artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

題府基之「untitled(surround)」

会期:2018/12/02~2019/01/20

MISAKO & ROSEN[東京都]

題府基之は本作「untitled(surround)」からデジタルカメラで制作し始めた。多くの写真家にとってそうだが、デジタルカメラが「きれいに写り過ぎる」ことは、むしろ作品作りを難しくするようだ。題府はデジタルカメラの「ホワイトバランス」機能を逆用することで、その難題を切り抜けようとした。色味の設定をカメラまかせにすることで、画面全体が青みがかったり、逆に赤みが強まったりする。それとともに、フレーミングをわざと不安定にすることで、「崩れたバランス」を取り込もうとしている。結果的に、彼の新たな試みは、これまでとはやや違った雰囲気のシリーズとしてまとまった。

被写体そのものも、かなり違ってきている。これまでは部屋の中で撮影することが多かったが、今回は横浜市青葉区の実家の周辺を中心に、「郊外」の光景にカメラを向けている。本人のコメントによれば、「撮影エリアがホンマタカシと中平卓馬の中間」ということのようだ。だがエリアの問題だけでなく、縦位置に引き伸ばした、住宅や自販機やブロック塀など、身も蓋もない、そっけない眺めは、たしかにホンマや中平の写真を彷彿とさせるところがある。とはいえ、題府の「untitled(surround)」には、「いま」の空気感が確実に写り込んでおり、被写体の選択、配置もじつに的確だ。新たな「郊外写真」の可能性を感じさせるシリーズとして、成長していきそうな予感がする。

なお展覧会と同時期に、フランスの小説家、詩人のミシェル・ウェルベックと共作した写真文集『大型スーパー 11月(Hypermarché-November)』が「The Gould Collection Volume Three」としてパリと東京で発売された。題府の「Project Family」、「Still Life」、「untitled(surround)」の3シリーズから抜粋した写真と、ウェルベックの詩が合体している。写真とテキストとの絡みが絶妙で、見応え、読み応えのある本に仕上がっていた。

2018/12/13(木)(飯沢耕太郎)

小さいながらもたしかなこと 日本の新進作家vol.15

会期:2018/12/01~2019/01/27

東京都写真美術館[東京都]

この展覧会のタイトルを聞いた時に「またプライベート・フォトが並ぶのか」と思った。日本の現代写真において、私的な領域にこだわる写真がかなり多くの部分を占めていることは否定できない。「私写真」「日常写真」などと称される写真群は、たしかに身近な他者や日々の出来事を思いがけない角度から照らし出す新たな視点をつくり上げていった。だがそれらがいま、特に若い写真家たちのなかで、ある種のクリシェと化しつつあることも否定できない。本展もその流れのなかで企画されたのではないかと、やや危惧していたのだ。

ところが写真展に足を運び、森栄喜、ミヤギフトシ、細倉真弓、石野郁和、河合智子の作品を見て、それが杞憂だったことがわかった。ゲイにとっての家族のあり方を、セットアップした場面を設定して掘り下げていく森、やはり同性愛者の視点で、暗い部屋の中でひとりの男性と向き合う経験を視覚化するミヤギ、さまざまな階層、国籍、年齢の人々が入り混じって住む川崎という地域にスポットを当てた細倉、居住するアメリカと日本人という出自のギャップを、巧みに構築されたモノたちの写真であぶり出していく石野、ベルリンという都市の歴史・文化を、建築や彫刻をテーマに浮かび上がらせる河合──彼らの作品は、むしろ日常を支える社会的構造をしっかりと見据えて制作されていたのだ。個の領域は、歴史や社会との緊張関係を踏まえなければ明確には見えてこない。彼らには、その認識がきちんと共有されている。

石野以外の出品者が、写真とともに映像(動画)を展示に組み込んでいることも興味深い。流動化しつつある現実をつかみ取り、定着するのに、静止画像だけではもはや間に合わなくなってきているということだろうか。

2018/12/07(金)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00047017.json s 10151163

『プロヴォーク 復刻版 全三巻』

発行所:二手舎

発行日:2018/11/11

『プロヴォーク(PROVOKE)』は、いうまでもなく、1968〜69年にかけて中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦、森山大道(2号から)を同人として刊行された、伝説的な写真雑誌である。わずか3冊しか発行されなかったにもかかわらず、時代の息吹を体現した「アレ・ブレ・ボケ」の表現スタイルと、高度に練り上げられたテキストによって、同時代の日本の写真表現のあり方に決定的な影響を及ぼした。まさに現代日本写真の起点となった重要な出版物だが、発行部数が少なかったこともあって、古書価格が高騰し、普通にはとても手に入らない「幻の雑誌」になっていた。

今回、二手舎から刊行されたのは、その『プロヴォーク』3冊の復刻版である。じつは以前、カール・ラガーフェルドが企画した日本の重要な写真集をおさめた『THE JAPANESE BOX』(Steidl, 2001)でも、『プロヴォーク』の復刻が企てられたことがある。ところが、そこにおさめられたヴァージョンでは、同人のひとりである岡田隆彦のテキストが、著作権継承者の意向で全部抜け落ちていた。だが、今回はテキストと写真作品も含めて文字通り完全復刻されている。さらに大事なのは、収録されているテキストが、すべて英訳および中国語訳されていることである。そのことで、日本語が読めない読者にも『プロヴォーク』の革新性がより直接的に伝わるようになった。

