artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

荒木経惟「センチメンタルな旅 1971─2017─」

会期:2017/07/25~2017/09/24

東京都写真美術館[東京都]

昨年9月のリニューアル・オープン以来、「総合開館20周年記念」として開催されてきた東京都写真美術館の企画展の掉尾を飾るのは、荒木経惟の「センチメンタルな旅 1971─2017─」だった。彼の「私小説としての写真」の起点となった私家版写真集『センチメンタルな旅』から、新作の「写狂老人A日記 2017.1.1─2017.1.27─2017.3.2」まで、1990年に亡くなった妻、陽子さんとのプライべートな関係を投影した写真を集成した展示である。
「わが愛、陽子」、「東京は、秋」、「食事」、「空景/近景」、「遺作 空2」といったよく知られた作品に加えて、「プロローグ」のパートに展示された、二人が出会ったばかりの時期の日常を綴った「愛のプロローグ ぼくの陽子」(モノクロ/カラーポジ、100点)など、初公開の作品もある。まさに彼の「写真家人生」における最も重要な写真群であり、荒木にとって陽子の存在が、写真家としての方向性を定め、実践していくプロセスにおいていかに大切なものだったのかがヴィヴィッドに伝わってきた。とはいえ、荒木と陽子の関係は一筋縄ではいかない。「陽子のメモワール」のパートに展示された「ノスタルジアの夜」や「愛のバルコニー」といったシリーズを見ると、「撮る─撮られる」、「見る─見られる」という二人の行為が、時には一般的な男女の関係を踏み越えるほどの激しさでエスカレートしていることがわかる。荒木と陽子の物語は、予定調和にはおさまり切れない歪みや軋みを含み込んでいたのではないだろうか。
それにしても、今年は時ならぬ「荒木祭り」になりそうだ。年末の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の「私、写真。」展を含めて、20以上の企画が進行しているという。この凄まじいエネルギーの噴出ぶりはただごとではない。

2017/07/24(月)(飯沢耕太郎)

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赤鹿麻耶「大きくて軽い、小さくて重い」

会期:2017/07/18~2017/08/26

Kanzan Gallery[東京都]

展覧会のキュレーターやプロデューサーの役割については懐疑的な意見もあるが、赤鹿麻耶の今回の展示などを見ると、やはり大きな意味を持つのではないかと感じる。本展は、菊田樹子のキュレーションによってKanzan Galleryで開催されている連続展「写真/空間」の第3回目にあたる。それを見ると、いつもの赤鹿の、空き地や銭湯などで展開される、ごった煮状態のインスタレーションとはかなり違った印象を受けたからだ。
といっても、ポートレート、スナップ写真、オブジェを使った演出写真などが見境なく混じり合う構造に違いはない。だが、今回のようなホワイト・キューブでの展示空間を構成するにあたって、菊田はあえて「展示方法のディテール(大きさ、並べ方、印画紙の平面やたわみ、浮かぶことや隔てられることに起因する見え方の違い)に変化をつけた」という。そのことによって、野放図に伸び広がって、収拾がつかなくなりがちな赤鹿の作品が、すっきりと目に収まって見えるようになった。あまりコントロールを効かせすぎると、パワーが落ちてまとまりすぎになるが、そのあたりのバランス感覚が、とてもうまくいっていた。
「他人の見た夢」の再現、視覚化というこのシリーズの狙いも、しっかりと伝わってきた。これもやり方次第では混乱しがちなテーマだが、今回は丁寧につくり込まれていて説得力がある。まさに「大きくて軽い、小さくて重い」という、矛盾や飛躍を含んだ「夢」の構造に、全力でにじり寄ろうとしていることが伝わってきた。ただ、それぞれの写真のキャプションやテキストがすべて省かれているのが気になる。夢を言葉で捕獲・記述して、写真と対照させていくことも考えられそうだ。

2017/07/23(日)(飯沢耕太郎)

川口和之「PROSPECTS」

会期:2017/07/22~2017/08/06

photographers' gallery[東京都]

川口和之は1958年、兵庫県姫路市生まれ。1977年に写真家集団Photo Streetを結成し、その中心メンバーとして主に路上の光景を撮影・記録し続けてきた。写真集として『Only Yesterday』(蒼穹舎、2010)、『沖縄幻視行』(同、2015)などがある。
今回展示された「PROSPECTS」(2011~17)は、川口にとっては身近な地域である大阪府から岡山県にかけて、つまり明治以前の呼称でいえば、摂津、播磨、丹波、但馬、淡路、備前あたりの眺めを、淡々と、感情移入することなく撮影したシリーズである。それらの写真を見ていると、いま日本の地方都市を覆い尽くそうとしている、「穏やかな滅び」の気配が色濃くあらわれていることに気がつく。歯が抜けたように空き地が目立つ商店街、まったく人気のない街並、白々とした舗装道路、妙にポップな看板、建て増しでアンバランスになってしまった家々──川口は、それらの見方によってはネガティブで物寂しい光景を、4000万画素を超えるデジタルカメラで、細部まで丁寧に写しとっていく。
モノクロームという選択肢もあったはずだが、あえてカラープリントに仕上げたのがよかったのではないだろうか。モノクロームだと情緒的に見えかねない街の眺めの、なんとも言いようのない身も蓋もなさが、ありありと提示されているからだ。それはまさに、2010年代後半の日本のPROSPECTS(眺望、予兆、展望)そのものといえる。なお展覧会にあわせてPhoto Streetから同名の写真集が刊行された。素っ気ないレポート風の装丁が、掲載されている写真の内容とうまくマッチしている。

