。
ここにおいて、「コミュニケーション、意思疎通」をめぐる本作の2つの位相が重なり合う。1)表層的にはそれは、「日本人」と「中国人」の(しかも初対面という設定の)微妙な距離感、噛み合わなさ、よそよそしさ、気恥ずかしさ、遠慮やためらいである。2)構造的なレベルでは、「俳優を~(例えばハムレット)として見る」「ここに~があると仮構して見る」ように要請する、演劇の原理的構造への自己言及性である。対話相手が不在のまま、無人の空白に向けて「想像力の投企」について語る俳優は、他者と向き合う誠実な態度について語っているようで、「演劇(フリをすること)とは認知の問題である」ことそれ自体をパフォームしているのである。このとき床の白線のフレームは、二重性を帯びて立ち現われる。それは他者を国籍や民族でカテゴライズする思考のフレームであるとともに、演劇というフレームそれ自体をも指しているのだ。
このように村川は、徹底してフォーマリスティックな手つきで「演劇」それ自体を対象化する。本作について、「政治的なテーマを掘り下げていない」「日中関係について扱う必然性はどこにあるのか」といった批判があるだろう。そうした批判は、上述の2つのコミュニケーション(他者とのコミュニケーション/演劇的コミュニケーション)が重なるとき、つまり内容と形式が合致を見る一点で、解消する。だが、「想像力の投企」が他者理解の手助けになる一面で、むしろ逆に想像力が「(実体としては不在の)他者」を作り出す側面も否定できない。喋っていた「fools」はマイクを置き、フレームの外に立ち去った。彼らの会話を聞くだけだった私たちは、どうやって「観客」という役を降りればよいのか。
関連レビュー
劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』|高嶋慈:artscapeレビュー
2017/03/09(木)(高嶋慈)
鈴木ユキオ『イン・ビジブル in・v sible』

会期:2017/03/09~2017/03/10
世田谷美術館エントランス・ホール[東京都]
「影」をめぐる上演だった。世田谷美術館のエントランス・ホール。大理石でできた天井高の世界。巨大な果物や植物をかたどったような黒いオブジェ(いしわためぐみ)が置かれたステージ空間に、黒い服を着た鈴木ユキオが登場すると、オブジェを一つひとつ確認するように置き直した。次には、映像(みかなぎともこ)が映写され、ゴルフのピンみたいなものを吊ったモビールが壁を彩るなか、鈴木は踊った。黒いオブジェも、映像も、影だ。そのなかで鈴木の身体は紛れもなく重さを持つ実体なのだ、と思いたいのだが、彼もまた、動いているようで動かされているような、曖昧な存在に見える。鈴木のダンスは完成度が高まっているように見えた。形を作るベクトルと形を壊すベクトルが拮抗し合いつつズレる。そのズレがおのずと運動になっているような、その出来事以外の何も挟まないというような、動きの純度が非常に高い。切断はない。ただ、つねに運動に小さな切り込みが施され、連続が分断される(身体運動におけるキュビスム?)。そうはいっても、派手な切断があってもいいものだ。と思いだした途端、びっくりするようなことが起きた。ぬすーっと、鈴木の背後の暗がりから、黒いオブジェに似て黒いタイツに身をまとった「ひと」(赤木はるか)が現れたのだ。まさに「影」そのものとなった人間。鈴木がそれでもなお人間の「表」らしさを失わずに踊っていたのに対して、黒タイツは人間の「裏」が表出した不気味な「不在」に見えた。そのあたりでだったろうか、さりげなく、ホールの端にある彫刻たちに照明が当てられた。そうだ、これら美術館の展示物もまた「影」であり「不在」の在だ。そうやって、ぐるぐると不安定な「影」の運動に観客は翻弄された。
2017/03/09(木)(木村覚)
児玉北斗『Trace(s)』
会期:2017/03/02~2017/03/05
トーキョーワンダーサイト本郷[東京都]
現在、ヨーロッパで起きていることと日本で起きていることは、かなり違いがあるようだ。かつて(20年以上前)は、ヨーロッパで起きていることは大抵の日本人にとって摂取すべき価値あるものに映っていたが、いまはそう無条件に思うことは難しくなった。フォーサイスやバウシュのような巨大な存在が新たに台頭することはなくなり、小粒の作家が多数出現している状況は、よく言えば多様なのだが、それぞれは「追従すべき存在」というよりはあれもあればこれもあるのひとつでしかない。強い求心力を形成するカリスマが不在だからといって、自分流に固執するだけでは振付家は自家中毒になりかねない。指針が見出しにくいというのがいまの日本のダンスの現状だ。さて、スウェーデン在住の児玉北斗のソロ新作を見た。輝かしい経歴、バレエの分野で研鑽を積みつつ、コンテンポラリー・ダンスの作家たちとの交流も重ねてきたダンサーだ。きっと自分のダンススキルを存分に発揮する上演になるのだろうと想像していたら、そうではなかった。「レクチャー・パフォーマンス」の体裁がベースとなっており、蒸気機関の先駆者のひとりワットや、世界の水事情、あるいは火星に水が存在していたかもしれないといった話題が取り上げられた。レクチャーはすなわち「水」というテーマをめぐっており、パワーポイントなどのプレゼン装置を用いてテーマは多角的に掘り下げられた。日本ではレクチャー・パフォーマンスの形態はまだ十分に活用されているとは言えず、その意味で、児玉が創作の現場としているヨーロッパの環境を想像させるところがあった。じつに精緻に、ニーチェやデリダなどの思想家の考察も交えて「水」への考察は深められてゆく。児玉はプレゼンテーションの装置を操作しながら、踊る。と言っても、踊りの部分はほとんど禁欲的に制限されていて、身体はときにオブジェ的に、ときに被検体として扱われた。得意技を封印してもコンセプチュアルな舞台を作り上げたいという意気込みを感じる。欲を言えば、「水」と児玉の「身体」とがもっと密接に絡まり合うところがあれば、「レクチャー」と「パフォーマンス」の響きあいがもっと生まれただろうと思わされた。アイテムにペットボトルが頻繁に用いられていたが、人間の身体はまさにペットボトルみたいなものだ。「空っぽの器としての身体が踊る」なんてイメージがシンプルに明確に打ち出されたら、ダンス公演として際立ったものになったかもしれないと想像した。
2017/03/02(木)(木村覚)
五線譜に書けない音の世界~声明からケージ、フルクサスまで~

