artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
濱田祐史「Broken Chord」
会期:2017/05/10~2017/07/08
PGI[東京都]
濱田祐史は「写真力」の高い写真家だと思う。これまでも、スモークで光を可視化したり(「Pulsar」2013)、被写体を色面に解体して再構築したりするなど(「C/M/Y」2015)、写真という表現メディアの可能性を高度に活かした作品を発表してきた。ただ、アイディアがあまりにも多彩なのと、その作品化の手際が鮮やかすぎて、どことなく小さくまとまった印象を与えることが多かった。だが、今回の「Broken Chord」のシリーズを見ると、その彼の「写真力」が、ようやく地に足がついたものとして発揮されつつあることがわかる。
今回は珍しくモノクローム作品で、2016年の9月からポーランドのヴロツワフに約1カ月滞在して撮影した写真を中心に構成している。ヴロツワフは過去にドイツ領だった時期もある街で、用済みになったポスターが壁に何重にも貼られていたり、建物の壁が何度となく塗り替えられたりしている眺めに、歴史や記憶の蓄積を感じないわけにはいかなかった。今回のシリーズは、その体験を強調するように、街中の矩形の構造を抽出してプリントしている。また「撮影した後に自身が滞在した記憶の蓄積も作品の鍵になる」と考えて、2台の引伸機を使った多重露光も試みている。結果的によく考えて制作されたシリーズになったのだが、むしろそのまとまりを壊すように展示の最後のパートに置かれた、やや引き気味の都市の遠景の写真群が興味深かった。作品の完結性を一旦保留して、より大きく拡張しようとしているところに、濱田の成長があらわれている。これで終わりにしないで、この「Broken Chord」の方法論をほかの都市(例えば日本)でも試みてみるのはどうだろうか。
2017/05/26(金)(飯沢耕太郎)
むらたちひろ internal works / 水面にしみる舟底
会期:2017/05/16~2017/05/28
ギャラリー揺[京都府]
ろうけつ染めや型染を応用した独自の技法を用い、染めた布を水で滲ませることで、揺らぎを伴った流動的なイメージを「絵画作品」として発表してきたむらたちひろ。本個展では、写真を素材に用いた新たな試みが発表された。
身近な風景を撮影し、写真の画像データをインクジェット捺染で布の片面(A面)にプリントする。これを裏返した面(B面)を水で濡らすと、A面にのっている染料が水に浸透し、裏のB面に滲み出てくる。展示されているのはB面のほうだ。水で濡らされた箇所は、そこだけ光が差し込んだかのように、鮮やかな色が息づく。画像データが染料という物質に変わり、水の浸透という物理現象によってイメージが出現する様は、写真の現像プロセスそれ自体の反復を思わせる。また、染料が水に溶けて曖昧に滲んだイメージは、記憶のプロセスともアナロジカルだ。裏側へいったん遠のいたイメージが、水という媒体を経て、鮮やかに浮かび上がる。写真に写った何かがトリガーになり、薄れかけた記憶がふと蘇る。ここで「浸透する水」は、写真を事後的に眼差す「視線」の謂いとなる。だが記憶は完全なかたちで蘇ることはなく、滲みや歪みを伴い、不鮮明な領域や欠落をその背後に抱え持っているだろう。
このように、染色を用いたむらたの作品は、「写真」と「記憶」をめぐる思考の可能性を宿している。今はまだ実験的な段階かもしれないが、撮るモチーフの選択、使用する写真自体の選択(自分で撮った写真/他人の写真の引用/古写真を使うなど)、「滲み」の形態に積極的な意味を持たせるかどうかなどの点をさらに吟味すれば、より発展的な作品へと結実するのではないだろうか。
2017/05/26(金)(高嶋慈)
甲斐啓二郎「Opens and Stands Up」
会期:2017/05/23~2017/06/04
甲斐啓二郎は、2013年に同じTOTEM POLE PHOTO GALLERYで、「Shrove Tuesday」展を開催した。イギリスの村で350年余り続いている、村中の男たちがボールを蹴り合う「Shrovetide Football」という行事を取材した作品である。今回展示された「Opens and Stands Up」はそれとよく似ているが、東ヨーロッパのジョージア(グルジア)の村に伝わる、やはりひとつのボールを巡って男たちが体を張って争う「Lelo」という行事を取り上げている。村を流れる川の両岸でチーム分けをすることや、ほとんどルールがなく、教会以外は村中のあらゆる場所が舞台になることも共通している。「Shrovetide Football」がサッカーの原型だとすると、こちらはラグビーの起源となる行事ということだ。
「Shrovetide Football」もそうだったのだが、甲斐はあえて中心的な被写体であるボールを画面に写しこまないようにしている。そのことによって、純粋な体と体のぶつかり合い、感情の高ぶり、男たちの悲痛な表情が強調される。2014年に、やはりTOTEM POLE PHOTO GALLERYで展示され、2016年に「写真の会賞」を受賞した「手負いの熊」展(長野県野沢温泉村の道祖神祭「火付け」を撮影)もそうだったのだが、甲斐が目指している、民俗行事を撮影することで、スポーツや戦争の起源となる状況を浮かび上がらせるという意図がよく実現された展示だった。
