artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

鈴木理策「知覚の感光板」

会期:2018/11/28~2019/01/16

キヤノンギャラリーS[東京都]

タイトルの「知覚の感光板」というのはセザンヌの言葉から引いたものだという。セザンヌは、芸術に個人的な表現意図や先入観を持ち込むべきではなく、「ただモチーフを見よ。そうすれば、知覚の感光板にすべての風景が刻印されるだろう」と語っていた。鈴木理策はこのセザンヌの考え方を写真に適用しようとする。なぜなら「表現意図を持たず、ただ純粋に対象を知覚」するカメラは、まさに「知覚の感光板」そのものだからだ。セザンヌは、自らの身体を「感覚の記録装置」と化し、匂いや音などの視覚以外の感覚も画布上に定着できると考えていた。鈴木もそれに倣って、大判カメラの描写力と「構図やフォーカシング、シャッタータイミングの選択」とを合体させ、「目に見える自然」と「感じ取れる自然」とを一体化した表現を試みようとした。

今回の展示にはもうひとつ仕掛けがあって、撮影対象として選ばれているのは「近代の画家たちがモチーフに選んだ土地」なのだという。たしかにセザンヌ、モネ、ホッパーなどの絵を彷彿とさせる写真があるのだが、具体的な地名や鈴木が参照した絵画作品名は示されていない。だが、そのあたりをあまり詮索しすぎると、鈴木の、風景の中から精妙な構図をつかみ出すフレーミングの的確さや、光の移ろいや雲の変幻、草むらの微かなざわめきなどを、まさに「知覚の感光版」に写し取っていく写真術の冴えを見落としてしまいがちだ。いつもは、テーマやコンセプトを明確に設定して発表することの多い鈴木だが、今回はかなり緩やかな枠組で、ゆったりと写真を並べていた。むしろ、一点一点の作品にしっかりと向き合って、ずっと気持ちのいい空気感に浸っていたいと思わせる展示だった。

2018/11/30(金)(飯沢耕太郎)

オサム・ジェームス・中川「Eclipce: 蝕」

会期:2018/10/31~2018/12/22

PGI

オサム・ジェームス・中川は1962年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。1980年代から写真作品を本格的に制作し始め、アメリカと日本という2つの国にまたがる自分のアイデンティティを検証する作品を多数発表してきた。

中川は1990年代に「アメリカン・ドリームが秘める神話」の探求の一環として「ドライブ・イン・シアター」のシリーズを制作した。アメリカ各地で撮影された野外映画館の画面にKKKのデモや移住労働者などのイメージをデジタル画像ではめ込んだ作品である。今回の展示にも同シリーズから3点出品されている。だが中心になっているのは、新作の「Eclipce: 蝕」シリーズである。かつて人気を博したドライブ・イン・シアターはもはや過去の遺物となり、スクリーンは何も映さず、無人の建造物はボロボロに崩れ落ちようとしている。中川は、さらにピエゾグラフィという7色のグレーインクを重ねるプリント技術を駆使して、写真の画面を極端に黒っぽく整え、ネガとポジが一体化した幻影のような風景に仕上げた。それは、トランプ時代のアメリカが「過去を思い出すのではなく、過去を再び体験している」のではないかという、彼の痛切な現状認識に対応するイメージ操作である。

妻の故郷である沖縄の戦争体験を主題とした「沖縄─ガマ/バンタ/リメインズ」(2014)などもそうなのだが、中川の写真作品はつねに個と社会、過去と現在との対比とその緊張関係をベースとして成立してくる。コンセプトとそれを作品として実現していくプロセスが、しっかりと組み上げられているので、制作意図がストレートに伝わってくる。欧米の写真家たちにとっては当たり前なのだが、日本ではなかなかそのような写真表現のあり方が定着していかない。特に若い写真家たちに、中川の社会的な関心を強く打ち出した仕事に注目してほしいと思う。なお、同時期にPOETIC SCAPEでも「Kai─廻」展が開催された(11月16日〜12月29日)。こちらは身近な家族にカメラを向けた、より私的な要素を強めた作品である。中川の写真世界の幅は、さらに広がりつつあるようだ。

2018/11/27(火)(飯沢耕太郎)

インベカヲリ★「ふあふあの隙間」

会期:2018/11/06~2018/11/26

ニコンプラザ新宿 THE GALLERY[東京都]

インベカヲリ★は、赤々舎から『やっぱ月帰るわ、私』(2013)に続く2冊目の写真集『理想の猫じゃない』を刊行した。女性モデルたちと対話を重ねて「独特の表現や価値観」を引き出し、その場面を演じてもらって撮影するというやり方は一貫しているが、彼女たちの無意識の領域に踏み込み、これしかないイメージを掴まえてくる精度はさらに上がっている。前作は解説なしで写真のタイトルだけを掲載していたが、今回はモデルたちとのインタビューをまとめた文章も加わった。そのことによって、それぞれの写真のバックグラウンドがよりくっきりと浮かび上がり、インベの写真の世界を読者も共有しやすくなってきている。

