artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

したため#5『ディクテ』

会期:2017/06/22~2017/06/25

アトリエ劇研[京都府]

テレサ・ハッキョン・チャによる実験的なテクスト『ディクテ』(1982)は、演出家の松田正隆による舞台化や山田うんによるソロダンス作品など、身体と発語をめぐる俎上に幾度も載せられてきた。京都を拠点に、演出家の和田ながらが主宰する演劇ユニット「したため」は、台本を用いず、出演者への取材を元に言葉を構築する方法論から出発し、近年は、自由律俳句や小説など、戯曲でない(演劇の舞台を前提に書かれていない)テクストを上演する手法を試みている。前作『文字移植』では、日独の両言語で執筆する多和田葉子の同名小説を、「演劇」として上演した。「翻訳」の(不)可能性、言語の物質性、異言語の発話に伴う身体的苦痛、ポストコロニアルや男性中心主義への批評といった主題に対して、俳優の身体表現と声、舞台美術によって、テクストの密度を音響的・立体的に立ち上がらせることに成功していた。次なる挑戦として、『ディクテ』が選ばれたことは必然と言える。
『ディクテ』では、冷戦構造下で強まる韓国の軍政を逃れるため、家族とともに少女期にアメリカへ移住し、コリアン・ディアスポラとして二重化された生と言語を生きるチャ自身の苦痛に加えて、日本の植民地支配により母語を剥奪された母の世代の記憶が語られる。さらに、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と称される三・一独立運動の闘士ユ・グァンスンなど歴史的な女性の名前が召喚され、自伝的要素と世界史的な地平が交錯する。それらは通常の句読法を逸脱した詩的言語に加え、フランス語の書き取り練習(ディクテーション)、翻訳問題、カトリックの教義問答、映画の台本、手紙など多様な文体のコラージュで構成される。さらに、英語とフランス語に漢字やハングルが混じり、多言語が使用された、極めて多層的で異種混淆的なテクストである。
したためによる『ディクテ』では、前作同様、美術作家の林葵衣による舞台美術の力を活かし、テクストがはらむ複数の問題─とりわけ他者の言語によって身体を領有化される苦痛、発話主体の複数性・多重性─を、身体化された風景として可視化していた。俳優たちは、ちょうど顔の高さに張られた、半透明の薄い膜ごしに客席と相対するため、「顔」つまり明確な主体を特定できない匿名的な言葉として発せられる。異言語による侵犯と母語の禁止という二重の苦痛について語ろうとする行為は、発話行為の身体性や物質的側面を露わにする。半透明の膜に強く押し付けられ、くぐもる声。息の振動で震える膜。俳優たちは口を大きく開けたまま凝固し、聴こえない叫びが空間をこだまする。あるいは隣で話す者の口の動きが真似され、口々に発語する声の多重的な音響によって、発話主体が分裂し多重化していく。この傷を縫い閉じられるのか? いや、傷口は閉じられるどころか、「書き取りなさい」と命令する声に従い、文法問題の例文を復唱するいくつもの口によって、半透明の膜(おそらくオブラート)は舌で舐められて溶かされ、食い破られ、ボロボロに千切られていく。


撮影:守屋友樹


俳優たちは、荒野のように石ころが転がる空間の中を、石を口に咥えたままさ迷い歩く。容易に噛み砕けないそれは、声を封じ、重しとしてのしかかる沈黙の強制だが、一方で口に咥えた石は、親鳥がヒナに餌を与えるように、口移しで他の俳優へと渡される。言語は重荷であるが、母語(mother tongue)すなわち口から口へと継承され、分け与えられる存在でもある。また、秀逸だったのが、「わたし」「わたしたち」「あなた(たち)」「彼ら」「彼女」といった代名詞が多用される箇所で、発語された代名詞が、筆記体の英単語の連なりとして壁にチョークで書かれていくシーンだ。一本の線で途切れなく続く「i」「we」「you」「they」「she」は、切り分けられず連続性の下にあることを示す。だがそこに、照明の赤いラインが投射されることで、国境、民族、言語といった分断する線が浮かび上がる。