会期:2017/02/26
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
京都市立芸術大学 芸術資源研究センターの記譜法研究会が企画したレクチャーコンサート。スタンダードな五線譜によらない記譜(図形的な楽譜など)をテーマに、声明(仏教の法要で僧侶が唱える音曲)と、ジョン・ケージやフルクサス、現代音楽における図形楽譜を架橋する試みが行なわれた。
第1部「声明とジョン・ケージ」では、声明の記譜法についてのレクチャーの後、ケージの《龍安寺》を天台宗の僧侶が声明で披露。伝統音楽・芸能と現代音楽、東洋と西洋の架橋が音響的に試みられた。第2部「記譜法の展開」では、現代音楽に焦点を絞り、足立智美、一柳慧、塩見允枝子の3作品が上演された。足立智美の《Why you scratch me, not slap?(どうしてひっぱたいてくれずに、ひっかくわけ?(1人のギター奏者のための振り付け))》は、ギター奏者の両手の動きを映像で記録した「ビデオ・スコア」を元に演奏するというもの。音を生み出す所作をインストラクションとして言語的に指示するのではなく、音を生み出す身振りの記録映像が楽譜として機能する。生身でなく、映像に記録された身振りではあるが、1対1で対面して「手本」の身体的トレースを行なう様子は、むしろ古典芸能の稽古・伝承に接近する。
一方、一柳慧と塩見允枝子の作品では、図形楽譜やインストラクションに従いながら、複数人がさまざまな楽器や声、身体の音を用いて同時進行的に演奏を行なう。楽譜のスタート地点の選択や音の出し方の幅は即興的な揺らぎを生み、「アンサンブル」として間合いの意識が発生することで、スコアに基づく「上演」ではあるものの、一回性の出来事に近づいていく。塩見はレクチャーの中で、「言語能力、記述の正確さが求められる」と語っていたが、指示の曖昧さを回避するそうした努力の一方で、スコアの規定のなかに、演奏者の能動的な関わりや創造的なリアクションを生み出す余白や伸びしろをあらかじめどう盛り込むかがむしろ問われるだろう。それは制限が課された中での逆説的な自由かもしれないが、記譜とパフォーマーの間にある種の相互作用や循環が起こることで、記譜が引き出す創造力が発揮されるのではないか。「五線譜」という近代音楽の制度化されたフォーマットへの疑い、オルタナティブな記譜法の開発・創造であると同時に、記譜と創造的振る舞い、「開かれ」のあり方について改めて考える機会となった。
2017/02/26(日)(高嶋慈)


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