出版に合わせてニコンプラザ新宿 THE GALLERYで開催された「ふあふあの隙間」展には、『理想の猫じゃない』と共通のモデルの写真も出品されていたが、ほとんどの作品は撮り下ろしの新作写真だった。注目すべきは、今回は使い慣れた6×7判ではなく、35ミリ判のデジタル一眼レフカメラで撮影していることである。今年から使い始めて、やはり当初はかなり違和感があったようだが、逆に連続的にシャッターが切れること、水中や夜間の撮影が可能となることなどの利点を活かすことで、これまでとは一味違った表現ができるようになった。たしかに、狙いをつけたイメージをしっかりと定着する強度はアナログカメラのほうが優れているが、大小の写真を自由に組み合わせた展示構成も含めて、新たな切り口が見えてきそうでもある。急遽企画・出版された3冊組の写真集『ふあふあの隙間』(赤々舎)も、デジタルプリントをページに直接貼り付けるなど、軽やかなレイアウトの造本に仕上がっていた。

なおインベカオリ★は、5月の銀座ニコンサロンの個展「理想の猫じゃない」で本年度の第43回伊奈信男賞を受賞した。その受賞記念展が、本展に続いて12月4日〜10日にニコンプラザ新宿 THE GALLERYで開催される。来年もいくつかのギャラリーの展示がすでに決まっているという。写真家としての活動に、弾みと勢いがついてきたようだ。

2018/11/23(金)(飯沢耕太郎)

岩根愛「FUKUSHIMA ONDO」

会期:2018/11/17~2018/12/02

Kanzan Gallery[東京都]

岩根愛は、青幻舎から上梓した『KIPUKA』におさめられた、深みと広がりを備えたハワイの写真群を、いくつかのギャラリーで断続的に展覧会を開催するという形で展開している。10月の銀座ニコンサロンでの「KIPUKA」展に続いて、東京・馬喰町のKanzan Galleryでは、「FUKUSHIMA ONDO」展が開催された(キュレーションは原亜由美)。

岩根はハワイの「BON DANCE」に魅かれて、2006年から取材を続けてきた。その過程で福島の相馬盆唄の唄、踊り、太鼓や笛などを伝え、「FUKUSHIMA ONDO」として流布させるきっかけをつくった日系一世の4家族にたどり着く。今回の展示の中心は、それらの一家を撮影した家族写真の画像を、彼らが過ごしていた居留地の草むらや森に投影した作品である。ほかに、やはり岩根が長年にわたって撮影してきた日系移民の墓石群や「マウイ島に残された最後のサトウキビ畑」の写真、キラウエア火山の溶岩流をテーマとした映像作品《Fissure8》などが展示され、会場の中央には「FUKUSHIMA ONDO」の踊り手たちの手の動きをクローズアップで捉えた、長さ5mのパネルが置かれていた。

銀座ニコンサロンの展示でも感じたのだが、複雑に枝分かれし、異なる地域や時代を飛び越え、結びつけていく「KIPUKA」の写真群を、それほど大きくないスペースで見せるのはやや無理がある。だが、あたかも巡礼のようにギャラリーを回っていくことで、観客は、大きな会場で作品を見るのとはまた違った視覚的体験を味わうことができるではないだろうか。東京・西麻布のKana Kawanishi Photographyでも、同時期にパノラマ作品を中心にした「KIPUKA—Island in My Mind」展が開催された(11月24日〜12月22日)。これらの連続展の延長として、例えばハワイや福島での同作品の展示も考えられそうだ。とはいえ、やはりもっと広いスペースで、まとめて作品を見てみたいという気持ちも抑えがたい。

2018/11/18(日(飯沢耕太郎)

みくになえ「glare」

会期:2018/11/14~2018/11/25

72 Gallery[東京都]

みくになえの写真展のタイトルになっている「グレア現象」というのは、「車のヘッドライトの光が重なる時、人の姿が見えなくなる」状況を指す言葉だという。みくには、自動車教習所で免許取得の講義を受けている時に教科書でこの言葉を知り、強いインスピレーションを受ける。そこから「ヘッドライトの光が重なる時、失われた魂が再び浮かび上がることもあるんじゃないか」と妄想を膨らませて制作を開始したのが、今回の出品作「glare」である。

みくにの作品は、筆者も審査員のひとりである第34回東川町国際写真フェスティバルの「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」でグランプリを受賞して、今回の個展が実現した。だが、今年8月の受賞時にはまだ作品のクオリティが不十分で、実際に展示ができるかどうかが危ぶまれていた。その後、カメラを精度の高い一眼レフに変え、連続撮影などの手法も取り入れ、さらにスライド上映や展示の仕方もブラッシュアップすることで、見応えのある展示が実現した。あくまでもカメラの機能に身を委ねて、「人の姿が見えなくなる」という現象そのものを定着した写真群は、意図的な「絵作り」を禁欲的に避けることで、逆に観客のイマジネーションを喚起する魅力的な作品として成立していた。ユニークな思考力と実践力とを併せ持つ写真作家の登場といえるだろう。

多摩美術大学芸術学科出身のみくになえには、制作行為をきちんと言語化できる能力も備わっている。今後はそれを活かして、テキストと写真(映像)とを融合させた作品に向かうことも考えられるのではないだろうか。

2018/11/17(土)(飯沢耕太郎)