撮影:守屋友樹


「わたし/あなた/彼ら」として差異化する言葉がボーダーラインとして可視化されること。そこに、朝鮮戦争と軍政を契機に故国を離脱し、アメリカ国籍取得後、後年になって韓国を訪問した際に、「外国人」扱いされたチャの苦い経験が重なる(露骨な「身体検査」のシーン、とりわけ2人の男優に挟まれた女優がスカートをまくり上げられるシーンは、ジャンヌ・ダルクの「処女検査」を連想させ、性的な視線とともに女性の身体へ向けられる暴力を可視化する)。国籍の離脱と、故国で味わう差別。それは、「故郷を二度失う」体験である。「お母さん、禁じられた言語があなたの母語」「母語はあなたの隠れ家」とチャは母に呼びかける。満洲の朝鮮人集落へ日本語教師として赴任したチャの母もまた、母語=故郷を剥奪されて生きる者だった。
では、そうした母語=故郷の「二重の喪失」という傷を刻まれ、英語という他者の言語で書かれたテクストを、「日本語=母語」で発語する舞台は、「故郷としての母語」の内に安住したままではないのか? という矛盾・アポリアがここで露呈する。おそらくこの点が、『ディクテ』というテクストに対して、言葉を扱う「演劇作品」として対峙する際に立ちはだかる、最大のクリティカルポイントである。したための『ディクテ』は、「他者を体内に容れる」という身体的経験について俳優が実況的に話すという構造や発語主体の交換可能性の中に、一種のメタ演劇的な性格を有していた。だが、二重の喪失に抗って話す「膿みうずく苦痛」に対して、母語の内部という安全地帯に留まるのではなく、それを内側から食い破り、傷を付けて押し広げ、内破するだけの力を持っていたか? チャレンジングなテクストに挑んだからこそ、あえて批判を呈したいと思う。

2017/06/23(金)(高嶋慈)

チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』

会期:2017/06/16~2017/06/25

シアタートラム[東京都]

「3.11」の日、何をしていたか。あの日、日本にいたひとならだれでも覚えているのではないか。けれども、その直後、社会が機能しなくなり、個々人の人間的な力が試され、その結果、協働する意識が人々に芽生えた、あの苦しくも幸福な日々のことは、多くの人が忘れてしまったのかもしれない。『部屋に流れる時間の旅』は、震災の四日後に妻を喘息で亡くした男が、妻と暮らした部屋で、いまなお死んだ妻と対話を続けながら、さらに新しい恋の相手と会話をする男の話。妻は震災直後に幸福感が増し、生まれ変わる自分を感じた直後、死去した。この妻とは、あの日々を覚えているぼくらのことだ。「ねえ、覚えている?」そう妻は何度も執拗に繰り返す。ぼくらは妻=あの日々の自分たちを携えつつ、あの日々の幸福感の微かな記憶とともに、でも、別の人生を生きようとする。ひとりの人生には複数の時間が流れているのだと時間の哲学として理解するのも、妻の死の苦しみを新しい恋人によって埋め合わせるという倫理的な問題として理解するのも、できそうだが、なんだか違う。チェルフィッチュは若い登場人物たちを通して、一貫して社会の問題にフォーカスしてきた。非正規雇用のアルバイターや浮浪者を取り上げることもあれば、若い夫婦が主人公のときもあった。ところで本作の、妻の死後に容易に新しい恋人を獲得する男は、まるで村上春樹の主人公たちのようだ。とはいえ、村上の主人公たちが独特な趣味や性格で読者をひきつけるのとは異なり、岡田の描くこの男は、驚くほど無味乾燥で単調な人間だ。棒読みの(と言いたくなるほど、抑制的な)台詞回しが、なによりこの男を特徴づけている。新しい恋人候補への誠実な逡巡以外は、この男の心は個性化できない。敢えて言えば、普遍的な「男性」を具現化することがこの男の仕事なのだ。この芝居はこうして、普遍的な物語として顕在化する。そして「震災以後の人生」という体裁を帯びながら、その特性も抽象化して、「時間」をめぐる、普遍的な「人生」をめぐる「旅」の物語となっていた。

2017/06/19(月)(木村覚)

こq『地底妖精』

会期:2017/06/10~2017/06/11

SCOOL[東京都]

美術作家高田冬彦の制作した黒い芋が何本も宙に浮いている。その中、永山由里恵は膨大なセリフを早口で、強烈な身体表現とともに発話し続ける。寓話的な物語。女は妖精と戯れる。しかし、穢らわしいもぐらという相手もいる。妖精は空気に似て「タンパク質で構成されていない」存在だ。妖精に憧れる女の体はしかし、タンパク質製だ。だから黒い芋も食べるし、おならもでる。もぐらはそんな女(=地底妖精)にとって厭わしい獣だが、同時に、欲情の対象でもある。妖精ともぐらのあいだで女の欲望は揺れ動く。これはつまり、女性の抱く理想と現実の寓話だ。これまで市原が描いてきた世界観を、本作はシンプルに図式化した。想像に過ぎないが、市原自身が自分との距離を以前より楽に取れるようになった、なんてことがこの「図式」性の成立背景にあるのかもしれない。その分、観客とのあいだにも以前とは異なる距離が生まれていた。もともとQの役者(登場人物)は観客と向き合うことが多い。おのずと役者(登場人物)は観客に語りかけることになる。けれども、これまではさすがにそれによって「第四の壁」が消えることまではなかった。それが本作では、「第四の壁」が崩れ、観客の何人かに永山はひとりずつ話しかける場面があらわれた。高田の起用も、図式的な構成も、永山の話しかけも、劇団Qの「アナザーライン」としてこqという余地を作ったからこそ、生まれたものなのだろう。少女の妄想を少女の市原が描いていたのが、これまでのQだった。その切実な、キリキリした表現も大変魅力的だったが、いまの、少女の妄想から少し距離が取れている市原の余裕は、これまでとは別の仕方で、Qの描く世界を豊かにして、それも魅力的だった。市原のなかで新しい劇表現が始まろうとしている。そんな気がした。

