artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

異郷のモダニズム─満洲写真全史─

会期:2017/04/29~2017/06/25

名古屋市美術館[愛知県]

1920年代~敗戦直後の四半世紀に「満洲」で展開された写真表現を検証する企画展。展示は5章から構成され、1920年代の「記録・啓蒙」、1930年代の作家主導による「芸術写真」、1940年代の官僚主導による「統制・プロパガンダ」という流れが提示される。
第I章では、〈満蒙印画協会〉を創設した写真家、櫻井一郎の精力的な仕事を紹介。1924年、大連で創刊された『満蒙印画輯』は、毎月10点の写真を解説付きで台紙に貼付し、購入者に届ける「写真頒布会」の制度により、各地の生活風俗、祭祀、寺院仏閣などの歴史的建造物、砂漠や山岳などの景観を記録し、内地に紹介した。その撮影範囲は満蒙(満洲と東モンゴル)から中国東部まで及び、砂漠、遊牧民、ラクダ、広大な大地といったイメージに加え、雲崗の石窟、三峡の景観、水都蘇州など、エキゾチシズムをかき立てる情景を精密なカメラアイで写し取っていった。毎月届けられるこれらの写真は、1年後にアルバムの表紙が送られて「写真集」が完成するというシステムからも、文化史・生活史の記録的価値とともに、領土獲得と一体となった「イメージの所有と収集」への欲望が伺える。
第II章では、櫻井の急死後、1928年に南満洲鉄道株式会社(満鉄)の弘報課嘱託として大連に渡った淵上白陽と、彼が1932年に組織した「満洲写真作家協会」のメンバーの写真が紹介される。1932年は「満洲国」建国と同年であり、翌年にはグラフ雑誌『満洲グラフ』が創刊された。大地を突き進む列車のスピード感を、印画紙をたわめて焼き付けた淵上の《列車驀進》は、今見ても斬新。また、さまざまな印画法を駆使して絵画的な質感や構図で表現するピクトリアリズム写真の実践は、農村の情景の牧歌的な理想化へと向けられた。ロシア革命と迫害を逃れて移住した白系ロシア人の村を撮影した写真群は、「ソ連批判」のメッセージを暗に担うが、異郷でつつましく暮らす人々への親密な眼差しが感じられる。また、工場や製鉄所といった近代産業建築が多く選ばれていることには、植民地経営の基幹のアピールとしての意味合いを含むが、建築的な構成美や煙と蒸気がもたらす光と影のドラマティックな効果を追求した画面は、政治的な意味合いをほとんど凌駕するほどに美しい。いや、むしろ「美」こそが、政治性を隠蔽する装置なのだ。
しかし、こうした写真表現としての実験的な視覚性の追求/国家と巨大資本による宣伝、という両者が通底しつつも拮抗する緊張感がはらむ美は、1940年代になると失速する。1940 年、官僚主導の下に「登録写真制度」が導入され、審査に通った写真家の登録という囲い込み/排除のシステムにより、国家的な統制が強まる。ピクトリアリズムや実験的な写真は否定され、表現としての強度も「主題」も平板化した「分かりやすい」写真が並んでいく。例えば、「民族の協和」といったイデオロギーの可視化、開拓移民の勤労などだ。また、欧米に倣って、洗練された誌面のグラフ雑誌が対外宣伝として多数刊行される。壁一面を覆い尽くす表紙の集合は圧巻だ。
そして、地下に降りた最終章の展示室で待ち受けるのが、打ち壊されて「廃墟」となった官庁舎、工場、製鉄所、発電所の姿である。これらはソ連軍による破壊と略奪の跡であり、敗戦後の日本の賠償能力について海外資産を調査するポーレー対日賠償調査団によって撮影された。米国国立公文書館が所蔵する報告書『ポーレー・ミッション・レポート』に添付された写真を大きく引き伸ばしたプリントも、破壊の衝撃を増幅する。大島渚の言を引けば「敗者は映像を持たない」ことの証左であるとともに、「ここにない」イメージ、つまり日本が大陸各地で行なった破壊行為のネガとしても顕現する。
こうした膨大な写真群を通して本展は、エキゾチシズムの表象、「芸術写真」の実験、プロパガンダの可視化、戦後処理の調査など、「満洲」という虚の空間において、複数の主体による要請がいかに駆動してイメージの可視化(と不在)を構成していたかを示していた。なお本展は、1994 年に同館で開催された「異郷のモダニズム 淵上白陽と満洲写真作家協会」展をバージョンアップした内容であり、第I章の『満蒙印画輯』と最終章の『ポーレー・ミッション・レポート』に収められた写真が新たに追加されている。アルバム状の印画集やアーカイヴの集合性の中から写真を取り出し、複写し、額装や引き伸ばしなどの手を加えて、美術館という凝視のための空間の中に置き換え、「作品」という自律的な単位の写真と並列的に並べること。そうした等価的な手続きをもって本展は、元の文脈からの切断というリスクを負いつつも、「資料」と「作品」への眼差しを均質的に均していこうとする意志でもって、「芸術性」を特権化することなく、満洲における写真実践を検証する姿勢を開いていた。

