artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

台湾写真表現の今〈Inside/Outside〉

会期:2018/09/14~2018/09/29

東京藝術大学大学美術館[東京都]

東京藝術大学と台北駐日経済文化代表処は、2013年から「文化交流の促進及び台湾文化に対する認識向上」を目的として、「台湾・日本芸術文化交流事業」を開始した。その第6回目にあたる今年は、同大学美術学部先端芸術表現科の教員たちと東方設計大学美術工芸系助理教授の邱奕堅(チュー・イチェン)の共同企画により、「1960年代以降の生まれで、あまり日本では紹介される事の少なかった8名の写真家」による「台湾写真表現の今〈Inside/Outside〉」展が開催された。出品作家は陳淑貞(チェン・スウチェン)、杜韻飛(ドゥ・ユンフェイ)、候淑姿(ホウ・ルル・シュウズ)、邱國峻(チュー・クォチュン)、吳政璋(ウー・チェンチァン)、許曉薇(シュウ・ショウウェイ)、楊欽盛(ヤン・チンシェン)、趙炳文(チャオ・ビンウェン)である。

1980年代以降の経済発展、およびアメリカ、ヨーロッパ、日本などに留学していた写真家たちが相次いで帰国したことで、台湾の現代写真は、それまでのサロニズムやドキュメンタリー中心の表現から大きく脱皮していった。8人の作品を見ると、今や、彼らの表現のあり方がまさにグローバルなものであり、日本の写真家たちと比較しても、技巧的、内容的に非常に洗練されたものになってきていることがわかる。特徴的なのは、チェックアウト後のラブホテルの部屋を撮影した陳淑貞、東南アジアから渡ってきた移民二世たちのポートレートをトーマス・ルフばりの大判プリントで提示した杜韻飛、道路拡張のため取り壊された家の“田”の字の形に残された部屋の断面にカメラを向ける楊欽盛、農村地域の奇妙な建物群をタイポロジー的に記録する趙炳文など、台湾社会の変質に鋭敏に反応して作品化しようとする傾向が強いことである。逆に日本の同世代の写真家たちの作品には、そのような社会意識の欠如が著しい。

そうを考えると、台湾の写真家たちの営みは、アジア写真の現在と未来について多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか。本展のような、多チャンネルの「文化交流」の機会をもっと増やしていくべきだろう。

2018/09/25(火)(飯沢耕太郎)

石黒健治「HIROSHIMA 1965」

会期:2018/07/27~2018/09/30

Akio Nagasawa Gallery[東京都]

石黒健治は1965年3月から8月にかけて、原爆投下後20年を迎えた広島を訪れて写真を撮影した。『日本読書新聞』の連載記事「ヒロシマから広島へ」のための取材が目的だったが、はじめて広島に入ったとき、「なんだろう、これは」と思ったのだという。その「焦げたエアーに隙間なく包み込まれる感覚」は、撮影中ずっとつきまとうことになる。石黒は、そんな微かな違和感を手がかりにして、広島の街を歩き回り、シャッターを切り続けた。この時の写真と、その後何度か広島を訪れて撮影した写真をあわせて、1970年に深夜叢書社から「石黒健治作品集Ⅰ」として刊行されたのが、『広島 HIROSHIMA NOW』である。

今回のAkio Nagasawa Galleryでの展示は、当時のヴィンテージ・プリントを中心とするもので、新たに編集された写真集『HIROSHIMA 1965』(Akio Nagasawa Publishing)も同時に刊行された。あらためて石黒の広島の写真群を見直すと、それらがそれまでの報道写真的な取り組みとは、とはまったく違う解釈、視点で成立していることがわかる。戦後20年を経た広島は「日常の生活空間に復帰」しており、「原爆ドームも観光的なモニュメントに」なってしまっている。そんな広島の眺めを、石黒はあくまでも「焦げたエアー」という皮膚感覚、生理感覚を梃子として撮影していく。そのような「社会性」よりも「私性」に重心を置いた見方は、1960年代後半に形をとってくる「コンポラ写真」の先駆といえる。さらに言えば、石黒の「HIROSHIMA 1965」は、笹岡啓子の「PARK CITY」や藤岡亜弥の「川はゆく」など、より若い世代の広島の写真を予告するものでもあった。その先駆性を再評価すべきだろう。