近年、『プロヴォーク』の再評価は世界各地で急速に進みつつある。2015年には、アメリカのヒューストン美術館ほかで「For a New World to Come: Experiments in Japanese Art and Photography, 1968-1979」展が開催され、2016〜17年には、オーストリア・ウィーンのアルベルティーナ、スイスのヴィンタートゥール写真美術館などを大規模な「PROVOKE」展が巡回した。また、今年10〜12月に開催された香港国際写真フェスティバルでも「プロヴォーク特集」が組まれ、中平卓馬の個展やシンポジウムが開催された。『プロヴォーク』への関心は、今後さらに高まることが予想される。本書も基本的な文献資料として重要な役割を果たしていくのではないだろうか。

2018/12/06(木)(飯沢耕太郎)

草野庸子『Across the Sea』

発行所:roshin books

発行年:2018

昨年3月に東京・池ノ上のQUIET NOISEで個展「EVERYTHING IS TEMPORARY」を開催し、同名の写真集も刊行した草野庸子が、新作写真集を出版した。その『Across the Sea』はロンドン旅行で撮影したスナップ写真で構成されている。

淡いオレンジが黄緑へと移ろっていく「空」の写真からスタートし、旅先で出会った人、モノ、光をちりばめながら進んでいって、再び「空」の写真で終わる写真集の構成は、センスがいいとしか言いようがない。前作と比べると、ロンドンという時空間に限定されていることもあって、かなり異質な写真がせめぎ合っているにもかかわらず、すっきりとしたまとまりを保って目に飛び込んでくる。見ること、撮ることの弾むような歓びが感じられるいい写真集だった。

ただ、その先を見てみたいという思いがどうしても強まってくる。草野がなぜロンドンに行かなければならなかったのか、なぜこの写真集をまとめなければならなかったのか、その切実な理由がまったく伝わってこないのだ。あとがきにあたる「彼方へ」と題する文章で、彼女はこんなふうに書いている。

「彼方へ、遠くへ行きたいような、/此処に居続けていたいような、いつだって何もかもを/捨てられる身軽さに憧れ、その反面じめじめとした/ねちっこい執着も持っていたい。同じところをぐるぐるまわっている。」

素直な感慨だと思うが、「同じところをぐるぐるまわっている」だけでは仕方がないだろう。センスのよさだけで勝負できる時期はそれほど長くはない。そろそろ気合いを入れて、「初期代表作」に取り組んでほしいものだ。

2018/12/06(木)(飯沢耕太郎)

野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」

会期:2018/10/26~2018/12/24

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

野村恵子と古賀絵里子、女性写真家の2人展。野村は、雪深い山村に取材し、猟で仕留められた動物や闇を焦がす火祭りなどを生活風景とともに撮ったダイナミックな新作を展示。生と死、聖と俗、闇と光の混淆する力強い世界を提示した。また、ロードムービー風の匿名的な風景と女性ヌードが交錯する「赤い水」のシリーズ、自身のルーツである沖縄を撮ったシリーズも展示。とりわけ沖縄のシリーズは、寂れたスナック街、生活臭の漂う室内風景、ポートレート、ずらりと並べられたブタの頭部など、生と死が濃密に混ざり合った強烈な「南」の色彩とぬめるような湿気が同居する。

一方、古賀絵里子は、高野山を撮った「一山」のシリーズや、サンスクリット語で「三世」(前世・現世・来世)を意味する「TRYADHVAN」のシリーズを展示。僧侶との結婚や出産といったプライベートな出来事が撮影の契機にあるというが、私写真というより、生者と死者の記憶が曖昧に溶け合ったような幻想的な世界を四季の光景とともに写し取っている。なかでも、コンパクトなプリントサイズながら最も惹き込まれたのが、浅草の下町の長屋で暮らす老夫婦を6年間かけて撮った「浅草善哉」。展示空間は90度の角度で向き合う左右の壁に分かれ、右側の壁には、夫婦が営む小さな喫茶店の室内、カウンター越しの屈託のない笑顔、気温と天気が几帳面に綴られたカレンダーなど、2人がここで長年はぐくんできた生活の営みが活写される。一方、左側の壁に進むと、「老い」が確実に2人の身体や表情に表われる。セピア色になった、店を切り盛りする若い頃の写真の複写が挿入され、隣に置かれた老女の眼のアップは、彼女の視線がもはや未来ではなく、過去の追憶に向けられていることを暗示する。そして、無人になった室内、空っぽのカウンター、雨戸が閉ざされた店の外観が淡々と記録され、閉店と(おそらく)2人がもうこの世にはいないことを無言で告げる。ラストの1枚、店の前に佇む2人を車道越しに小さく捉えたショットは、現実の光景でありながら、彼岸に佇む2人を捉えたように感じられ、強い彼岸性を帯びて屹立する。ドキュメンタリーでありながら、写真が「フィクション」へと反転する、魔術的な瞬間がそこに立ち現われていた。

2018/12/05(水)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00046858.json s 10151117