2017/06/10(土)(木村覚)

オフィスマウンテン『ホールドミーおよしお』

会期:2017/05/24~2017/06/10

STスポット[東京都]

チェルフィッチュで長らく役者を続けてきた山縣太一が主宰する劇団、オフィスマウンテン。毎年この時期に上演を重ねて今回で3作目。音楽で例えるならばまるで全員がリードの取れるボーカリスト集団と言おうか。7人の役者がほぼ出ずっぱりで、全員がテンションの高い身体性を観客に投げ続けた。これまでの大谷能生の異能を見せる舞台から、さらに発展のあった舞台だった。山縣は一作目から「役者」が主役であるような舞台を理想としていた。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、既存の演劇において役者はしばしば戯曲(作家)や演出家の奴隷にさせられる。もっと主体的に自由に、役者の躍動する舞台があっても良いのではないか? その思いが3作目で結実した。これまでは、大谷能生が中心にいる分、若手役者はどうしても「サブ」に見えてしまうところがあった。今回も、大谷は中心にいるのだが、彼の役が実際の旅には出ずに『るるぶ』を読むだけの男であり、椅子に座っての演技が多く、対して6人の若い役者は右往左往しながら、身体を躍動させるべくチャレンジを繰り返す。ここで「身体の躍動」とは、その場で起こる無数の出来事にできる限り注意を凝らして巧みに反応し、向こうからの応答を無視せずそれにも反応することで生まれる即興的な身体の密度のことだ。サッカーでは優れたプレイヤーを「視野が広い」と賞賛するが、それに似て、反応の高さが役者の身体に密度を与える。すると、舞台は極めて「スリリング」なものになる。ストーリーの展開などよりも、役者の身体がもたらすスリルに、観客ははらはらする。だから既存の演劇の枠をはみ出し、観客が受け取る印象はパフォーマンス、もっと言えば(様式的外見は随分と異なるが)舞踏に近くなる。あえて深読みするなら、故室伏鴻の遺したものと重なって見えるところが随所にあった。『DEAD』のように、背中をついた逆立ちをするシーンとか、冒頭の、無言で踊る大谷のリズムなど。いずれにしても、相当に異形の、挑戦的な舞台が出現したわけだ。ひとつのフレッシュな舞台表現の磁場が生まれた。

2017/06/09(金)(木村覚)

勅使川原三郎、佐東利穂子『ABSOLUTE ZERO 絶対零度2017』

会期:2017/06/01~2017/06/04

世田谷パブリックシアター[東京都]

全体80分、真ん中のパート、勅使川原三郎はシンプルで静かなピアノ曲とともに踊った。その前までの硬質で速度のついた運動から一転、驚くほどゆっくりと垂れた腕が吊り上げられてゆく。早い動きは、勢いに任せていると見える時もあるし、「パタパタ」する手の痙攣的な振りとか、腕や首の振り回しが、望ましい速度になっているか否かを基準に見てしまいがち。それゆえにあまり集中できない。それに比べると遅い動きは見入ってしまう。早い動きが案外単調に見えるのとは対照的に、ゆっくりとした動きには、多くの「見えない動作」が伴っている。あらわれてはいないが、こっちではなく「あっちに進んだ際には生まれていただろう」動きが、感じられるのだ。その後、勅使川原は極端に力の入っていない体で踊った。硬質な運動を見せていた身体に、こんなにも柔弱な身体が隠されていたとは。勅使川原はこうして身体に充実を与える。その充実に観客は圧倒される。余計な物語性も、現代性も、社会性も寄せ付けず、ただ、充実した身体が次から次へと現れる。当日パンフに掲載された当館芸術監督である野村萬斎のテキストには「アブソルート・ゼロ=到達不可能なエントロピー“ゼロ”の完全な制止状態」との言葉があった。最後の場面で、勅使川原は両手を前で合わせ、首を少し下げた状態で、何分も静止(制止)した。両腕でできた「V」の字に光が当たる。それをじっと見る。マイケル・ジャクソンにもそんな「ゼロ」の妙技があったと記憶しているが、止まった身体の、じつに豊かな充実があらわれた。

2017/06/04(日)(木村覚)