©Kenji Ishiguro, Courtesy of Akio Nagasawa Gallery

2018/09/21(飯沢耕太郎)

下村兼史生誕115周年──100年前にカワセミを撮った男・写真展

会期:2018/09/21~2018/09/26

有楽町朝日ギャラリー[東京都]

1903年、佐賀市生まれの下村兼史(本名・兼二)は、鳥類の生態観察写真の先駆者として知られている。1922年に自宅の池の畔の赤松にとまったカワセミを、ガラス乾板で撮影した「原板第一号」を皮切りに、富士山麓、小笠原諸島、奄美大島、北千島など、日本各地の鳥類を撮影し続け、海外にまで名前が知られるようになった。名作『或日の干潟』(1940)など、記録映画のパイオニアのひとりでもあった。今回の展覧会は山階鳥類研究所が所蔵する、下村の1万点近いプリント、原板などの写真資料から厳選したもので、彼の生涯を辿る写真パネルや、特別出品されたグラフレックス・カメラなどの撮影機材とともに、充実した内容の展示となっていた。

現在のデジタル化された自然写真と比較すると、ピントを合わせるだけでも大変だった時代の下村の仕事は、ややプリミティブなものに思える。だが、望遠レンズをつけると重さが5キロ近くになるという大判カメラを三脚に据え、狙いを定めてシャッターを切った鳥たちの写真には、目を捉えて離さない不思議な魅力がある。中心となる被写体にピントを合わせ、背景を柔らかくぼかすやり方は、当時の「芸術写真」の美意識に則ったものだが、その絵画的なたたずまいが逆に新鮮に見えるのだ。下村だけでなく、戦前の自然写真をあらためて見直すいい機会になるのではないだろうか。

やや残念なことに、この展覧会は有楽町朝日ギャラリーの1カ所で、しかも短い会期で開催されるだけである。できれば、ほかの写真家たちも含めて、もうひと回り大きな展示の企画を期待したい。

2018/09/21(飯沢耕太郎)

1968年 激動の時代の芸術

会期:2018/09/19~2018/11/11

千葉市美術館[千葉県]

「1920年代」とか「1980年代」とかひとつのディケードをテーマにした展覧会はたまにあるが、それに比べて、ある特定の年に焦点を絞った展覧会は少ない。記憶にあるのは、目黒区美術館の「1953年ライトアップ」、東京都現代美術館の「よみがえる1964年」くらいか(両展とも1996年の開催)。展覧会というのは個展にしろテーマ展にしろ通史的に構成されるものが多いので、特定の年に絞ると時間的な推移が示せなくなるからだろう。一方で、地域性やジャンル間などの横との関係性が明確になり、時代性や社会背景を浮き彫りにしやすいメリットがある。ちょうど半世紀前の1968年が選ばれたのは、その年の美術を紹介したいというより、当時の美術を通して1968年という時代と社会を浮かび上がらせることが目的だったのではないかと思えてくる。

1968年というと、ノンポリのぼくでもパリの五月革命が思い浮かぶように、世界的な反体制運動の季節。日本でも全共闘などの学生運動やベ平連をはじめとする反戦運動などが盛り上がっていた。展覧会はそうした闘争を記録した東松照明や北井一夫らによる写真に始まり、橋本治による駒場祭のポスター、赤瀬川原平の『櫻画報』や「千円札裁判」の記録・資料、羽永光利による新宿風景やハプニングの写真、美共闘のガリ版刷りアジビラ、70年の万博および反万博の写真や資料、横尾忠則、粟津清らによる天井桟敷や状況劇場、暗黒舞踏の公演ポスター、つげ義春や林静一らの漫画、『プロヴォーク』の中平卓馬や森山大道によるブレ・ボケ写真、もの派や概念芸術の作品・資料まで、ざっと450点ほど。時代的には1968年を中心に、赤瀬川原平のいわゆる「千円札裁判」が始まる66年から、万博の開かれる70年まで幅をとっている。