2017/06/24(土)(高嶋慈)

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東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館

会期:2017/06/22~2017/07/23

CHANEL NEXUS HALL[東京都]

「東京墓情」の「墓情」はいうまでもなく「慕情」の洒落だが、荒木経惟の作品世界をとてもうまく指し示す言葉だ。荒木は東京の下町の三ノ輪の出身だが、生家の前には「投げ込み寺」として知られる浄閑寺があり、身寄りのない遊女を供養した総霊塔は、子供時代の「インディアンの砦」だったという。また、彼が被写体としての花を意識するきっかけになったのは、1973年に浄閑寺の墓場の花を白バックで撮影したのがきっかけだった。つまり、「墓」のある眺めは、荒木の原風景であり、そこからごく自然に、東京を「墓場」に見立てる発想が湧いてきたのではないだろうか。「3・11」後のざわついた状況のなかで、彼はモノクロームの「東京墓情」シリーズを撮影し始める。そして、それらは旧作を加えて2016年にパリのギメ東洋美術館で開催された「Tombeau Tokyo」展で初めて公開されることになった。今回のCHANEL NEXUS HALLでの展示は、そのダイジェスト版というべきものだった。
とはいえ、東京での「東京墓情」展には、花と人形とオブジェを構成した新作のカラー作品と、ギメ東洋美術館の日本の古写真コレクションから荒木自身が選んだという15点の写真があわせて展示され、展覧会としてはまったく別な印象を与えるものになっていた。特に興味深いのは、幕末から明治中期にかけて撮影されたフェリーチェ・ベアト、日下部金兵衛、小川一真らの着色プリントの世界と、荒木の写真との意外なほどの近さである。これらの「横浜写真」は、主に日本を訪れた外国人旅行者のためのお土産用写真として撮影・販売されていたものだ。当時の日本の風景や日本人の風俗は、外国人のエキゾチシズムを喚起するテーマだったのだが、荒木の写真にも日常を異物化する視点があり、それが古写真と奇妙なかたちで共鳴しているように思える。
それにしても、今年に入って荒木の活動には再び加速がついてきている。同時期にタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムでは「写狂老人A 17.5.25で77齢 後期高齢写」展(5月25日~7月1日)が、新宿のエプサイトでは「花遊園」展(6月10日~6月29日)が開催された。今年は10くらいの展覧会企画が同時進行しているという。それらをつなぎ合わせていくと、荒木の作品世界の新たな切り口が見えてくるのではないかという予感がある。

2017/06/21(水)(飯沢耕太郎)

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大坪晶|白矢幸司「Memories and Records」

会期:2017/06/18~2017/07/15

ギャラリーあしやシューレ[兵庫県]

「記憶と記録」をキーワードにした2人展。セラミック(白矢)/写真(大坪)という異なるメディウムによって、物質を用いた「触覚的な痕跡」の可視化/「場に潜在するが、見えない記憶」への想起という対照的なアプローチが提示された。
白矢幸司は、シリカ、アルミナ、カルシウムという3つの物質(白色の粉末)を水と混ぜ、焼き固めたセラミック作品を制作している。一見、ミニマルな白い平面に見えるが、調合の微妙な差異により、さまざまに異なる表情を見せる。干上がった大地に走るひび割れ、ゴツゴツと固まった溶岩、細かい砂利の混ざった地表……。そうした自然の物理現象の痕跡を思わせるものがある一方で、雨に晒して水滴の落下を受け止めたものは、無数の弾痕が穿たれた壁を想起させる。黒いフレームに標本のように収められていることも相まって、負の記憶が刻まれた壁の一部が切り取られ、人為的な破壊の痕跡を留める遺物として保存され、「展示」されているようにも見える。だがそれらの「白い」表面が実際に喚起するのは、アンビヴァレンツな印象だ。確かに、それらの表面の複雑な起伏に満ちたテクスチャーは、自然界の力、あるいは人為的な暴力を受け止めた痕跡を感じさせる一方で、純白に輝いており、「痕跡であるが無垢である」という矛盾した声を響かせるのだ。また、別の視点から見れば、「白の単色の平面」であることは美術史的な記憶をも喚起する。例えば、マレーヴィチの《白の上の白》、とりわけ触覚性に着目すれば、石膏やコットン・ボールなどを使用したマンゾーニの《アクローム》絵画が連想され、美術史的な記憶を投影される表面としても立ち現われる。