こうなると、これまで撮影してきたいくつかの行事を、横糸で繋いでいくような構造を持つ、よりスケールの大きな作品を見たくなってくる。今回は13点と作品数がやや少なかったが、もう少し大きな会場での展示、ボリュームのある写真集の企画をぜひ実現してもらいたいものだ。
2017/05/24(水)(飯沢耕太郎)
千一億光年トンネル
会期:2017/05/20~2017/08/06
ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション[東京都]
若手作家への支援なのか、コレクション展だけでは人が集まらないからなのか、理由はどうあれ、個人美術館が現代美術展を企画するようになったことは歓迎すべきだ。今回は奥村綱雄、Nerhol、水戸部七絵に浜口陽三を加えた4人展。奥村はビルの警備のかたわら、夜の守衛室で黙々と刺繍を制作しているという。さまざまな色を密集させた刺繍は縦横20センチ程度と小さいものの、仕上げるまでに1点1年以上かかり、これまで15点しか制作してない。そのうち7点を公開し、併せて守衛室で刺繍する自撮りポートレートや刺繍道具なども展示。Nerholは、少しずつ異なる木のかたまりを撮った「multiple-roadside tree」のシリーズが中心。これは街路樹の切り株をスライスして1枚1枚撮影し、プリントを重ねたもの。平面+奥行きに時間までも入れ込んだ4次元写真だ。水戸部は油絵具を鉄製パネルに大量に盛った半立体絵画。だが、あまりに重いため4点中3点は寝かせている。モチーフはすべて人体か顔。いずれの作品も時間の蓄積を感じさせ、それが「千一億光年」という大げさなタイトルになったんだと思う。
2017/05/24(水)(村田真)
阿部淳「写真書簡」
会期:2017/05/09~2017/05/31
デジカメとインクジェットプリントが普及する以前、裏面が印画紙になったハガキが販売されていた。自分で写真を焼き付け、切手を貼って投函すれば相手に届く、お手製のポストカードである。阿部淳はこれを使い、1982年7月5日から1984年の3月13日まで、「毎週、月水金に郵送する」というルールを決めて、スタジオシーンという写真事務所に写真を送り続けていた。そしていったん中断した後、1997年5月に再開し、2000年2月まで続けた。本展は、ハガキの郵送という手段で発表されたこれらの「写真書簡」を、アーカイヴァルな展示として紹介するものだ。写真はすべてモノクロで、都市空間、路上でのポートレイト、動物などを陰影のコントラストや緊張感ある構図で切り取ったスナップショットが多い。
ギャラリーでの展示や写真集の刊行、雑誌への掲載といった既存の定住地ではなく、郵便制度を介して「作品」を流通させること。既存の制度とは別の、外部の回路を作品伝達の手段とする姿勢は、メール・アートとそのラディカルな実験性を想起させる。だが、そうした阿部の「写真書簡」を、ギャラリー空間で「展示」することは、アーカイヴァルな検証可能性を開く反面、再び制度内へと回収し、物象化・商品化してしまう危険性をはらむ。そうした問題に対して本展は、1982~84年の前半期と1997~2000年の後半期で異なる2つの展示形態を採ることで、巧妙に回避していた。
まず、前半期の「写真書簡」は、2枚1組でグリッド状に整然と展示されている。これは、元々阿部自身が、送った順に2枚を1セットとして、写真集の左右見開きのように構成を考えていたことに基づく。いわば、「1ページ毎にバラして送られた写真集」「構想されたが存在しない写真集」を、見開きページの連続として「復元」する試みだ。これにより、左右の2枚どうしの主題、諧調、構図のリンクやバランスが「再発見」される(さらにここでは、単体では完結せず、つねに関係性のなかで読まれる存在としての写真が浮上する)。「未完の写真集」の潜在的な構想を「復元」するというこの手続きを支えるのが、ハガキの表面に宛名などとともに記された日付とナンバリングである。この時、時系列のオーダーは本というリニアな構造へそのままパラレルに移行し、リニアな構造を支える秩序として振る舞う。
一方、後半期の「写真書簡」は、「イメージ」単体の/見開きの構成としての完成度を見せるのではなく、無造作に積み上げられたハガキの山の物量感が、物質的な堆積として提示される。表も裏もごっちゃになったその集積の中では、宛名と住所、差出人の記名、日付とナンバリング、さらに切手と消印、「郵便ハガキ」の印字といった「作品以外」の情報がノイズとして露出する。いや、ここでは、作品の「内」と「外」、「表」と「裏」の区別は曖昧に融解し、むしろそうしたノイズ的な情報こそが、これらが「ハガキ」であることを証立て、プリントされた写真イメージを表裏一体のものとして支えている。ここで浮上するのは、例えば旅先から送る絵ハガキや家族写真がプリントされた年賀状のように、送る側も受け取る側も楽しむコミュニケーションツールとしての写真のあり方である。
阿部の「写真書簡」は、写真のコミュニケーションツールとしての性格に着目し、「作品=ハガキ」を流通の海に潔く投げ込む一方で、「写真集」としての美的な構成の潜在性も担保する。それは一見、実験性と保守性が同居し、どちらにも振り切れない折衷的な姿勢ともとれる。しかし、純然たる「作品」であると同時に「コミュニケーションツール」でもあり、「非物質的な画像」でありながらもさまざまな情報が刻印される物質的表面を持ち、そうした相反する性質が幾重にも折り重なった「写真」の複雑さを照射しているのではないか。
2017/05/20(土)(高嶋慈)