よく半世紀も前のものをこれだけ集めたもんだと感心するが、お気づきのように記録写真や資料、ポスターや漫画などアーカイブやサブカルチャーものが大半を占め、いわゆる「美術作品」らしきものは少ない。もちろん写真も漫画もポスターも美術作品といえばいえるが、いずれも複製芸術であり、1点ものの絵画・彫刻となると、鶴岡政男の《ライフルマン》、山下菊二の《海を渡る捕虜服》、高松次郎ら「トリックス・アンド・ヴィジョン」の出品作、山口勝弘らによる環境芸術やインターメディア作品、李禹煥らのもの派の作品(再制作)など数えるほどしかない。まあ半世紀も前のことだし、当時はインスタレーションやパフォーマンスの先駆的作品が多く、作品自体がその場で消えて残っていないし、なにより「絵画」「彫刻」といった形式が風前の灯だったから仕方がないといえば仕方がない。その代わり勢いがあったのが、時代や社会を反映しやすい写真やポスターや漫画などのサブカルチャーだったというわけだ。見終わったときは美術展とは違い、資料の山にひととおり目を通したという快い疲労感が残った。

2018/09/18(村田真)

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アメリカ国立公文書館の新館(Archives Ⅱ)と写真アーカイブ

アメリカ国立公文書館の新館(Archives Ⅱ)[アメリカ合衆国 メリーランド州 カレッジパーク]

写真資料の調査のため、ワシントンD.C.郊外にあるアメリカ国立公文書館(または国立公文書記録管理局/National Archives and Records Administration、略称NARA)の新館(Archives Ⅱ)を訪れた。国立公文書館は、「独立宣言書」「合衆国憲法」「権利章典」という「自由の憲章」をはじめ、奴隷売買契約書、移民記録、従軍記録、外交文書など、国家の歴史文書を保存・公開するとともに、連邦各省庁の記録管理を監督している。1934年設立の本館が手狭になったため、資料の住み分けを行ない、研究者向けの施設として新館が1994年にオープンした。新館では、第一次世界大戦以降の紙資料と、写真や映像フィルムなど特別な保管庫が必要な資料を保管する。太平洋戦争や戦後の日米関係を調査する日本の研究者の利用も多い。


国立公文書館 新館の外観

新館は、2階は文書、3階は図面、4階は映像、音声、マイクロフィルム、5階は写真、6階は電子文書というように、資料媒体ごとに閲覧室が分かれている。また、アーカイブ一般の構造について補足すると、「開架式」が原則の図書館とは違って「閉架式」であり、見たい資料の入っている箱(ボックス)を特定して閲覧申請する必要がある。ボックスにはフォルダが収められ、それぞれのフォルダに何十枚、何百枚という文書や写真が収められている。また、データベースで簡単に検索できる図書館と違い、資料の量や種類の多様さのため、データベース化の整備が追い付かず、「紙の目録」に頼らざるをえない場合も多い。さらに、主題別に分類された図書館と異なり、アーカイブの分類方法(ファイリング・システム)は「出所の原則」と「原秩序尊重」に従うため、その資料を作成した組織ごとに管理され、作成者が構築した配列がそのまま維持される。従って、ファイリングの仕方が異なれば、資料の検索方法も異なり、まずはその仕組みを理解する必要がある。国立公文書館では、資料の作成・保管省庁ごとに「レコード・グループ(RG)」として1~500番余りまでの番号を割り当てている。