白矢幸司《after the rain》2017


一方、大坪晶の写真作品《Shadow in the House》にも、「白い壁」を撮影した一枚がある。一見、真っ白な画面だが、元の壁を白いペンキで塗り直した刷毛のストロークが残り、さらにその表面には細かいひび割れが走り、時間の経過を物語る。ここでは、「白い表面」を写した写真の中に、元の壁が建てられた時間、白く塗り直された時間、そしてペンキの層が劣化して剥がれ始めるまでの時間、という複数の時間が積層しているのだ。
大坪の《Shadow in the House》は、「接収住宅」(第二次世界大戦後のGHQによる占領期に、高級将校とその家族の住居として使用するため、強制的に接収された個人邸宅)を被写体としている。接収された住宅の多くは、GHQの指示に従い、内装の補修や壁の塗装、配管や暖房設備、ジープを駐車する車庫の新設など、さまざまな改修がなされた。大坪の写真が記録として捉えるのは、そうしたGHQによる改修の痕跡に加え、陽に焼けて色褪せた壁紙や擦り切れた絨毯など、かつてそこで暮らしていた人々の日常生活の痕跡が宿るディティールである。さらに、写された室内空間に目を凝らすと、おぼろげな気配のように、あるかなきかの影が亡霊のように画面に写り込んでいることに気づく。
「接収住宅」の室内空間は、敗戦を契機に文化圏を超えて人々が移動したことで、異文化が接触した現場でもある。大坪は、多層的な記憶が深く沈殿した室内空間に、長時間露光によって影のような痕跡を写し込む操作を加えることで、場に潜在するが可視的でない記憶をどう想起するか、という困難な営みに向かい合う。「不在」によって存在を証立てる「影」は、強い指標性をもつ明確なシルエットではなく、指示内容が曖昧なままであることで、充填を待ち受ける空白として働く。接収前に住んでいた住人、GHQの将校とその家族、返還後の住人……。「影」の主はそのどれでもありえ、あるいはそれら複数の記憶が多重露光的に重なり合い、判別不可能になったものとも解釈できる。そのあるかなきかの儚さは、もはや明確な像を結ぶことのできない記憶の忘却を指し示すと同時に、それでもなお困難な想起へと向けて開かれた通路でもある。


大坪晶《Shadow in the House - 旧安田邸》Type C Print, 2017


2017/06/18(日)(高嶋慈)

鏡と穴──彫刻と写真の界面 vol.2 澤田育久

会期:2017/05/27~2017/07/01

gallery αM[東京都]

光田ゆりがキュレーションする連続展「鏡と穴──彫刻と写真の界面」の第2弾。前回の高木こずえ展も面白かったが、今回の澤田育久展もなかなかスリリングな展示だった。澤田は1970年、東京生まれ。金村修のワークショップに参加して本格的に写真家としての活動を開始し、現在は東京・神田神保町の写真ギャラリー「The White」を運営している。今回展示された「closed circuit」シリーズは、2012年11月~2012年10月に、1年間にわたって毎月1度個展を開催して発表したものである。
撮影されているのは、地下鉄の駅と思しき、白っぽい材料で覆い尽くされた無機質な空間である。「日常的に撮影できること」、「撮影場所をありふれた公共的な場所」に限定するという条件を課して撮影されたそれらの写真群は、ツルツルのプラスチック的な質感を持つペーパーに大きく引伸ばして出力され、壁に貼られたり、ワイヤーからクリップで吊り下げられたりして展示されていた。撮影、プリント、展示のプロセスは、きわめて的確に選択されており、現代日本における社会的、空間的な体験のあり方を見事に体現している。澤田の展示をきちんと見るのは今回が初めてだったが、思考力と実践力を備えたスケールの大きな才能の持ち主だと思う。
ワイヤーから吊り下げられた作品は、横幅が壁の作品の半分で、画面が二分割されてスリットが覗いている。そのために画像に微妙なズレが生じているのだが、「視線の移動に伴う対象同士の関係性の変化を通して撮影時の状況に似た体験を鑑賞者に与える」という展示の意図が、そこでも的確な視覚的効果として実現していた。

2017/06/16(金)(飯沢耕太郎)

新居上実「配置」

会期:2017/06/08~2017/07/02

Kanzan Gallery[東京都]

新居上実(にい・たかみつ)は1987年、岐阜県生まれ。2014年の第11回写真「1_WALL」展でファイナリストに選出されている。今回のKanzan Galleryでの個展には7点の作品が展示されているが、そのうち5点はバックライトフィルムにインクジェットプリンタで出力した写真を、ライトボックスにおさめて壁に掛けてある。ほかの2点は、オフセットで印刷した写真で、テーブルの上に重ねておき、観客が自由に持ち帰ることができるようになっていた。被写体は石、紙、スチロールなどの断片的、日常的な物体で、それらを机や床の上に直接置いたり、ビニールシートや布を敷いて並べたりしている。おおむねストレートな描写だが、写真を8枚モザイク状に置いて、それを複写した作品もあった。
とてもセンスのよい、よく考えられたインスタレーションで、作品化の手際も申し分ないのだが、どこか既視感を覚えるのは否めない。物体をランダムに配置して、デジタル変換を加えて味付けしていく「テーブル・マジック」的なアプローチが、すでにありふれたものになってきているということだろう。ここからもう一歩作業を進めていくための、具体的かつ必然性のあるアイデアがほしいところだ。なお、本展は菊田樹子がキュレーションする連続展「写真/空間」の2回目の展示だった。「写真の内と外に立ち現れる空間について考える」というコンセプトが、偶然ではあるが、ごく近い会場で開催中の「鏡と穴──彫刻と写真の界面」展と共通していたのが興味深かった。

2017/06/16(金)(飯沢耕太郎)