2017/07/23(日)(飯沢耕太郎)

カミナリとアート 光/電気/神さま

会期:2017/07/15~2017/09/03

群馬県立館林美術館[群馬県]

文字どおり雷をテーマとした企画展。自然現象としての稲妻を主題とした絵画や写真、雷神像など信仰心から生まれた民俗学的な資料、さらには雷を構成する光、音、そして電気などで表現された現代美術の作品など、69点が展示された。
同館がある関東平野の北部は、もともと雷が多発する地域として知られているが、昨今の異常気象は雷の脅威が特定の地域に限定されないことを如実に物語っている。ただ、その閃光と雷鳴が人々の恐怖を駆り立てることは事実だとしても、大地に轟くような音とともに空を走る稲妻の光線にある種の美しさや高揚感を感じることもまた否定できない。人間にとって雷とは両義的な自然現象であり、それゆえ崇高の対象であると言えるかもしれない。
バークやカントが練り上げた崇高論の要諦は、それを美と切り離しつつも、その根底にある種の逆転構造を見出した点にある。すなわち不快の経験がいつのまにか快楽のそれに転じること。アルプスの険しい山岳にせよドーバー海峡の荒々しい大海原にせよ、人間の生存を脅かしかねないほど強大な自然の猛威を目の当たりにした人々は、それに慄きながらも、同時に、それに惹きつけられる矛盾した心情を抱いた。自然への畏怖が時として畏敬の念に転じるような逆転する美学的概念こそが崇高にほかならない。
そのような観点から本展を鑑賞してみると、いわゆる「美術」の作品と「民俗」学的な資料とのあいだに歴然とした差を痛感せざるをえない。後者が崇高的な両義性を内包しているように感じられる反面、前者はおよそ一面的であるように感じられるからだ。富士山の前に立ち込めた暗雲の中に走る稲妻を描いた《怒る富士》(1944)であれ、白髪一雄の《普門品雷鼓制電》(1980)であれ、確かに雷の恐ろしさや激烈なエネルギーを体感することはできるが、崇高的な逆転構造を見出すことは難しい。それに対して、前近代の絵師たちが描いた風神雷神図はおおむねユーモラスに描写することによって、そのような逆転構造をよりいっそう強調しているように見える。一見すると雷の壮大な脅威にはそぐわないようだが、風神雷神をチャーミングなキャラクターとして描写することが、じつのところ雷の暴力性を逆照しているからだ。雷が恐ろしい現象であることが前提となっているからこそ、それをあえて脱力したキャラクターとして形象化していると言ってもいい。
現代社会から遠のいてゆく崇高──。むろんバークやカントが想定していた自然の崇高は、今日の都市社会においては、さほど大きなリアリティをもっているとは言い難い。その対象を人工的な都市社会に差し替えた「テクノロジー的崇高」なる概念が捻出されたこともあったが、前近代の人々と比べれば、現代人が雷の脅威に直面する機会は乏しいことに変わりはない。
ところが唯一の例外として考えられるが、ストーム・チェイサーこと青木豊である。嵐を追跡して観測・撮影するプロフェッショナルで、特に現代美術のアーティストというわけではないし、現代写真のフォトグラファーというわけでもないのだろうが、青木こそ、今日の崇高を体現する希少なクリエイターではなかったか。なぜなら彼が撮影した写真には、稲妻の美しさと恐ろしさが渾然一体となって写し出されていることが一目瞭然であるからだ。しかし、それだけではない。その写真には、本来であれば一目散に逃げ出さなければならないはずの雷を、逆に率先して発見して追い求める、異常なまでの執着心がにじみ出ている。あるいは、恐ろしさの痕跡が抹消されているように感じられるほど美しさが際立っている。こう言ってよければ、その狂気をはらんだ熱意に恐ろしさを感じるのだ。
不快の経験から快感のそれを導くのでなく、逆に、快感の経験を突き詰めることによって不快のそれを引き出す。やや大げさに言い換えれば、青木豊の仕事はバークやカントの逆転構造をさらに逆転させているのではないか。そこにこそ今日の崇高が立ち現われている。

2017/07/20(木)(福住廉)

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プレビュー:東アジア文化都市2017京都 アジア回廊 現代美術展

会期:2017/08/19~2017/10/15

二条城、京都芸術センター[京都府]

日中韓の3カ国から選ばれた3都市が交流し、1年間を通じてさまざまな文化芸術プログラムを行なう「東アジア文化都市」。今年は日本の京都市、中国の長沙市、韓国の大邱広域市が選ばれた。「現代美術展」は、京都市のコア期間事業「アジア回廊」のメインプログラムである。会場は世界遺産・元離宮二条城と京都芸術センターの2カ所、建畠晢がアーティスティック・ディレクターを務め、参加アーティストは、西京人、草間彌生、中原浩大、やなぎみわ、キムスージャ、ヒョンギョン、蔡國強、ヤン・フードンなど25組である。昨年の日本会場だった奈良市では、東大寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺などの有名社寺を舞台に、大規模な現代美術展が繰り広げられた。今回は2会場と小ぶりな規模に落ち着いたが、その分濃密な展示が行なわれることを期待しよう。両会場は地下鉄で行き来でき、市内中心部のギャラリーや観光名所(平安神宮、南禅寺、知恩院など)にも地下鉄1本でアクセスできる。遠方の方は、京都観光も兼ねて出かけるのが良いと思う。

2017/07/20(木)(小吹隆文)

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