今回の調査の主な対象は、新館の写真閲覧室で見られる写真(950万枚以上)のうち、「RG 111-SC(米陸軍通信隊記録)」の「1941~54年」の写真アーカイブである。陸軍および陸上での活動が記録され、一部は米軍紙にも掲載されたため、報道色の強い写真も多く、撮影対象や地域は多岐にわたる。また、「RG 111-SC」は、テーマや地域別の目録が用意されておらず、カード・インデックスから見たいキーワードを探し、記載された番号の写真が収納されたボックスを閲覧申請する、という煩雑な手続きが必要になる。出納はボックス単位で行なうため、見たい写真を一本釣りすることができず、ボックスやフォルダごとにテーマや地域別に整理されているわけでもない。そのため、「写真のジャングル」とも形容される、脈絡のない膨大な写真群のなかを進みながら探すことになる。それは、海図のない航海、手探りで鉱脈を掘っていくような感覚だ。



左:キャビネットに収められた目録や有名写真のサンプル 右:検索用のカード・インデックス


写真資料の閲覧の様子

「RG 111-SC」の写真群の対象地域は、日本やアメリカだけでなく、かつての日本の占領地域も多く、同じく敗戦国のドイツやイタリアも含む。例えば、軍のパレードや公式行事、日本軍から押収した武器や設備類、戦犯の連行といった軍の活動記録。東京裁判や普通選挙、引き揚げの様子、水害や火事の災害現場など報道写真的なものもあれば、現地での軍の救援活動、市民や子どもとの交流など宣伝色の強い写真もある。人々が談笑するパーティーや、リゾートホテルでの休暇、スキーを楽しむ様子、観光写真的な風景写真、記念写真のスナップもある。それらに混じって突如、原爆のケロイド患者や焼け野原の市街地を写した写真が出現する。その遭遇がショックを与えるのは、イメージ自体の衝撃よりも、「写されたものの軽さ/重さ」にかかわらず、全てを等価なフォーマットの下、均質化してしまう写真の暴力的な力が露出するからだ。

こうした、写真イメージのカオティックな奔流とその暴力的な作用を浴びるような「写真アーカイブの体験」は、ゲルハルト・リヒターの《アトラス》を想起させた。リヒターが60年代初期から収集し始めた膨大な写真を700枚以上のパネルに貼付して展示する《アトラス》には、プライベートな家族写真、風景写真、静物、新聞や雑誌の切り抜き、商品広告、強制収容所の写真、ポルノ写真、ドイツ赤軍事件の報道写真など、極めて多様なイメージが整然と配列されている。「フォト・ペインティング」の元ネタの写真やドローイングも含まれ、資料的価値を有するだけでなく、戦後西ドイツの社会様相の記録(とその映像イメージにおける消費)という側面も持つ。リヒターの個人史、作品資料、社会様相の反映、イメージの氾濫/記憶の抑圧といったどのレベルで《アトラス》を受容・解釈するかは見る者に委ねられており、その開かれた構造は、見る者の欲望によってその都度異なる姿を現わす。

アーカイブに収められた写真群の間には、潜在的な読み取りへと開かれたネットワークが無数に張り巡らされ、内部で胎動している。厳密なグリッド構造、矩形で分割するフレーミング、通し番号によるリニアな秩序化は、安定した秩序を脅かそうとする写真の力を防波堤のように堰き止め、写真がある「量」的限界を超えた時に帯びる暴力性をなんとか制御しようとする抑制装置である。調査資料の収集過程に付随して、写真の「量」的作用が帯びる暴力性、内容の軽重とは無関係に全てを均質化してしまう暴力的な作用、内部で蠢く無数のネットワークの潜在性、そうした諸力と拮抗する制御装置としてのアーカイブ構造について、メタレベルで考える機会だった。


参考文献:
仲本和彦『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』(凱風社、2008)
佐藤洋一「集め、読み取り、伝えること 米国立公文書館から発掘した貴重写真」(『東京人』2016-9月号pp.82-85)

2018/09/17(月)(高嶋慈)